2018年のSGI提言

冷戦時代の教訓が物語る 恐怖による抑止の危険性

第11段
冷戦時代の教訓が物語る 恐怖による抑止の危険性

フルシチョフのアメリカ訪問

そこで私は、核兵器の使用を巡る危険な言葉の応酬がやまなかった冷戦時代の教訓を、振り返ってみたいと思います。

以前、テレビのドキュメンタリー番組で、ソ連の首脳として初めて訪米を果たしたフルシチョフ首相の様子が紹介されていました(ARTE FRANCEほか制作『フルシチョフ アメリカを行く』、NHK BS1、2017年10月18日放映)。

訪米は、ソ連が大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射に続いて、人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した2年後(1959年9月)のことでした。

〝近いうちに核戦争をしかける人物〟としてのイメージが浸透していたフルシチョフ首相は、行く先々で政治的な批判にさらされましたが、一方でアメリカ市民との触れ合いを何よりの楽しみとしていました。

意見の対立を抱えつつ、アメリカと一定の信頼関係を築いて帰国したものの、翌年、アメリカの偵察機であるU2がソ連の領空内に入り、撃墜される事件が起きました。関係は再び悪化の一途をたどり、1961年のベルリン危機に続いて、1962年にはキューバ危機を招いてしまったのです。

キューバ危機は、ケネディ大統領とフルシチョフ首相がぎりぎりの所で踏みとどまったことで最悪の事態を免れましたが、ドキュメンタリー番組の最後で、当時のフルシチョフ首相の心境を推察しながら、次のように問いかけていたことが胸に残りました。

もちろん、理由はいくつかあったであろう。政治家として妥協せざるを得なかったかもしれない。それでも核戦争に踏み切らなかった理由の一つに、つかの間ではあってもアメリカ市民と触れ合った懐かしい記憶があったことを想像できないだろうか――と。

これはあくまで番組の問いかけではありますが、核攻撃によって命を失うのは大勢の民衆に他ならないという現実は、私自身、フルシチョフ氏の後任のコスイギン首相と率直に語り合った点でもあります。

コスイギン首相とお会いしたのは1974年9月で、ソ連は当時、アメリカだけでなく中国とも深刻な対立関係にありました。

私は、核戦争のような事態が起きることは絶対にあってはならないとの思いで、3カ月前の訪中で目にした、ソ連の攻撃に備えて中国の人々がつくった防空壕の様子を伝えました。

北京では防空壕に加え、中学校でも生徒たちが校庭で地下室づくりをしている姿を見て、胸が痛んでならなかったからです。

その思いを込めつつ、中国の人々が感じている懸念を伝え、「ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」と話を切り出すと、コスイギン首相は意を決したようにこう述べました。

「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」と。

私はこの重要なメッセージを携え、再び中国を訪問しましたが、核保有国の指導者が核の脅威にさらされている大勢の民衆や子どもたちの存在に思いをはせる大切さを、強く感じずにはいられませんでした。

核戦争を防止するための重要な(くさび)

一方、ソ連と対立していたアメリカでも、シミュレーションによる軍事演習で大統領が衝撃を受けていた様子が、証言で浮き彫りにされています。

――レーガン大統領が1982年に参加した演習では、スクリーン上に映し出されたアメリカの地図に、ソ連からの核攻撃で壊滅した都市が赤い点で示されるようになっていた。

一分また一分と時間がたつごとに、その数は増え、「大統領がコーヒーを一口飲む前に、地図は赤い海へと変わっていった」。

レーガン大統領はその壊滅的な結末にショックを受け、マグカップをただ握りしめるしかなかった――と(デイヴィッド・E・ホフマン著『死神の報復(上)』平賀秀明訳、白水社を引用・参照)。

その体験を胸にとどめ、レーガン大統領はソ連との対話を模索し続ける中で、ゴルバチョフ書記長との首脳対談を果たし、INF全廃条約が実現をみたのであります。

シミュレーションでの仮想の地図では「赤い点」の増加だけで済むかもしれませんが、実際に核攻撃の応酬が始まってしまえば、どれだけ多くの尊い命が失われ、人間生活の営みが破壊されることになるのか。

SGIがICANと協力して制作した「核兵器なき世界への連帯」展で浮き彫りにしようとしたのは、まさにその点でした。

展示の冒頭では、「あなたにとって大切なものとは?」と問いかけます。

一人一人の胸に浮かぶものは違っても、核兵器はその「大切なもの」を根こそぎ奪うものに他ならないという現実と真正面から向き合うことが、核時代に終止符を打つための連帯の礎になると信じるからです。

核抑止政策がキューバ危機での双方の挑発のエスカレートをぎりぎりまで止められなかったように、〝恐怖の均衡〟はいつ何時、誤解や思い込みで破綻するかわからない、薄氷を踏むものでしかないことを、核保有国と核依存国の指導者は肝に銘じるべきです。

2002年にインドとパキスタンの緊張が高まった時も、両国が踏みとどまった背景にはアメリカの外交努力がありました。

仲裁に入ったアメリカのコリン・パウエル国務長官は、パキスタンの首脳に電話し、「あなたも私も核など使えないことはわかっているはずだ」と自重を促しました。

その上で、「1945年8月の後、初めてこんな兵器を使う国になるつもりなのか。もう一度、広島、長崎の写真を見てはどうか」と話すと、パキスタン側は説得に応じました。

また、インド側に働きかけた時も同様の反応が得られ、危機を回避することができたというのです(「朝日新聞」2013年7月10日付の記事を引用・参照)。

以上、歴史の教訓をいくつか振り返ってきましたが、核戦争を防止する上で重要な楔となってきたのは、〝恐怖の均衡〟による抑止というよりはむしろ、まったく別の要素であったとはいえないでしょうか。

一つは、敵対する国に対して門戸を閉ざさず、あらゆる角度から対話の道を探るなどコミュニケーション(意思疎通)の回路を確保しようとする努力であり、もう一つは、広島や長崎の惨劇を踏まえて多くの民衆の犠牲が生じることに思いをはせることにあったのではないかと、感じられてならないのです。