2019年のSGI提言

仏法に脈打つ「同苦」の精神がSGIの平和運動の源流

第7段
仏法に脈打つ「同苦」の精神がSGIの平和運動の源流

無関心と無慈悲が苦しみを強める

現在、国連難民高等弁務官事務所が支援する難民の3割以上が、アフリカの国々で生活をしています。

国連で先月採択された、難民に関するグローバル・コンパクトでも呼び掛けられたように、大勢の難民の人々を受け入れ国だけで支えるのは容易ではなく、国際社会をあげて難民への支援とともに、受け入れ国に対する支援を強化することが欠かせません。

ともすれば、難民問題や貧困の問題にしても、その悲惨さに直面していない場合、〝自分たちの国には関係がない〟とか〝自分たちの国の責任ではない〟と考えてしまう傾向がみられます。「人間中心の多国間主義」は、こうした国の違いという垣根を超えて、深刻な脅威や課題に苦しんでいる人々を救うことを目指すアプローチなのです。

仏法の出発点となった釈尊の「四門出遊しもんしゅつゆう」の説話には、この意識転換を考える上で示唆を与えるメッセージがあると、私は考えます(以下、『ゴータマ・ブッダI』、『中村元選集[決定版]』第11巻所収、春秋社を引用・参照)。

古代インドの時代に、王族として生まれた釈尊は、政治的な地位と物質的な豊かさに恵まれる中で、寒さや暑さに悩まされることも、塵や草や夜露によって衣服が汚れることもない生活を送り、多くの人が王族に仕えてくれる環境の下で青年時代を送りました。

しかしある日、城門から出た釈尊が目にしたのは、病気や老いを抱えて苦しむ人々や、道端で亡くなっている人の姿でした。

その姿に激しく心を動かされた釈尊は、自分も含め、人間であるならば誰しも生老病死の苦しみは逃れがたいものであることを、まざまざと感じたのです。

釈尊が胸を痛めたのは、生老病死の悩みもさることながら、多くの人がそれを〝今の自分とは関係のないもの〟と考えて、苦しんでいる人々を忌み嫌ったり、いとう気持ちを抱いてしまっていることでした。

後に釈尊は当時を回想し、そうした人間心理について次のように述べました。

「自分が老いゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している――自分のことを看過して」

こうした言葉を通し、釈尊は「老い」だけでなく、「病」や「死」に対しても同じ心理が働きやすいことを喝破しました。他者の苦しみを自分とは無縁のものと思い、嫌悪の念すら抱く――この人間心理を、釈尊は「若さの驕り」「健康の驕り」「いのちの驕り」として戒めたのです。

それらの驕りを、〝人間と人間との心の結びつき〟の観点から見つめ直してみるならば、驕りから生じる無関心や無慈悲が、人々の苦しみをより深刻なものにしてしまうという問題が、浮かび上がってくるのではないでしょうか。

いつの時代にも、〝貧困などの状態に陥るのは本人の運命でやむを得ない〟といった運命論や自己責任論をはじめ、〝人々に苦しい思いをさせたとしても、自分の知るところではない〟といった道徳否定論が横行しやすい面があります。

こうした考えに対して釈尊は、人間が生きる上でさまざまな苦しみに遭うことは避けられないとしても、自身の内なる可能性を開花させることで、人生を大きく切り開いていくことができると強調しました。

そしてまた、困難を抱える人々に対し、同苦して寄り添い、励まし支えていく縁を紡ぎ合う中で、安心と希望の輪を広げることができると強調したのです。

この仏法の眼差しは、生老病死の悩みにとどまらず、社会でさまざまな困難に直面している人々にも向けられたものでした。

例えば、ある大乗仏教の経典(優婆塞戒経うばそくかいきょう)には次のような一節が説かれています。

「乾燥した場所には、井戸をつくり、果樹林を植え、水路を整備しよう」

「年配の人や子どもや体の弱い人が困っていれば、彼らの手をとって助けよう」

「住んでいた土地を失ってしまった人を見かけたら、親身な言葉をかけて寄り添おう」

これらの言葉は、自分も同じ苦しみに直面するかもしれない一人の人間として、〝自分だけの幸福もなければ、他人だけの不幸もない〟との心で「自他共の幸福」を目指していく、仏法の精神の一つの表れといえるものです。

