2013年のSGI提言

憎悪と暴力の連鎖から脱却し多様性を喜び合う世界を

第7段
憎悪と暴力の連鎖から脱却し多様性を喜び合う世界を

グローバル化がもたらした光と影

最後の第三の指標は、「多様性を喜び合い、守り抜く誓い」です。

私が長年、さまざまな民族や宗教を背景とする人々と対話をする中で強めてきたのは、多様性は単に尊重すべき対象にとどまらず、自己を見つめ直し、互いの生の意味を豊かにする源泉であるとの実感です。

現代の世界を貫くグローバル化と情報化社会という二つの潮流は、文化的な背景が異なる人々と交流する機会を飛躍的に増大させるとともに、意思の疎通を瞬時に図ることのできる手段を発達させました。

しかし一方で、この二つの潮流は、経済を軸としたフラット化(均質化)が各地の文化的土壌を浸食する現象や、越境して移住する人々の増加に伴う文化的な摩擦をめぐって憎悪や排他的な感情が声高に煽られる現象を招いています。

そのために、本来は多様性の源である差異が、攻撃の的や社会を分かつ壁と化して、暴力や紛争に発展するケースは後を絶たず、人々の生命や尊厳が脅かされる事態が相次いでいることが強く懸念されます。

かつてユネスコ(国連教育科学文化機関)で採択された「暴力についてのセビリア声明」で、戦争や暴力が“人間の本性に遺伝的にプログラムされている„との考えや“本能によって引き起こされる„との考えは、科学的に正しくないとの見解が示されました。

私も全面的に同意しますが、現実に今なお続く紛争と暴力を前にして、その連鎖を断つためには、いまだ多くの困難な壁を乗り越えていかねばならないことも否めない事実です。

では、一体何が、戦争や暴力へと人々を駆り立てる引き金となるのか――。

釈尊は、他者の生命も、自分の生命と同じくかけがえのない尊いものであることを受け止められない「無明」(根源的な迷い)から抜け出せないことが根本にあると考えました。

釈尊の生きた古代インドでも、水の確保をめぐる部族抗争や国家間の勢力争いなど、暴力的な衝突がしばしば起きていました。

その姿を目の当たりにした釈尊は、人々の「心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た」(前掲『ブッダのことば』)との言葉を通して、問題の所在を浮き彫りにしたのです。

つまり、根源的な迷いが、目に見えない一本の矢となって心を射貫いているため、エゴイズム(自己中心主義)の執着から離れられないでいる、と。

釈尊は、対峙する集団が「水の少いところにいる魚」(同前)のように、同じ焦燥に駆られているにもかかわらず、心が曇らされているために、他の集団が自分たちと同じ苦しみに直面していること――例えば、水不足に困っているとか、他国に滅ぼされるのではないかと不安が消えないこと――が目に映らなくなっていると誡めました。

生き方を180度転換した鬼子母神

であればこそ釈尊は、不殺生を説く際にも、「すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波書店)との諭しをしました。

ここには二つの重要な視座があります。

一つ目は、外在的に与えられたルールに従う形ではなく、「己が身にひきくらべて」とあるように、内省を通じて他者の苦しみや置かれた境遇に思いをはせることを、自己を律する基盤としていることです。

二つ目は、「殺してはならぬ」との後に「殺さしめてはならぬ」と続いているように、単に自分が殺生を行わないだけでなく、自己の全存在をかけた対話を通して、他者の生命に内在する善性を薫発し、共に不殺生を誓い合う生き方を促している点です。

仏典には、釈尊がこの内省と対話の二つの回路を通じて、多くの子どもたちの命を奪う悪行を続けてきた鬼子母神の生き方を転換させた話があります。

――鬼子母神の悪行に苦しめられてきた人々が、釈尊に窮状を訴えたところ、釈尊は一計を案じて、鬼子母神に気づきを与えるために、彼女が最も大切にしている末子を隠した。

7日間、血相を変えて探し回ったものの、末子は見つからず、憔悴しきった鬼子母神は、〝釈尊には全てを知る力が具わっている〟と聞き、すがる思いで釈尊のもとを訪れた。

末子の居所を知りたいと願う鬼子母神に、釈尊はこう述べた。

「あなたには、数え切れない程のたくさんの子どもがいるというではないか。それなのに、たった一人を失い、なぜそれほど苦悩するのか。普通の家は子ども一人、あるいは三人か五人といったところである。その子どもたちの命をあなたは奪ってきたのだ」と。

その言葉を聞き、自分が今直面している苦しみを、どれだけ他の親たちに与え続けてきたのかを思い知った鬼子母神は、二度と悪行をしないと釈尊の前で約束し、末子との再会をようやく果たすことができた、と(「雑宝蔵経」から趣意)。

以来、鬼子母神はあらゆる子どもたちを守ることを自分の使命とするようになり、「法華経」では他の鬼神らと一緒に、皆の幸福を願い行動する人々を守ることを誓ったのです。

重要なのは、日蓮大聖人が「流転門の時は悪鬼なり還滅門の時は善鬼なり」(御書778ページ)と説いたように、姿はそのままで鬼子母神が生き方を180度転換させたことです。つまり、心の重心が「鬼神」から「母親」のアイデンティティ(自己規定)へと移り、「己が身にひきくらべて」という内省の回路が開かれたことで、他の母親たちの苦しみが初めて胸に迫り、鬼子母神は〝自分が感じた苦しみを二度と誰にも味わわせてはならない〟と決意するにいたったのです。