2015年のSGI提言

核抑止による安全保障が世界に及ぼす多大な負荷

第14段
核抑止による安全保障が世界に及ぼす多大な負荷

核開発と近代化がもたらす歪み

二つめの観点は、「核開発や近代化の継続が世界にもたらす歪み」に基づく非人道性についてです。

先月のウィーン会議で、核実験の影響が初めて議題に取り上げられました。

「ヒバクシャ」という共通語が示す通り、世界各地には2000回以上にわたって行われてきた核実験の影響で、深刻な被害を受けてきた人々は少なくありません。

例えば、マーシャル諸島共和国が、12年間にわたって経験することになった核実験の爆発規模を換算すると、1日あたり、広島型原爆1・6個分に相当するといいます。

この事実が示すのは、核兵器の使用を防いできたと主張される核抑止政策が、実際、何をもたらしてきたかという点です。

つまり、核抑止政策は、脅威がさらなる脅威を呼ぶ核軍拡競争を引き起こし、実験という形での核爆発が何度も行われたために、「いかなる国家や民族も背負ってはならない重荷」(マーシャル諸島のデブルム外相)を世界に積み増す結果を招いてきたのです。

包括的核実験禁止条約(CTBT)が96年に採択されて以来、核爆発を伴う実験はゼロでないものの、ほぼ行われなくなりました。しかしこの状態は、183カ国が署名しながらも、CTBTが発効をみていない中、辛うじて保たれているにすぎません。

また、CTBTでは「核兵器の近代化」は禁じられていませんが、ある国が近代化を図ると他の国も追随する構造は、核抑止政策が続く限り避けることはできず、世界全体で年間1050億㌦にも達する核兵器の関連予算がさらに増額する恐れもあります。

その莫大な資金が、保有国の福祉や保健の向上のために充当され、また貧困などに苦しむ他の国々の支援に向けられれば、どれほど多くの人々の生命と尊厳が守られることにつながるか計り知れません。

そもそも核開発を継続すること自体、世界の経済資源と人的資源の軍備転用を最少にすることを求めた国連憲章第26条の精神に反するだけでなく、助けることが可能な人々の窮状が続く状況を結果的にもたらしているという面で、「地球社会の歪み」を半ば固定化させる非人道性を生じさせてはいないでしょうか。

軍事的な緊張に周囲を巻き込む

三つめの観点は、「核態勢の維持が多くの国を常に軍事的な緊張に巻き込む」という面での非人道性についてです。

2010年のNPT再検討会議で核保有国は、速やかに取り組む課題として、安全保障政策における核兵器の役割と重要性の一層の低減を誓約しました。

昨年、その進捗状況が報告されましたが、ほとんど変化はみられません。多くの保有国の指導者が、核兵器の使用が想定される状況は極めて考えにくく、今日的な脅威に核兵器では対応できないとの認識を示しているにもかかわらず、「核抑止政策の維持」を理由に誓約が果たされない状態が続いているのです。

保有国にとって、自国と同盟国が核攻撃に脅かされる懸念を、現段階で完全に払拭することは難しいかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、あくまで先決なのは、緊張の要因を一つ一つ粘り強く取り除くことであり、「核兵器使用の威嚇」による対抗が唯一の方法とならない状況をつくりだす努力ではないでしょうか。

そもそも、核兵器の使用はもとより、その威嚇も、国際司法裁判所の96年の勧告的意見で示された通り、一般的に違法とされるものにほかなりません。

審理にあたったフェラリ・ブラボ判事が意見書で、「国連憲章第二条第四項と第五一条の間を隔てる川が、核抑止論という大きな石のために広がった」(NHK広島 核平和プロジェクト『核兵器裁判』、NHK出版)と述べたように、核抑止政策の存続は、憲章が当初想定していた自衛権をめぐる状況を大きく変えたと思われます。

つまり、第2条第4項で「武力による威嚇または武力の行使」が原則的に違法とされているものの、甚大な被害をもたらす核兵器の対峙が続くために、武力攻撃を受けた場合のみの例外であって安全保障理事会が必要な措置をとるまでの期限付きとされる、第51条の「個別的または集団的自衛権」に基づく備えを、常に必須のものとする状況――いわば、原則と例外の逆転現象を招いてきたのではないかという点です。

冷戦の終結以降も、この構造は変わっていません。国家間で武力衝突はおろか、対立が深まっていなくても、核抑止に基づく威嚇はそのまま背景において機能し続けるため、多くの国が軍事的緊張に常に巻き込まれてしまうのです。

その結果、保有国や同盟国の間で、核兵器の機密保護や核関連施設の保安を淵源とする、セキュリティー第一主義ともいうべき態勢が敷かれるようになる一方、核兵器の威嚇にさらされる国の間で、核開発や軍備増強への誘因が高まる状況もみられます。それがまた最悪の場合には、他国による予防的な武力行使の検討さえも誘発しかねないという悪循環を生んではいないでしょうか。

オーストリアが表明した〝誓い〟

以上、核兵器の非人道性について、兵器としての破壊力の観点にとどまらず、フレームを「核時代の継続が招く非人道性」にまで広げる形で、三つの角度から論じてきました。

そこで浮かび上がってくるのは、核兵器が使用される事態を未然に防ぐために必要と主張されてきた核抑止政策が、どれだけ多くの負荷を世界にもたらしてきたかという現実です。

広島と長崎への原爆投下以降、核兵器の使用を思いとどまらせるブレーキの役割を果たしてきたのは、抑止力よりも、「核兵器の使用がもたらす壊滅的な人道的結果」への責任の重みではなかったでしょうか。

実際、〝核の傘〟の外にある国々も、核攻撃の対象にされたことはありませんでした。例えば、非核兵器地帯のように核軍備の選択肢を共同で放棄したケースでは、「非核への誓いの重み」が、保有国に踏み越えてはならない一線を刻印する重要な要素になったのではないでしょうか。

先月のウィーン会議では、オーストリアが議長国の立場を離れ、一国としての誓いを表明しました。

受け入れがたい非人道的な影響と危険性を踏まえ、「核兵器のない世界」を実現するために、他の国や国際機関、市民社会などと協力して道を切り開くことへの誓いです。

会議に先立ち、SGIがウィーンで、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)や世界教会協議会と共催した宗教間パネルでも、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教の信仰者が、核兵器廃絶の道を探る討議を行いました。

その成果を、「私たちは誓う」と明記した共同声明としてとりまとめ、ウィーン会議の一般討論の席上、市民社会からの声の一つとして発表したのです。

「核兵器のない世界」を実現する〝行動の共有〟を生み出す鍵は、こうした誓いを、広島と長崎への原爆投下から70年を迎える本年に、どれだけ結集できるかにかかっていると思えてなりません。