2018年のSGI提言

世界人権宣言の起草に込められた 差別なき社会への思い

第2段
世界人権宣言の起草に込められた 差別なき社会への思い

ハンフリー博士の生い立ちと体験

第一の柱は、人権の礎が〝同じ苦しみを味わわせない〟との誓いにあることです。

国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、昨年、移民と難民を巡る問題を担当する特別代表のポストを新たに設けました。

現在、移民の数は世界で2億5800万人に達し、難民の数も増加の一途をたどる中、こうした人々に対して、ともすれば負担や脅威といったイメージばかりが先行し、排他的な風潮が強まっています。

特別代表に就任したルイーズ・アルブール氏は、「他のあらゆる人と同様、移民もその地位に関係なく、基本的人権の尊重と保護を受ける必要があるということは、はっきりさせておかねばなりません」(国連広報センターのウェブサイト)と訴えていますが、問題解決の土台に据えねばならない点だといえましょう。

20世紀の歴史が物語るように、2度に及ぶ世界大戦において異なる集団への蔑視や敵意が扇動され、多くの惨劇が引き起こされてきたことを忘れてはならないからです。

国連創設の3年後(1948年12月)に採択された世界人権宣言は、こうした教訓に基づいて結実したものに他なりませんでした。

移民と難民の人々に対する差別をはじめ、現代のさまざまな人権問題を解決するためには、今一度、世界人権宣言の精神を想起し、確認し合うことが重要ではないでしょうか。

国連の初代人権部長としてその制定に尽力したジョン・ハンフリー博士と、以前(1993年6月)、お会いしたことがあります。

世界人権宣言の意義などについて語り合う中、深く胸に残ったのは、博士自身が直面してきた差別や体験の話でした。

カナダ出身の博士は幼い頃、両親を病気で亡くし、自らもひどい火傷を負って片腕を失う悲劇に見舞われます。兄や姉とも離れて生活し、入学した寄宿学校では、その生い立ちのために、いじめや心ない扱いを受け続けました。

大学卒業後、結婚をした翌月に起きたのが世界恐慌で、博士自身は仕事を続けられたものの、いたる所で見かける失業者の姿に胸が痛んでならなかったといいます。また、1930年代後半にヨーロッパで研究生活を送った時には、ファシズムによる抑圧を目の当たりにし、一人一人の権利を国際法によって守る必要性を痛感したのでした。

博士はある時、「世界人権宣言について誇りに思うことは、市民的、政治的権利とともに経済的、社会的、文化的権利を入れることができたことです」と述懐していました。

こうした博士の生い立ちや体験が、世界人権宣言の草案をまとめる際に大きく影響したのではないかと思えてなりません。

実のところ、博士の功績は、20年に及ぶ国連の人権部長の仕事を終えた後も、長らく知られないままの状態が続きました。

博士が私に強調しておられたように、世界人権宣言はあくまで「多くの人の共同作業」で制定されたものであり、「〝作者不明〟であったところに、この宣言が、いくらかの威信と重要性をもてた理由があった」というのが、博士の考えだったからです。

それでも私は、博士から草案の復刻版をいただいた時、手書きの文字の一つ一つに、誰もが尊厳をもって生きられる社会の実現を願う〝種蒔く人の祈り〟が込められているのを感じてなりませんでした。

その心情を多くの人に伝えたいとの思いで、SGIでは「現代世界の人権」展などで、草案の復刻版を紹介してきたのです。

海外初の開催となったカナダのモントリオールでの同展の開幕式(1993年9月)で、博士との再会を果たし、世界人権宣言の精神を未来に語り継ぐことを誓った時の思い出は、今も忘れることはできません。