2009年の核廃絶提言

胸襟を開いた「対話」こそ平和建設のカギ 歴史の教訓から活路探る努力を

第3段
胸襟を開いた「対話」こそ平和建設のカギ 歴史の教訓から活路探る努力を

終末時計に込めた科学者たちの憂慮

そこで、「自己教育」というトインビー博士の言葉を手がかりに、これらの自問にも関わる歴史の教訓を掘り下げてみたい。

まず、核兵器誕生の前後に科学者たちが直面した葛藤に焦点を当て、核兵器に対する考え方を問い直していくことです。

今や存在が当たり前のようにみなされている核兵器ですが、その誕生に携わった少なからぬ数の科学者が憂慮や躊躇を示していた“望まれない兵器”であったことを、まず思い起こす必要があります。

第2次世界大戦が始まる前年(1938年12月)、ベルリンでウランを使って人工的に核分裂を引き起こす実験が成功しました。

実験に携わった科学者オットー・ハーンは、その恐ろしい可能性に気づき、手持ちのウランをすべて海に投棄して、自殺することを考えたほどだったといわれています。また翌39年に、原爆製造の次の関門とされた核分裂の連鎖反応の可能性を立証したレオ・シラードも悲劇を予感し、「私は世界が悲しみに向かっていることを知った」と述べざるを得ませんでした(シドニー・レンズ著『核兵器は世界をどう変えたか』矢ケ崎誠治訳、草思社)。

そして、シカゴ大学の原子炉で連鎖反応の制御が成功し、マンハッタン計画が軌道に乗った後、いよいよ最初の核実験が行われるという直前(45年7月)に、兵器としての使用を見合わせるよう求める請願書をまとめたのも、同大学で核開発に携わった科学者たちだったのです。

思えば、私がシカゴ大学を訪れたのは、SGIの発足を目前に控えた75年1月のことでした。大学首脳との会談や図書館の視察を行った折に、キャンパスの一角にある核開発の記念碑を目にし、往時の科学者たちの呻吟や苦衷に思いを馳せたことを覚えています。

その1週間ほど前にニューヨークの国連本部を訪問し、創価学会青年部が集めた核廃絶を求める1000万人の署名簿を提出したばかりでした。それだけに、核廃絶への決意がひときわ強く胸に刻まれました。

シカゴ大学には「終末時計」が設置されており、核戦争の危険度が、世界の状況の変化に応じて、そのつど示されてきました。

私たちは、こうした核開発の裏面史を見つめ直し、「終末時計」に込められた先人たちの憂慮の意味をかみしめていく必要があるのではないでしょうか。

先入観やイメージで目を曇らせない

次に、核時代の中で起こった危機や出来事に政治指導者がどう対応したのかを振り返り、その経験と教訓から学ぶことです。

現代史をひもとくと、これまで何度も核兵器の使用が検討された事態があったことがわかります。なかでも最も深刻で切迫したのが、米ソが核戦争の瀬戸際に立たされた、62年10月のキューバ危機でした。

このキューバ危機を経た後のケネディ大統領の行動として注目すべきは、ソ連との平和共存の可能性を探る前提として、敵意や偏見を払拭する重要性を呼びかけていた点です。

「平和の戦略」と題する有名な演説(63年6月)で大統領は、ソ連によるアメリカへの非難に言及した上で、こう訴えました。

「このようなソ連の言い分を読み、米ソ間の間隙がいかに大きいかを知ると、悲観せざるを得ません。しかし、それは同時に警告であり、ソ連と同じような落し穴に陥らないよう、相手方のゆがめられた絶望的な見方だけ見ることのないよう、紛争を不可避と考えたり、協調を不可能と見たり、コミュニケーションは形容語や脅し文句の交換以上の何物でもないと思ったりすることがないよう、アメリカ人に警告しているのです」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』、南雲堂)と。

