2019年のSGI提言

害心を取り払い

第4段
害心を取り払い"命を救う存在"へ 釈尊が促した生き方の転換

アングリマーラを変えた二つの転機

では、いかなる手段もいとわず、どんな犠牲が生じても構わないといった思想に横たわる「平和不在」の病理を乗り越えて、すべての人々の命を救うための軍縮を世界の潮流に押し上げていくためには、何が必要となるのか――。

この難題と向き合うにあたり、〝病に対する治癒〟のアプローチを重視する仏法の視座を示すものとして紹介したいのは、釈尊が在世の時代の古代インドで、多くの人命を奪い、人々から恐れられていたアングリマーラを巡る説話です。

――ある時、釈尊の姿を見かけたアングリマーラは、釈尊の命を奪おうとして、後を追いかけた。

しかし、どれだけ足を速めても、釈尊のそばにはたどりつけない。

業を煮やした彼が立ち止まり、釈尊に「止まれ」と叫んだ。すると釈尊から返ってきたのは、「アングリマーラ、わたしは止まっている。おん身が止まれ」との答えだった。

自分は足を止めているのに、なぜ、そんなことを言うのかとたずねるアングリマーラに対し、釈尊はさらにこう答えた。

「止まれ」と言ったのは足のことではない。次々と命を奪うことに何の痛痒つうようも感じない、その行動の奥底にある害心に対し、自らを制して止まるように言ったのである、と(長尾雅人責任編集『世界の名著1バラモン教典原始仏典』中央公論社を引用・参照)。

この言葉に胸を打たれたアングリマーラは、害心を取り払って悪を断つことを決意し、手にしていた武器を投げ捨てた。そして釈尊に、弟子に加えてほしいと願い出たのです。

以来、彼は釈尊に帰依し、自らが犯した罪を深く反省しながら、贖罪の思いを込めた仏道修行にひたすら励みました。

そんなアングリマーラに、もう一つの重要な転機が訪れました。

――アングリマーラが托鉢たくはつをしながら街を歩いていると、難産で苦しんでいる一人の女性を見かけた。何もできずに立ち去ったものの、女性の苦しむ姿が胸に残り、釈尊のもとに赴いてそのことを伝えた。

釈尊はアングリマーラに対し、女性のもとに引き返して、次の言葉をかけるように促した。「わたしは生まれてからこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。このことの真実によっておん身に安らかさあらんことを、胎児に安らかさあらんことを」と。

自分が重ねてきた悪行を知るがゆえに、アングリマーラは真意がつかめなかった。そこで釈尊は、アングリマーラが害心を自ら取り払い、深く反省して修行を重ねていることに思いを至らせるかのように、改めて彼に対し、女性にこう告げるように呼び掛けた。

「わたしはとうとい道に志す者として生まれ変わってからこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。このことの真実によっておん身に安らかさあらんことを、胎児に安らかさあらんことを」と。

釈尊の深い思いを知ったアングリマーラは、街に戻って女性に言葉を捧げた。すると苦しんでいた女性は穏やかな表情を取り戻し、無事に子どもを出産することができたのだった――(前掲『世界の名著1バラモン教典原始仏典』を引用・参照)。

この二つの出来事を通して、釈尊がアングリマーラに促したことは何であったか。

それは、彼を長らく突き動かしてきた害心に目を向けさせて、悪行を食い止めたことにとどまりませんでした。母子の命を助けるための道を照らし出し、アングリマーラが自らの誓いをもって〝命を救う存在〟になっていく方向へと、心を向けさせたのです。

もちろんこの説話は、一人の人間の生き方の変革のドラマを描いたものであって、現代とは時代も違えば、状況も違います。

しかし、行為の禁止を強調するだけでなく、その行為とは正反対の〝命を救う存在〟へと踏み出すことを促すベクトル(方向性)は、社会の変革にまで通じる治癒の底流となり得るのではないかと、私は提起したいのです。