2014年のSGI提言

あきらめの壁を打破する力は誓いに生き抜く人生に宿る

第5段
あきらめの壁を打破する力は誓いに生き抜く人生に宿る

「誓願」とは自身の生きる証しの異名

また大聖人は、社会の混迷が深まる状況を動かし難い現実として甘受するほかないといった「現実追従」の思想に対しては、仏法で説く「如蓮華在水」の法理を通し、混迷が深ければ深いほど人間の生命は限りない力を湧き出すことができると強調しました。

蓮華の花が泥水の中にあって、汚れに染まることなく美しい花を咲かせるように、社会に混迷をもたらすさまざまな課題の只中に勇んで身を投じ、現実の課題との格闘の中から、自己の生命力を強めるための養分を、一つまた一つと汲み上げていく。その中で、自分自身を“希望の大輪„として花開かせるとともに、社会に“現実変革の実り„をもたらす道を選び取るように訴えたのです。

翻って現代においても、核兵器の脅威や環境破壊のように問題が深刻であればあるほど、できるだけ考えないでおきたい課題として遠ざけようとする風潮が強く、たとえ危機意識を持った人でも、自分一人が行動したところで何も変わらないとあきらめてしまう場合が少なくありません。

その無意識や無気力の壁を破るには、マンデラ氏が「人間として、何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧に抗議せず、また、自分たちにとってのよい社会、よい生活を追い求めずにいることは、不可能」(前掲『自由への長い道(下)』)と叫んだような“使命感„や、環境活動家のワンガリ・マータイ博士が「私たちは、傷ついた地球が回復するのを助けるためにこの世に生を受けた」(アンゲリーカ・U・ロイッター/アンネ・リュッファー『ピース・ウーマン』松野泰子・上浦倫人訳、英治出版)と述べたような“誓い„に貫かれた行動が、何よりも必要となってくると私は考えます。

先ほどの「如蓮華在水」も、混迷深まる時代に生まれることを自ら求め、失意に沈む人々のために行動する生き方を貫くことを、釈尊の前で「誓願」した地涌の菩薩の姿を示した法華経の言葉でありました。

ここで言う「誓願」は、誰かが行動することを期待して事態の変化を待ちわびるような願望でも、状況が厳しくなった時に吹き飛んでしまうような約束でもない。どんな困難や試練が押し寄せても、どれだけ歳月や労力がかかっても、必ず成し遂げていく――自分の全存在を賭けた“生きる証し„の異名ともいうべきものに他なりません。

国連の活動支援は仏法者として必然

私どもSGIは、大聖人が仏法の肝心として強調した、地涌の菩薩の「誓願」の生き方を範としています。それは、自ら立てた誓いを果たそうとする中で、どんな現実からもプラスの価値を生み出す内発的な力を磨きながら、それぞれの地域で苦しみを抱える人たちに寄り添い、励まし合いながら「自他共の幸福」を目指す生き方です。

そして社会にあっては、地球的問題群の解決に取り組む国連のさまざまな活動を、市民社会の立場から一貫して支援してきました。

その支援にかける思いを以前(1989年12月)、国連のラフューディン・アーメド事務次長とヤン・モーテンソン事務次長との会談で、次のように述べたことがあります。

「『平和』『平等』『慈悲』を説く仏法の理念は、国連の目指す道にも通じている。その国連への支援は、私どもにとって、いわば “必然„なのです。また、そうでなくては、仏法者としての自身の使命を偽ることにもなります」と。

理想が大きければ大きいほど、自分の代だけで完全に果たすことができない場合もあるかもしれない。

しかしマンデラ氏やマータイ博士のように、自分の存在と切り離せない“使命感„や“誓い„に生き抜く姿は、その一生を終えた後でも、多くの人々を勇気づける導きの星となって輝き続けるのであり、その原理は大聖人が「未来までの・ものがたり(物語)なに事か・これにすぎ候べき」(御書1086ページ)と示していたものでもありました。

いかなる状況の下でも、どんな人であっても発揮でき、未来までも照らすことができる――この三重の意義を持った“希望„から常に出発する価値創造の挑戦こそ、深刻な脅威や問題に立ち向かうための基盤となり、「平和と共生の地球社会」というビジョンを実現するための架橋となるのではないでしょうか。