2012年のSGI提言

人間の〝無限の可能性〟信じ 苦難を乗り越え、勇気の前進!

第1段
人間の〝無限の可能性〟信じ苦難を乗り越え、勇気の前進!
地球上から悲惨の二字をなくす

平和と共生の地球社会への道を開くために、1983年1月に「SGI(創価学会インタナショナル)の日」を記念する提言の発表を開始してから、今回で30回目を迎えます。

私どもSGIは1975年の発足以来、仏法の「生命尊厳の思想」を基調にした平和・文化・教育の運動を進め、全ての人々が自身の尊厳を輝かせながら、平和的に生きられる世界の建設を目指してきました。

その大きな原動力となってきたのは、私の師である戸田城聖第2代会長の「地球上から悲惨の二字をなくしたい」との熱願です。

世界で相次ぐ災害

今なお世界には、紛争や内戦、貧困や飢餓、環境破壊などの脅威によって生命や尊厳が危険にさらされている人々や、人権侵害と差別に苦しんでいる人々が大勢います。

加えて、多くの尊い生命を一瞬にして奪い、生活の基盤を破壊し、社会に深刻な打撃を及ぼす災害が相次いでいることに、胸を痛めずにはいられません。

ここ10年近くをみても、2004年のスマトラ沖大地震に伴うインド洋津波から、2010年の中米ハイチでの大地震にいたるまで、多数の犠牲者が出る災害が起こりました。

昨年も3月に発生した東日本大震災をはじめ、ニュージーランドやトルコでの地震、タイやフィリピンでの水害、ソマリアを中心とした東アフリカ諸国での干ばつなど、世界各地で災害が続きました。

亡くなられた方々にあらためて哀悼の意を表させていただくとともに、各地の被災者の方々のご心痛とその窮状を思うにつけ、一日も早い復興を心から祈るばかりです。

災害は、かつて地震や津波対策への警鐘を鳴らした物理学者の寺田寅彦が指摘していたように、「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増す」(『天災と国防』講談社)恐れのあるものです。

東日本大震災によって発生した福島の原子力発電所の事故は、その象徴といえるものでした。放射能の汚染が国内外の広大な地域に及ぶ中で、大勢の人々が長期にわたる避難を余儀なくされるとともに、子どもたちの健康や、農作物や食品への影響に対する懸念も高まるなど、災害に伴う事故としては未曽有の被害をもたらしました。

それはまた同時に、原子力にエネルギーを依存する現代社会のあり方や、巨大化する科学技術のあり方に対し、重大な問いを投げかけました。

セン博士が警告する突然の困窮

こうした前触れもなく深刻な被害をもたらす脅威に留意を促してきたのが、経済学者のアマルティア・セン博士です。

少年の頃、故郷ベンガルで起きた大飢饉を目の当たりにした体験を原点に、貧困や不平等の問題に強い関心を持って経済と社会のあり方を探究してきたセン博士は、人々の生存・生活・尊厳を守り抜くための「人間の安全保障」のアプローチ(方策)を、地球的な規模で進める必要性を訴え続けてきました。

その博士が、「人間の安全保障」における重要課題として強調していたのが、「突然襲いくる困窮の危険」への対処です(以下、人間の安全保障委員会『安全保障の今日的課題』朝日新聞社)。

いわく、「人間の生存と日々の暮らしの安全を脅かし、男女が生まれながらに有する尊厳を冒し、人間を病気や疫病の不安にさらし、そして立場の弱い人々を経済状況の悪化に伴う急激な困窮に追いやる種々の要因に対処するためには、突然襲いくる困窮の危険にとくに注意する必要がある」と。

つまり、「人間の生にとってかけがえのない中枢部分」を蝕む危険や不安を少しでも軽減し、取り除くための努力を払うことなくして、社会の真の安寧などありえないことを、博士は強く訴えているのです。

この点は、博士が緒方貞子氏と共同議長を務めた「人間の安全保障委員会」の報告書でも、「人々が危機や予想できない災害に何度も見舞われ倒れそうになるとき(それが極度の貧困であれ、個人的な損害や倒産であれ、あるいは社会全体への衝撃や災害であれ)、『人間の安全保障』は、こうした人々を支える手がそこにあるべきだと考える」と、重ねて主張されていたものでした。

どの国にも等しく起こりうる脅威

こうした予期せぬ脅威は、災害以外にも、突然の経済危機が引き起こす生活不安の拡大や、気候変動に伴う急激な環境悪化など、さまざまな形で人々に襲いかかるもので、先進国や途上国を問わず起こりうるものです。

世界銀行のロバート・ゼーリック総裁が、世界経済は新たな危険地帯に入りつつあると警告したように、今、経済危機が各国で連鎖的に広がっています。

リーマンショック以来の長引く経済不況に追い打ちをかけるように、ギリシャの財政危機に端を発するヨーロッパ諸国での信用不安の拡大や、アメリカ国債の史上初の格下げなどが、金融市場の混乱や景気の後退に一段と拍車をかけ、今や世界の失業者数は2億人近くに達するなど、多くの国で生活不安を訴える声が強まっています。