私どもがFBO(信仰を基盤とした団体)として、平和や人権、環境や人道などの地球的な課題に取り組む上での思想的源流となってきたのも、こうした他者の苦悩に「同苦」する精神に他なりませんでした。

釈尊が洞察した、老いや病や死を自分に関係がないものとして厭い、苦しみを抱える人に冷たく接してしまう心理――。それはまた、貧困や飢餓や紛争で苦しんでいる人々を、自分が直面する問題ではないからと意識の外に置いてしまう心理と、底流において結びついているのではないかと思えてなりません。

環境問題が促す安全保障観の転換

この問題を考える時、先に触れた国連広報局/NGO会議の成果文書の中にも、「私たち民衆は、ナショナリズムかグローバリズムか、いずれかしかないといった誤った選択を拒否する」との言葉があったことが想起されます。

自国第一主義に象徴されるようなナショナリズムを追求すればするほど、「排他」の動きが強まることになり、経済的な利益を至上視するグローバリズムを進めれば進めるほど、「弱肉強食」的な世界の傾向が強まってしまいます。

そうではなく、深刻な脅威や課題に直面する人々を守ることに主眼を置いた「人間中心の多国間主義」のアプローチを、すべての国々が選び取って共に行動を起こしていく時代が来ていると思うのです。

安全を守る防衛の歴史には、〝城壁を堅固に築けば、自分たちは安全である〟との思想がみられますが、そうした考えは現代においても、〝軍事力で防御された国境の内側にいる限り、自分たちの安全は確保できる〟といった形で受け継がれてきたといえましょう。

しかし一方で、気候変動をはじめとする地球的な課題の多くは、国境を越える形で被害が及ぶものであり、新しいアプローチでの対応が欠かせないのではないでしょうか。

こうした中、ラテンアメリカとカリブ海諸国が、昨年3月、環境に関する権利を地域全体で守ることを目指す、「エスカス条約」という画期的な枠組みを採択しました。

この地域では、ハリケーンによる災害や、海洋の酸性化などの問題を抱えてきました。そこで、条約を通じて地域間の協力を強化するとともに、環境問題に取り組む人々を共に守り、重要な決定をする場合には多様な意見に耳を傾けることを義務づけるという、「人間中心」の方針が打ち出されたのです。

加えて、グローバルな規模でも注目すべき動きが始まっています。

国連環境計画が2年前に開始した「クリーン・シー・キャンペーン」で、海洋汚染を引き起こしてきたプラスチックごみの削減を目指す運動です。

現在までに50カ国以上が参加し、対象となる海岸線は世界全体の6割を超えるまでになりました。

これまで〝海岸線を守る〟というと防衛的な観点が前面にあったといえますが、今やそこに、〝国の違いを超えて海洋を保護し、生態系を共に守る〟というまったく新しい意味合いが生じつつあるのです。

歴史を振り返れば、現代にもつながる排他的なナショナリズムと、利益至上主義のグローバリズムの端緒となったのが、19世紀後半から世界に台頭した帝国主義でした。

創価学会の牧口常三郎初代会長は、その嵐が吹き荒れた20世紀の初頭(1903年)に、他国の民衆を犠牲にして自国の安全と繁栄を追い求める生存競争から脱して、各国が人道的競争に踏み出すべきであると訴えていました。

そしてその要諦を、「他のためにし、他を益しつつ自己も益する方法を選ぶにあり。共同生活を意識的に行うにあり」(『牧口常三郎全集』第2巻、第三文明社、現代表記に改めた)と強調したのです。

この軸足の転換は、現代の世界で切実に求められているものだと思えてなりません。

人道危機や環境協力の分野で助け合う経験を重ねることは、「平和不在」の病理がつくりだした対立と緊張の荒れ地に、信頼と安心の緑野を広げるための処方箋となるはずです。その先には、対抗的な軍拡競争から抜け出す道も開けてくるのではないでしょうか。

今年の9月には、国連で「気候サミット」が開催されます。

世界全体が「人間中心の多国間主義」へと大きく踏み出すための絶好の機会であり、〝同じ地球で生きる人間の生命と尊厳にとって重要な協力とは何か〟に焦点を当て、温暖化防止の取り組みの強化を図るとともに、安全保障観の転換を促す機運を高める出発点にしていくことを、私は強く呼び掛けたいのです。