2015年のSGI提言

民衆の生存権を第一義に掲げた戸田会長の「原水爆禁止宣言」 

第13段
民衆の生存権を第一義に掲げた戸田会長の「原水爆禁止宣言」 

ロートブラット博士の高い評価

そこで私は、検討を進めるための視座を、「兵器としての破壊力」だけにとどまらず、核兵器が他の兵器とはまったく性質の異なる存在として帯びている「より広い意味での非人道性」に関し、さまざまな角度から掘り下げることで提起したいと思います。

一つめの観点は、「核兵器が地上から一瞬にして何を消し去るのかという重み」に根差した非人道性についてです。

ウィーン会議の討議結果をまとめた文書で、私が強い共感をもって受け止めたのは次の一節です。

「人間性を打ちのめし、今となっては誰にとっても受け入れがたいものである拷問のケースと同じく、核兵器使用による惨禍は法的問題に留まらず、道徳的観点からの評価を必要とするものである」(ピースデポ「核兵器・核実験モニター」第462号)

なぜなら、この問題提起は、私の師である戸田第2代会長が、冷戦対立の深まりで核開発競争が激化した頃(1957年9月)に発表した「原水爆禁止宣言」(『戸田城聖全集第4巻』所収)で、最も強調していた点と重なり合っていたからです。

その中で戸田会長は、「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」と訴えました。

仏法では、人間の尊厳に対する最も深刻な脅威は、一人一人の存在の重みを無に帰し、生きていることの意味そのものを奪い去る、「他化自在天」という生命の根源的な迷妄から生じる悪にあると説きます。

戸田会長は、核兵器の奧に隠されているのは、この最も深刻な悪にほかならないと指摘し、核実験の禁止はもとより、問題の根本解決のためには、多くの民衆の犠牲を前提にしなければ成り立たない核抑止の思想からの脱却を、世界の民衆が持つ「生存の権利」の名において求め抜くしかないと主張したのです。

この宣言発表と同じ年に発足したパグウォッシュ会議で、長らく中心者を務めたジョセフ・ロートブラット博士が、以前、次のような評価を寄せてくださったことがあります。

「核兵器への対応には二通りあります。一つは法律的なアプローチで、もう一つは道義的なアプローチです。後者が、宗教者として戸田氏がなされたことであると思っています」(『地球平和への探究』潮出版社)と。

拷問に関し、どんな理由でも正当化できない禁止規範が確立してきたように、核兵器についても道義的な問い直しを本格的に深めるべきではないでしょうか。

高度な技術でも復元できぬもの

戦後、アメリカに続いてソ連が核開発に成功し、その後、イギリス、フランス、中国が続き、NPTが発効した後も核拡散がやまない中で、核兵器の対峙が、あたかも国際社会にとって〝動かし難い基本的与件〟であるかのような状態が続いてきました。

しかし、その土台にある核抑止政策が究極的にもたらすのは、「敵側に属する民衆の殲滅」と「核攻撃の応酬に伴う自国民への甚大な被害」です。

それは、戸田会長が剔抉していたように、「敵―味方」の範疇を超えて、一人一人が生きてきた証しや、社会や文明の営みを一瞬にして無にし、あらゆるものから存在の意味を奪うものにほかなりません。

NPT再検討会議での上映に向けて、原爆投下以前の広島の復元映像を製作するプロジェクトの代表を務める田邊雅章氏は、「いかに高度なCG(コンピューター・グラフィックス)技術を用いても決して復元できないものがある」と述べています。その一言が、失われたもののかけがえのなさを、かえって物語ってはいないでしょうか。

また、核抑止のもとで生きるということは、あらゆるものを〝かりそめの現存在〟に貶める不条理が、絶えずつきまとう世界に生きることを意味します。そうしたニヒリズム(虚無主義)によって、社会や文明が蝕まれるような状態が、これ以上続くことを決して許してはなりません。

しかもウィーン会議で焦点の一つとなったように、核兵器が存在する限り、人為的ミスや技術上の欠陥、サイバー攻撃などによって「偶発的に核爆発が引き起こされる可能性」は常に残るといえます。

何より、その問題は、核抑止政策にとって想定外の事態であるばかりか、核抑止政策を続ける国の数だけ危険性が増す構造であることに、留意する必要がありましょう。

キューバ危機の際には、米ソ首脳が解決を模索し、熟慮を重ねる「13日間」という時間がありました。

一方、何らかの理由で偶発的に核ミサイルが発射される事態が生じた場合に、攻撃目標に達するまでに残された時間は、わずか「13分」ほどしかないといわれます。その結果、多くの人々が避難もままならず、尊い命が容赦なく一瞬にして奪われ、攻撃目標となった地域の営みも、なすすべなく丸ごと破壊されてしまうことになるのです。

幸福な人生を歩むためにどれだけ人間が努力を重ねようと、長い時間をかけて文化や歴史を育もうと、一切合切、無意味なものにしてしまう――この言語に絶する〝理不尽さ〟にこそ、圧倒的な破壊力という数値だけでは推し量ることのできない、「非人道性」の核心部分があるように思えてなりません。