先入観やイメージにとらわれて目を曇らせてはならないとのメッセージです。この点は、核時代における「ゴルディウスの結び目」を解く上で欠かせない要件だと思われます。

事実、私は74年に中国とソ連を相次いで初訪問し、両国の首脳との会談で緊張緩和の道を探った時、そのことを強く実感しました。

平和を希求する一人の仏法者として、“どの国の民衆も戦火など望んでいない。この機を逃さず、何としても橋渡しをしなければならない”との覚悟で民間外交に臨んだのです。

初訪中から3カ月後(74年9月)に、ソ連のコスイギン首相と会見した際、私は、首相が味わったレニングラード攻防戦の悲劇の話を伺った後で、単刀直入にこう申し上げました。

「中国の首脳は、自分たちから他国を攻めることは絶対にないと言明しておりました。しかし、ソ連が攻めてくるのではないかと、防空壕まで掘って攻撃に備えています。中国はソ連の出方を見ています。率直にお伺いしますが、ソ連は中国を攻めますか」

すると首相は、「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」「中国を孤立化させようとは考えていません」と明言された。

時を置かずして私は、その意向を中国の要人に伝える一方、アメリカに赴き、キッシンジャー国務長官と米中関係や戦略兵器制限交渉(SALT)について意見交換をしたのです。

一連の会談を経て得た教訓は、「どんなに状況が厳しくても、対話が打開の糸口となる」「相手の意思を正確に知るには、胸襟を開いて語り合う以外にない」の2点であります。

思うに、互いの心の壁を取り払う対話の精神を足場に、核廃絶の可能性が真剣に論じ合われたのが、86年10月にレイキャビクで行われた米ソ首脳会談ではなかったでしょうか。

この年の年頭、ゴルバチョフ書記長が核兵器の全廃構想を示した時、レーガン大統領も前向きに受け止めようと考え始めた。反対する側近にも、「私はソフトになるつもりはない……。しかし、私には核兵器のない世界という夢がある。われわれの子や孫をこんな恐ろしい兵器から解き放ちたいのだ」と、正直な思いを語ったといいます(太田昌克著『アトミック・ゴースト』、講談社)。

一方のゴルバチョフ書記長も、同年4月に起こったチェルノブイリ原発の事故に強い衝撃を受け、決意を更に固めていた。

そして、首脳会談で率直な意見が交わされる中、“96年までの10年間で一切の核兵器をゼロにする”との方針で一致をみかけた。しかし最終段階で、戦略防衛構想(SDI)をめぐって意見が折り合わず、歴史的な合意は幻に終わってしまったのです。

会談に立ち会ったシュルツ元国務長官をはじめ、キッシンジャー博士ら4人の元高官が2007年に「核兵器のない世界」と題する提言を発表し、大きな反響を呼びました。

核の脅威が深刻化する今、レイキャビク会談で合意しかけた核兵器全廃の可能性を、もう一度真剣に探るべきではないか――。共同提言の出発点は、まさにそこにあったのです。

以前、ゴルバチョフ氏と会談した折(2001年11月)、当時の話を詳しく伺う機会がありました。

氏は、こう述懐されていました。

「私たちは、“アメリカがどういう態度であろうと、こちら側が主導権をとって、絶対に対話の場をつくる”という決意で臨みました。じつは、ソ連が一歩踏み出すこと自体が非常に重たい仕事でした。そのソ連が態度を変え、対話をしようと呼びかけた。今までにないことです。だから、アメリカのレーガン大統領も態度を変えざるを得なかった――そう私は思います」と。

私は、レイキャビク会談に象徴される首脳対話の三つの教訓――(1)明確な危機意識に基づくビジョンの共有(2)他国の反応にかかわらず、自発的にイニシアチブを発揮する確固たる意志(3)交渉が難航しても、最後まで失われなかった相互の信頼感――を、未来への懸け橋とし、核時代における「ゴルディウスの結び目」から人類を解き放つ挑戦に、各国の指導者が手を携えて立ち上がるべきだと訴えたいのです。