2015年のSGI提言

「平和の文化」築く挑戦を  排除の思想からの脱却が課題

第7段
「平和の文化」築く挑戦を  排除の思想からの脱却が課題

個々の人権侵害を決して見逃さない

第三は、共生の世界を築くための「差異を超えた友情の拡大」です。

近年、紛争や内戦の様相に大きな変容がみられるようになる中で、新たな懸念が高まっています。

例えば、当事者以外に他の国や集団が関わる「国際化した国内紛争」の割合が増える中、シリアでの内戦などのように停戦や和平が難しくなってきています。

加えて、軍事行動の目的が、クラウゼヴィッツの『戦争論』で説かれていたような〝力によって相手に自分たちの意志を認めさせる〟という伝統的なものから、〝敵とみなした集団の排除を進めること〟へと重心が移る傾向がみられることも指摘されます。

また、遠隔攻撃などによって、子どもを含む一般市民を巻き込んでしまう事態が、紛争地域で多発するようになっています。

敵とみなす集団に属している人々も、自分と同じ「人間」であり、「生存の権利」があるのではないか――そんなためらいさえ、介在する余地が失われつつある状況の行き着く先は、一体何か。強い懸念を感じてなりません。

いずれにしても、兵器の飛躍的な発達と、排除の思想が相まって引き起こされる惨劇は、国際人道法のみならず、「人間としての道」に照らして許されるものではないと思います。

その意味で、昨年、国連で殺人ロボット兵器に関する議論が始まりましたが、紛争の現実は〝戦闘の自動化〟の一歩手前にまで進もうとしている実態に、目を向ける必要があるのではないでしょうか。

それと同時に、留意しなければならないのは、排除の思想が紛争地域だけでなく、世界の多くの場所で広がっていることです。

国連も2年前から「人権を最優先に」と題するイニシアチブを開始し、個々の人権侵害を警鐘として受け止め、大規模な残虐行為や戦争犯罪に発展する前に、できるだけ早く対処することを呼び掛けています。

昨今、多くの国々で社会問題になっているヘイトスピーチ(差別扇動)は、ヘイトクライム(憎悪犯罪)のような直接的な暴力を伴わないものの、明確な憎悪に基づいて他者を意図的に傷つけるという点で、根は同じであり、どの集団に対するものであろうと、決して放置してはならない人権侵害です。

そもそも、差別に基づく暴力や人権抑圧が、自分や家族に向けられることは、誰もが到底受け入れられないもののはずです。

しかしそれが、異なる民族や集団に向けられた時、バイアス(偏向)がかかり、〝彼らが悪いのだからやむを得ない〟といった判断に傾く場合が少なくない。事態のエスカレートを問題の端緒で食い止めるには、何よりもまず、集団心理に押し流されずに、他者と向き合う回路を開くことが欠かせません。

舎利弗(しゃりほつ)と天女をめぐる仏教説話

この問題を考える時、示唆的と思われるのが、大乗仏典の「維摩経(ゆいまきょう)」に描かれている、舎利弗と天女のエピソードです。

――釈尊の意を受けた文殊が、病気になった在家の信徒・維摩詰の家を見舞いに訪れることになり、舎利弗たちも同行した。

見舞いの場は、文殊と維摩詰との「仏教をめぐる対話」の場となり、それがクライマックスに達した時、その場にいた天女が喜びを表すかのように、花を皆に振りまいた。

その花が自分の身にも付いた舎利弗は、修行者である自分にはふさわしくないと、急いで振り払おうとするが一向に取れない。

その様子を見ていた天女は、〝花は人を分別していないのに、あなたは花で人を分別しようとしている〟と述べ、その執着が舎利弗の心を縛り、動きのとれない状態にしていることを、鋭く指摘した。

納得はしたものの、その後も、天女に質問を続ける舎利弗に対し、天女は神通力を用いて、舎利弗を天女の姿に、自らを舎利弗の姿へと変化させた。

驚き戸惑う舎利弗に、天女は、彼がまだ分別に深くとらわれていることを重ねて諭し、元の姿に戻した。その思いもよらない体験を通し、舎利弗は、目に見える姿の違いで心を縛られてはならず、どんな存在にも本来、固定した特性はないことを深く悟るにいたった――という話です。

私がまず重要だと思うのは、舎利弗が天女の姿に入れ替わったことで、〝相手に向けていたまなざし〟がどんなものであったのかを身につまされて感じた結果、過ちを胸に刻むことができたという点です。

グローバル化に伴い、多くの人が、住む場所を離れて移動することが日常的になった現代にあって、知らず知らずのうちに他の集団に向けていたまなざしを、他国を訪れたり、移住するようになった時、今度は自分が同じような形で向けられている経験をすることは少なくないと思います。

だからこそ、相手の立場を互いに理解する努力が、ますます重要になってきています。

その努力を欠いてしまえば、緊張が高まった場合などに、自分たちにとっての「平和」や「正義」が、他の人々の生命と尊厳を脅かす〝刃〟となる事態が生じかねません。

その際、舎利弗が味わったまなざしの反転――つまり、自分と相手を取り巻く構図が反転して、他者を傷つける〝刃〟が、自分や家族に向けられるようになった状況に想像力を働かせてもなお、自分の主張や立ち位置は揺らがないままでいられるでしょうか。

そもそも舎利弗が、釈尊から最初に見舞いに行くよう促された時、固辞したのも、維摩詰と顔を合わせることを躊躇する気持ちが先立ったからでした。文殊らと共に維摩詰の家に行った時に気になったのも、自分たちの座るべき席が見当たらないことだった。

一方の維摩詰は、病気の理由を文殊から尋ねられた時、「一切衆生病むを以って、是の故に我れ病む」と答えました。自分の身を案じてくれるのであれば、病気で苦しむ他の人々を同じように気に掛け、励ましてほしいとの思いが、そこには満ちていました。

いわば、舎利弗の心を大きく占めていたのは〝自己へのこだわり〟であったのに対し、維摩詰の心は自他彼此の区別なく〝苦しみを抱えたすべての人々〟に向けられていたのです。

この対比を描いた「維摩経」の話を、現代の状況に照応させた時、次のような教訓が浮かび上がってくるのではないでしょうか。

本来、共有すべき善であるはずの平和や正義も、〝自己へのこだわり〟によって分割され、角突き合わせるようになれば、自分とは異なる集団への暴力や人権抑圧を正当化する免罪符となりかねない。

そうではなく、地球温暖化に伴う異常気象の増加や核兵器の使用による壊滅的な被害といった、誰もが望まない悲惨を引き起こさないために、「課題を共有する連帯」を広げることが、人々の苦しみを取り除く鍵となる――と。