なかでも若者の失業率は深刻で、他の年齢層の2倍から3倍にのぼる国もあり、職を得ても非正規で低賃金といった不安定な雇用が常態化しています。

私はこれまでの提言で、本来あってはならない「命の格差」や「尊厳の格差」が生まれた国や育った環境などによって左右されてしまう、〝地球社会の歪み〟を是正するための提案を重ねてきました。現在、その課題と並んで緊急性を増しているのが、災害や経済危機のような「突然襲いくる困窮の危険」への対処であるといえましょう。

そこで今回の提言では、人々の生存・生活・尊厳に深刻なダメージをもたらす「突然襲いくる困窮の危険」に、どう立ち向かっていけばよいのかについて考えてみたいと思います。

災害は、人間の生にとってかけがえのないものを一瞬にして奪い去ります。

何より、自分を生み育んでくれた父や母、苦楽をともにした夫や妻、最愛の子どもや孫たち、そして親友や地域の仲間など、自分の人生の大切な部分を成していた存在を失うことほどつらいものはありません。

仏法でいう愛別離苦の胸を刺す苦しみは、どんな人でも耐え難いものです。

私が若き日から愛読してきたアメリカの思想家エマソンをめぐる忘れられない逸話があります。

エマソンは、5歳の愛児を病気で亡くした時、日記にこう記しました。

「昨夜8時15分、私のかわいいウォルドーが逝ってしまった」

青年時代から常に日記を書くことで、精神の足場を踏み固めてきたエマソンでしたが、何とか文字にすることができたのは、痛ましい現実を示す短いその一文だけだった。

別の日にエマソンが再びペンを手にし、次の文章を記すまで、日記帳には4ページにわたる空白が続いていたのです。

「まばゆいばかりの朝日が昇っても、ウォルドーのいない風景は色を失っていた。寝ても覚めても、私が思いをかけていたあの子。暁の星も、夕暮れの雲も、あの子がいたからこそ美しかったのだ」

魂の懊悩から絞り出すように綴られた〝どうしようもない喪失感〟と、空白の4ページに込められた〝言葉にできない胸の痛み〟。そこに彼の底知れない悲しみがにじみ出ている気がしてなりません。

仏法の出発点もこの「生死」の問題にありますが、夫に先立たれ、息子までも不慮の出来事で亡くした女性信徒に対し、日蓮大聖人が「どうして親と子を代えて、親を先立たせずに、この世にとどめおいて嘆かせるのであろうか」(御書929ページ、趣意)と、母親の胸中を代弁するような言葉を綴られた手紙があります。

そこでは、「たとえ火の中に入ろうとも、頭をも割ろうとも、わが子の姿を見ることができるならば惜しくはないと、あなたが思われるであろうと、その心中が察せられて涙が止まらない」(同930ページ、趣意)と、母親の悲しみに寄り添い、どこまでも同苦する言葉が記されています。

災害では、そうした家族や仲間を失う苦しみが前触れもなく一度に大勢の人々にもたらされるのであり、その人々を長い時間をかけて社会全体で支えていくことが欠かせません。

人生史の時間が断たれる悲しみ

また災害は、人々の生きる足場となる家を破壊し、それまでの生活の営みや地域での絆を奪い去る悲劇を引き起こします。

家は、単なる居住のための器ではなく、家族の歴史が刻まれ、日々の生活の息づかいが染み込んでいる場所です。そこには、家族の過去と現在と未来をつなぐ特別な時間が流れており、その喪失は人生史の時間を断たれることに等しい。

加えて、東日本大震災に伴う巨大な津波がもたらした被害のように、地域一帯が壊滅的な打撃を被った場合、土地への愛着が強ければ強いほど、近隣の人々とのつながりや、心のよりどころが一瞬にして奪われた悲しみは深くなります。

新しく住む場所が見つかっても、環境の異なる生活を強いられ、それまで築いてきた人間関係の多くを失うことになる。

そうした被災者の方々の辛労や心痛を思う時、私の胸には、作家のサン=テグジュペリの言葉が切々と迫ってきます。

「何ものも、死んだ僚友のかけがえには絶対になりえない、旧友をつくることは不可能だ。何ものも、あの多くの共通の思い出、ともに生きてきたあのおびただしい困難な時間、あのたびたびの仲違いや仲直りや、心のときめきの宝物の貴さにはおよばない。この種の友情は、二度とは得がたいものだ。樫の木を植えて、すぐその葉かげに憩おうとしてもそれは無理だ」(堀口大學訳『人間の土地』、『世界文学全集77』所収、講談社)

これは親友との絆の尊さとそれを失った悲しみについて述べた文章ですが、「住み慣れた家」や「故郷」や「愛する地域」についても、同じような重みやかけがえのなさがあることを、決して看過してはならないのです。