2015年のSGI提言

苦しみ抱える人々の目線に立った政治と経済の再人間化を

第3段
苦しみ抱える人々の目線に立った政治と経済の再人間化を

世界人権宣言が明確にした役割

第一は、悲惨を生む要因を取り除くための「政治と経済の再人間化」です。

昨年8月、私の創立した戸田記念国際平和研究所が、トルコのイスタンブールで上級研究員会議を開催しました。

会議では、シリアでの内戦、イスラエルとパレスチナの紛争、イラクやウクライナをめぐる情勢、東アジアで高まる緊張などについて、事態の悪化を招いてきた要因を探る一方、世界で芽生え始めている希望的な要素に着目し、その動きを強めるための課題について意見交換を行いました。

そこで、「国連などの国際機関の強化」や「他者の痛みへの想像力と時代を開く創造性を持った青年の育成」などと併せて、重要な課題として浮かび上がったのが、政治の主眼を一人一人の人間の苦しみを取り除くものに向け直す「政治の再人間化」です。

国連憲章や世界人権宣言などで、基本的人権を守る役割が明確にされたはずの国家が、人々の生命や尊厳を脅かす事態を引き起こしてしまうケースが、しばしばみられます。

この問題をめぐっては、私も、会議を主宰した平和学者のケビン・クレメンツ博士(同研究所総合所長)と語り合いました。

その最たるものが紛争で、第2次世界大戦以降、紛争と完全に無関係だったのは、一握りの国にすぎないといわれます。

また、安全保障を理由に人権を制限したり、国力の増強を優先するあまり、弱い立場にある人々への対応が後回しになって、窮状がさらに深まるような場合も少なくありません。

加えて近年、災害や異常気象など、大勢の人々が突然、困窮の危機にさらされる事態が相次いでおり、そうした状況に政治が真剣に向き合うことが、強く求められています。

同様の懸念は、経済にも当てはまります。

以前、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が、「路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で二ポイントの下落があれば大きく報道されることなど、あってはならない」(『使徒的勧告 福音の喜び』カトリック中央協議会)と訴え、経済のあり方に警鐘を鳴らしたことが話題となりました。

実際、経済成長率をはじめとするマクロ指標の動向ばかりが注視される中で、ともすれば、現実の社会で生きている一人一人の生命と尊厳と生活が隅に追いやられ、経済の活力を高める施策が人々の生きづらさの改善につながっていない面もみられます。

安心の拠り所をつくり出す働き

そもそも、政治を意味する英語のポリティクスが、ギリシャ語の「ポリテイア(市民国家のあり方)」などから派生し、経済という言葉も、「経世済民」に由来するように、民衆が幸福に生きる社会を築くことに元意があったはずです。

ところが現代では、その元意がいつしか抜け落ち、政治や経済を突き動かす行動原理が、厳しい境遇にある人々をかえって苦しめてしまうような状態が生じてはいないでしょうか。

この問題を考える時、私が想起するのは、原始仏教で、釈尊が人間の生きる道の根本として強調していた「ダルマ」です。

ダルマとは、サンスクリット語で〝たもつもの〟を意味する「ドフリ」からつくられた言葉で、漢訳仏典では「法」、もしくは「道」と訳されてきました。

つまり、一人一人の人間には、自分自身を〝たもつもの〟がなければならず、「人間として守らねばならない道筋」がある。それを、ダルマと呼んだのです(中村元『原始仏典を読む』を引用・参照、岩波書店)。

政治や経済が、時代の変遷につれて様相を変化させるのは、ある意味で当然だったとしても、そこには、曲げてはならない原則や、無視してはならない基準があるはずです。その根本を貫くダルマに則って生き抜くことを促した釈尊は、最晩年の説法で、ダルマを「洲」に譬えました。

つまり、洪水が発生し、あたり一面が水没しそうな時に、人々の命を守り、安心の拠り所となる「洲」に譬えることで、ダルマの働きが実際の社会でどのように現れるかを、分かりやすく示したのです。

その譬えを敷衍すれば、政治と経済が本来担うべき役割も、社会が試練に直面した時に一人一人の民衆、なかんずく最も弱い立場にある人々のために「安心の拠り所」をつくり、「生きる希望」を取り戻すための足場を築くことにあるといえないでしょうか。

政治の成り立ちを民衆の目線から見つめ返してみれば、その源流には、投票などを通じて「少しでも社会をよくしたい」との祈りにも似た思いがあるはずであり、経済の源流にも、仕事などを通して「少しでも社会の役に立ちたい」との種蒔く人の思いが息づいているはずです。

にもかかわらず、それがマクロの規模になると、政治の世界で民主主義の赤字(多くの民意があっても政策に反映されない状況)が発生したり、経済の世界でマネー資本主義の暴走(実体経済の規模をはるかに超える金融市場での過剰な投機が、実体経済に破壊的なダメージを及ぼす事態)が起きてしまっている。

ガンジーの信条と仏法の「中道」思想

そうした事態に歯止めをかけて、政治や経済の軌道修正を図るには、どのような原則に立ち返ることが必要なのか――。

私は、マハトマ・ガンジーが友人に贈った次の言葉を、一つの手掛かりとして挙げたいと思います。

「これまでに会った中で最も貧しく、最も無力な人の顔を思い出して下さい。そしてあなた自身に次のように問いかけて下さい。自分がしようと思っていることは彼の役に立つだろうか?」(『私にとっての宗教』竹内啓二ほか訳、新評論)

つまりガンジーが、重大な判断を下す時に忘れてはならない点として促したのは、政治の力学でもなければ、経済の理論でもない。自分と同じ世界に生き、苦境に陥っている人々の姿にあったのです。私はここに、仏法が説く「中道」の思想と通底するものを感じてなりません。

「中道」とは、単に極端な考えや行動を排することではなく、〝道に中(あた)る〟と読むように、自分の判断や行動が「人間としての道」に反していないかどうか、常に問い直しながら、自分の生きる証しを社会に刻み続ける生き方に本義があるといえます。

その意味では、釈尊が最晩年の説法で〝ダルマ(法)を洲とせよ〟と強調した際、〝一人一人が自分自身を拠り所とせよ〟と同時に促していた点は、「中道」の本義を示唆したものとも解されましょう。

自らを拠り所にするといっても、自分本位の欲望のままに振る舞うといった意味では決してない。仏教学者の中村元博士は、釈尊の真意を、「だれの前に出しても恥かしくない立派な、本当の自己というものをたよること」(前掲『原始仏典を読む』)と提起しましたが、私も深く同意します。

一人一人が、自分の行動によって影響を受ける人々の存在を思い浮かべ、その重みを絶えず反芻しながら、「本当の自己」を顕現する手掛かりとし、人間性を磨いていく。その営みが積み重ねられる中で、政治や経済のあるべき姿への問い直しも深まり、再人間化に向けた社会の土壌が耕されていく――。「中道」の真価は、この変革のダイナミズムにこそあると、私は強調したいのです。