2013年のSGI提言

法華経のドラマと譬喩で描かれた万人の平等性と無限の可能性

第5段
法華経のドラマと譬喩で描かれた万人の平等性と無限の可能性

人権教育映画に込めたメッセージ

次に第二の指標として挙げたいのは、「生命の無限の可能性に対する信頼」です。

昨年9月、私どもSGIが、人権教育アソシエイツや国連人権高等弁務官事務所と共同して制作を進めてきた映画「尊厳への道――人権教育の力 」が完成しました。

この人権教育映画は、2011年12月に採択された「人権教育および研修に関する国連宣言」を受けて、その内容と理念を広く一般市民に普及させることを目指したもので、インターネット上でも視聴可能になっています。

映画では三つの地域における人権教育の実践を紹介しており、それぞれのケースが直面する課題は異なりますが、そこに込められたメッセージの核心は、「社会は必ず変革できる。そしてそれは、一人一人の人間の内なる変革から始まる」との点にあります。

SGIでは、国連NGO(非政府組織)としての活動の柱の一つとして、人権教育の推進に力を入れてきました。その根底に流れるのが、仏法思想に基づく信念に他なりません。

釈尊は「生れを問うことなかれ。行いを問え」と、過去世の罪業によって現世での境遇が決まるといった運命論的な世界観を批判する一方で、「火は実にあらゆる薪から生ずる」(『ブッダのことば』中村元訳、岩波書店)との譬えを通し、どんな人にも尊極な生命が内在しているがゆえに、人間は根源的に平等であると同時に、無限の可能性を発揮していく道が開かれていることを強調しました。

運命論的な世界観は、差別をする側に良心の痛みどころか、疑問に思う契機すら与えないために、人権軽視による悲劇の横行を許す温床となります。

また差別される側にとっても、“自分が本来、かけがえのない存在である„との自覚が生まれる芽を摘んでしまい、“どれだけ努力しても無駄で意味がない„とのあきらめをもたらす原因となるものです。

こうした“過去による現在の呪縛„は、あらゆる人々に対して――差別される側はもとより、差別をする側に対しても、「生命の尊厳」の土台を蝕むだけに、釈尊にとって到底放置できるものではなかった。

ゆえに釈尊は、「生れを問うことなかれ。行いを問え」と呼びかけ、「因」と「果」の関係は必ずしも固定的ではなく、“今この瞬間の行為(または一念)„が新たな「因」となり、それによって全く別の「果」が生じる可能性が開かれるのであり、人間の尊貴はあくまで現在の行為で問うべきと説いたのです。

それに加えて仏法では、縁起の法理が説かれ、全てのものが互いに影響を与え合う中で存在するという相依性の連関を踏まえるべきことを強調しています。

つまり、瞬間瞬間で変化しゆく「因」と「果」が、相依性の連関を通じて、他の存在にもさまざまな影響を及ぼしていくのであり、“今この瞬間の行為„が自分だけでなく、周囲や社会にプラスの価値をもたらす変革の連鎖を起こすことができる。その生命の偉大な力用は、釈尊が「火は実にあらゆる薪から生ずる」との道理によって示そうとしたように、どんな人にも内在しているのです。

長者窮子の譬えと衣裏珠の譬え

全ての人々に尊極なる生命が宿っていることに目覚めることで、自身の生命に具わる無限の可能性を発揮していく道が開かれる――この仏法の生命観は「法華経」において卓越した譬喩として結晶していますが、注目すべきは、それが釈尊の言葉としてだけでなく、弟子たちの言葉としても綴られていることです。

例えば、「長者窮子の譬え」(幼い頃に失踪した息子と資産家の父親の物語)は、須菩提ら声聞を代表する弟子たちが語り、「衣裏珠の譬え」(貧しい男と裕福な友人が二度めぐり合う物語)は、憍陳如をはじめとする阿羅漢たちが披歴したものです。

前者の譬えは、不遇の身をかこってきた人が放浪の先に働き始めた家にあった多くの宝(父親の財産)を見ながらも自分とは無縁の存在と思い込む話であり、後者は、常に身にまとう衣服に宝(友人が以前に縫い込んだ宝石)が付いていることを知らず、苦しい生活を送っていた男が、友人と再会し、尊極な宝がもともと自分の手中にあったことを知るという話です。

これらの譬喩は、全ての人々に仏性があり(万人の平等性)、仏と同じ甚深無量の智慧が発揮できる(万人の無限の可能性)との釈尊の教えの核心に触れて、自らの尊厳と使命に目覚めた弟子たちが、あふれる歓喜と決意を仮託したものだったのです。

この弟子たちの身に起こった変革の姿と、彼らが思いを託した譬喩を通して、「法華経」で二重に描かれた、目覚めから歓喜、そして決意(行動)へと昇華しゆく生命のドラマ――。

私どもSGIが人権教育を推進する上で、「エンパワーメント(内発的な力の開花)」から「リーダーシップの発揮」に至るプロセスを重視してきたのは、釈尊の目覚めが弟子たちの目覚めへと連鎖していったように、一人に可能なことは万人に可能であり、その道は人間同士の生命と生命の触発を通して一歩また一歩と開かれるという、仏法の思想を踏まえてのものに他ならないのです。