2021年のSGI提言

仏法の源流に力強く脈打つ 誰も置き去りにしない精神

第4段
仏法の源流に力強く脈打つ 誰も置き去りにしない精神

「毒矢の\(たと\)え」が提起する視座

この問題を考える上で、想起される仏法の視座があります。釈尊が説いた「毒矢の\(たと\)え」です。

――ある男が、毒矢に射られた。その時、「この矢を射た者はなんという姓でなんという名の者か」との疑問や、「弓矢を作った者はだれか」といったことに気をとられ、「それが分からぬうちは矢を抜いてはならぬ」とこだわり続けたために、状況が放置されそうになったとする。しかしそれでは、毒矢が刺さったままで、やがて命を落とすことになってしまうのではないか――と(中村元・増谷文雄監修『仏教説話大系』第11巻、すずき出版を引用・参照)。

この譬えは、人間の身に実際に起きる問題よりも、観念的な議論に関心が向きがちな弟子を諭すために、釈尊が用いたものでした。

この譬えに着目し、釈尊の目的は体系的な教えを説き明かすことにはなかったと洞察していたのは、20世紀を代表する宗教学者のミルチア・エリアーデ博士でした。博士が釈尊の教えを、人々の苦しみに対する治療と位置付けていたように、釈尊が何よりも心を砕いていたのは〝毒矢を抜き去ること〟、つまり、一人一人の苦しみの根源を取り除くことにありました。

仏法の出発点に息づいていたのは、そうした切なる思いから釈尊が折々に語った言葉にほかならなかったのです。

釈尊の教えの精髄である法華経を礎にして、13世紀の日本で仏法を説き広めた日蓮大聖人は、釈尊の言葉が及ぼした力について、「\(ともしび\)に油をそへ老人に杖をあたへたるがごとく」(御書576ページ)と表現していました。

つまり、何か超人的な力をもって人々を救済したのではなく、釈尊は、相手の内面に本来具わる力を引き出す支えとなるような言葉を語ることに専心していたのです。

災害や飢饉に加えて疫病の蔓延が相次いでいた当時の日本で、「立正安国論\(りっしょうあんこくろん\)」を著し、〝民衆の苦悩と嘆きを取り除く〟という一点に立って行動する重要性を訴えた大聖人の仏法にも、その精神は力強く脈打っていました。

度重なる災禍によって、人々がどれだけ塗炭の苦しみにさいなまれていたのか――。大聖人は、その様子をこう記しています。

三災\(さんさい\)七難\(しちなん\)・数十年起りて民半分に減じ残りは\(あるい\)は父母・或は兄弟・或は妻子にわかれて\(なげ\)く声・秋の虫にことならず、家家\(いえいえ\)のち(散)りうする事冬の草木の雪にせめられたるに似たり」(同1409ページ)

こうした時代にあって、大聖人は混迷を深める社会に希望を灯すべく、災禍や苦難に見舞われた人々を励まし続けたのです。

信念の行動を貫く中で流罪などの迫害に何度も遭ってきた大聖人は、物理的な距離で遠く隔てられた弟子たちを何とか勇気づけたいとの思いで、手紙を認めることもしばしばでした。

ある時は、夫を亡くした一人の女性門下に、次のような手紙を送っています。

――亡くなられたご主人には、病気の子もおり、愛娘もいた。「私が子どもを残し、この世を去ったら、老いた妻が一人残って、子どもたちのことをどれほど不憫\(ふびん\)に思うだろうか」と嘆かれたに違いない、と(同1253ページ、趣意)。

その上で、「冬は必ず春となる」(同ページ)との言葉を綴られた。そこには、女性門下を全魂で励まそうとする、次のような万感の思いが込められていたのではないかと拝されるのです。

今は、厳しい〝冬〟の寒さに覆われているような、辛い思いをされているに違いありません。しかし、〝冬〟はいつまでも続くことはない。必ず〝春〟となるのです。どうか心を強く持って、生き抜いてください――と。

そしてまた、「幼いお子さんたちのことは、私も見守っていきますから」との言葉を添えて、夫の逝去によって人生の時間が〝冬〟のままで止まりかけていた女性門下の胸中に、温かな〝春〟の光を届けたのです。

この女性門下への言葉のように、大聖人は手紙に認めた一つ一つの文字に、自らの〝心〟を託された。そして手紙が読まれた時に、その言葉は物理的な距離を超えて大聖人の〝心〟を浮かび上がらせ、相手の胸に刻まれたのでした。

宗教が担うべき社会的な使命

大聖人の時代とは状況が異なりますが、今回のパンデミックによる混乱が広がる中で、多くの人たちが痛切に感じたのは、「自分の人生が急停止してしまった」「生活の基盤が突然、絶たれてしまった」「まったく未来が見えなくなってしまった」といった、やりきれない思いだったのではないでしょうか。

こうした時に、社会的な支援や周囲からの手助けを得られず、苦しみを独りで耐えるほかない状態が続く限り、その人の世界は暗転したままとなりかねない。

しかし誰かがその状態に気づいて寄り添った時、困難を抱えた人も、自らの苦境を照らす温かな光が周囲や社会から届けられることを通じて、かけがえのない人生と尊厳を取り戻す力を得ることができるのではないかと思うのです。

私どもSGIが大聖人の精神を受け継ぎ、世界192カ国・地域で広げてきた信仰実践と社会的活動の立脚点も、〝孤立したままで困難を深めている人々を置き去りにしない〟との信念にありました。

その信念は、私の師である戸田第2代会長の「世界にも、国家にも、個人にも、『悲惨\(ひさん\)』という文字が使われないようにありたい」(『戸田城聖全集』第3巻)との言葉に凝縮された形で表れています。

ここで強調したいのは、世界と国家と個人という、すべての面において、戸田会長の眼差しが「悲惨」を取り除くという一点に貫かれていることです。

世界に生じているどんな歪みであろうと、どの国が直面する困難であろうと、どのような人々の身に起きている苦境であろうと、人間と人間とを隔てるあらゆる垣根を越えて、「悲惨」を取り除くために共に力を合わせて行動する――。

これまでSGIが、グローバルな諸課題の解決を求めて、志を同じくする多くのNGO(非政府組織)をはじめ、さまざまな宗教を背景とするFBO(信仰を基盤とした団体)と連携を深めてきたのも、この精神に根差してのものにほかならないのです。

ある意味で、人類の歴史は脅威の連続であり、これからも何らかの脅威が次々と現れることは避けられないかもしれません。

だからこそ肝要となるのは、どんな脅威や深刻な課題が生じようとも、その影響によって困難を抱えている人々を置き去りにせず、「悲惨」の二字をなくすための基盤を社会で築き上げていくことだと思います。

なかでも現在のコロナ危機で物理的・身体的な距離の確保が求められ、他の人々の置かれている状況が見えにくくなる中で、同じ社会で生きる人間としての〝方向感覚〟を失わない努力を後押しする役割を、宗教やFBOが積極的に担うことが求められていると、感じられてなりません。

パンデミックが世界に及ぼした打撃は極めて深刻で、脱出の方法が容易に見いだせない迷宮のような様相を呈しています。しかし、一人一人を窮状から救い出すアリアドネの糸は、それぞれの命の重みをかみしめ、その命を守るために何が切実に必要とされているのかを見いだすことから浮かび上がってくるのではないでしょうか。