2014年のSGI提言

社会の悪弊の根を断ち「人権文化」建設に挑戦

第8段
社会の悪弊の根を断ち「人権文化」建設に挑戦

仏法の十界互具論が提示する視座

仏法で説く「十界互具論」は、この善悪二元論的な思想を乗り越えるための視座を提示しています。

善なる生命状態にある人にも悪しき心の働きが備わっており、縁に紛動されて押し流されてしまうことを戒める一方、どんな悪しき生命状態に覆われたとしても、それは固定的なものではなく、自らの一念の転換と行動で善性を薫発することが万人に可能であることを強調した教えです。

前者の例を象徴するものとして、「乞眼の婆羅門」の説話があります。

――釈尊の十大弟子の一人である舎利弗が過去世において、菩薩道の修行として布施行に励んでいた時、婆羅門が訪ねてきて眼が欲しいと言った。舎利弗が眼を差し出したところ、感謝の言葉さえないばかりか、その臭いを嫌って地面に捨てられ、足で踏みにじられた。愕然とした舎利弗は、“こんな人を救うことなどできない”と、長年続けてきた修行をやめてしまった――という話です。

ここで重要なのは、眼を差し出す行為がつらかったのではなく、その行為を踏みにじられたことが我慢ならなかったという点です。眼を差し出すまでは利他の精神が心の重心にあったものの、その思いが踏みにじられた瞬間に消し飛んで、他人の幸福などより自分の悟りだけを追求しようと心を閉ざしてしまった結果、舎利弗は長い間、エゴの闇に囚われて苦しみ続けることになったのです。

日蓮大聖人はこの説話を通して、どんな人でも縁に紛動されやすいことを指摘しつつ、その負の力に打ち勝つためには、「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(御書1561ページ)と、人々のために行動することを誓い、何が起ころうとも常にその誓いに立ち返る以外にないと訴えたのです。

一方、後者の例にあたるものとして、古代インドのアショカ大王が改悛した史実が挙げられます。

――紀元前3世紀頃、マガダ王国のアショカ大王はカリンガ国を征服した。

10万人が殺され、15万人が捕虜となり、家を焼かれて肉親を失った人々の嘆きが天地を覆うという地獄図を前にして、暴虐の限りを尽くしてきたアショカも、痛切な悔恨にさいなまれずにはいられなかった。

自分を責め、苦しみ抜いた果てに改悛したアショカは、戦争を二度と起こさないと固く誓い、他国への平和使節の派遣や文化交流に努めるとともに、不殺生などの思想を広めるために法勅を石柱などに刻んで各地に残していった――と。

こうしたアショカ大王の“魂の転換劇”をめぐって、インドのニーラカンタ・ラダクリシュナン博士と語り合ったことがあります。

マハトマ・ガンジーの研究で名高い博士が、「最初は暴君と恐れられたアショカ大王でさえ、平和の指導者へと変わることができた。自己を変革することができた。つまり“アショカ„は、一人ひとりの心のなかにいる。誰もが自分を変えることができる――そうガンジーは見たのです」(『人道の世紀へ』第三文明社)と指摘していたことが忘れられません。

沈黙や傍観の壁を打ち破るための道

この史実に裏付けられた確信があればこそ、ガンジーは「内なる悪」との対峙という不断の精進を自身に課すと同時に、「人間性には相反応し合うものがあるとの不滅の信念」(『非暴力の精神と対話』森本達雄訳、第三文明社)を燃やし、「自らも前進をするとともに、ときには、敵対する者たちまでも共に携えて行く」(『わが非暴力の闘い』森本達雄訳、第三文明社)アヒンサー(非暴力)の道を、貫き通すことができたのではないでしょうか。

仏法の「十界互具論」が促しているのも、互いを“悪„として糾弾したり、排除し合うのではなく、同じ人間として引き起こす可能性がある“社会の悪弊„の根を断つために、「内なる悪」への眼差しを互いに忘れず、自他共に「善性」を薫発し合う生き方を選び取ることなのです。

ある集団の中に排他的で暴力的な志向を強める人々がいたとしても、集団全体を敵視することは憎悪の連鎖を招くだけであり、あくまで大切なのは、“いかなる排他的で暴力的な行為にも明確に反対する人々の連帯„を堅固にする努力を、あらゆる差異を超えて社会全体で押し上げていくことではないでしょうか。

私どもSGIが、国連が呼び掛ける「平和の文化」や「人権文化」の建設に、これまで力を入れてきたのも、そうした社会の土壌を育むことにつながると確信してきたからでした。

ガンジーの思想を受け継ぎながら、人権のために闘ったキング博士は、自らの運動を攻撃する勢力以上に自由獲得の大きな障壁となるものとして、「正義よりも〈秩序〉の維持に熱中」する態度をはじめ、「善人のぞっとするような沈黙」や「自己満足の〈無為傍観主義〉」などを挙げ、警鐘を鳴らしたことがあります(『黒人はなぜ待てないか』中島和子・古川博巳訳、みすず書房)。

いわば「人権文化」の建設は、そうした陥穽――つまり、社会悪の蔓延に結果的に加担してしまう態度を互いに戒めるだけでなく、一人一人の善性を薫発するエンパワーメントを通し、誰もが人間の尊厳を守る主体者として貢献できる社会を目指しながら、皆の力で人権の強度を高めていく挑戦に他なりません。

折しも、国連が推進する「人権教育のための世界プログラム」の第3段階(2015年~2019年)では、メディアなどを優先対象にすることに加えて、特にステレオタイプ(固定観念)や暴力に対して取り組み、「多様性の尊重」を培う平等や非差別に関する教育と研修を進めていくことになっています。

SGIとしても、2005年の開始以来、一貫して取り組んできた「人権教育のための世界プログラム」への支援を柱としつつ、国連機関や他のNGOと力を合わせて、「自他共の善性を呼び覚ます価値創造」の挑戦に邁進していきたいと思います。