2021年のSGI提言

社会を分断する差別を打ち破り 万人の尊厳が輝く世界を

第8段
社会を分断する差別を打ち破り 万人の尊厳が輝く世界を

感染症を巡る歴史

続いて第三の柱として提起したいのは、感染者への差別や新型コロナを巡るデマの拡散を防ぐとともに、誰も蔑ろにしない「人権文化」の建設を進めることです。

今回のパンデミックを機に、改めて読まれるようになった文学作品の一つに、ダニエル・デフォーの『ペスト』があります。

17世紀のロンドンを舞台にしたこの作品では、ペストの恐怖にかられた市民がデマに惑わされ、不安を煽る言葉に影響されて我を失っていく姿が描かれていますが、古くはペストから近年のエイズにいたるまで、感染症に苦しむ人を差別したり、パニックによる分断や混乱で社会に深い傷痕を残したりするような歴史が繰り返されてきました。

がんや心臓病などの疾患に対する、「自分もいつか発症するのではないか」といった心配とは違って、感染症の場合は、「誰かにうつされるかもしれない」との不安が募るために、病原体への恐怖心がそのまま〝他者への警戒心〟に転じやすいといわれます。

問題なのは、その警戒心がエスカレートして、感染症に苦しむ人や家族をさらなる窮地に追い込むような事態を招いたり、以前から根強い差別や偏見にさらされてきた人々に対して、感染拡大の責任を転嫁したりするような空気が社会で強まることです。

特に現代においては、感染症に関する誤った情報やデマが、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通じて一気に拡散する状況があることが懸念されます。

その背景には、感染防止の対策が次々と変わることや、感染拡大が生活に及ぼす影響が深刻であるために、多くの人が情報を求めて、新聞などのメディアだけに向かうのではなく、ネット空間にあふれる真偽不明の情報や出所不明の発信に触れて、〝情報の空白〟を埋めようとする動きがあるといわれます。

その中には、人々の不安につけこむ形で社会を扇動しようとしたり、特定の人々を槍玉に挙げて憎悪の感情を向けさせようとしたりする、悪意に満ちた言説も少なくありません。

正確な情報の共有が不可欠

こうした誤った情報やデマが野放図に拡散され、差別や偏見が増幅することで、人間社会を支える基盤が蝕まれていく〝もう一つのパンデミック〟ともいうべき事態は、新しい造語で「インフォデミック」と呼ばれています。

国連でも強い注意喚起をしており、昨年5月には、新型コロナに関する誤った情報やデマの蔓延を防ぐための「ベリファイド」という取り組みが立ち上げられました。多くのメディアとも連携して、正確で信頼できる情報について、国連や科学者などの専門家によって内容が〝検証済み〟であることを示す「ベリファイド」の認証マークをつけて発信していく活動です。

また、世界中の市民に「情報ボランティア」としての参加を呼び掛け、信頼できるコンテンツを市民の手で積極的に拡散し共有することを通し、家族やコミュニティーの安全とつながりを守ることが目指されているのです。

虚偽の情報やデマの拡散が放置されたままで、その誤りが周知徹底されなかった場合、重大な問題となるのは、正しい情報の定着が妨げられることだけではありません。

何より懸念されるのは、デマの根にある強い差別や偏見が、感染症への恐怖に乗じる形で人々を疑心暗鬼に陥らせて、社会の亀裂を深め、誰もが守られるべき尊厳と人権に〝断層〟を生じさせることです。

感染症と人権を巡る問題について、WHOがパンデミック宣言を発する5日前に、「人間の尊厳と人権は、後付けではなく、その取り組みの前面と中心に掲げる必要がある」と、いち早く留意を促していたのが、国連のミチェル・バチェレ人権高等弁務官でした。

バチェレ氏は昨年9月にも、コロナ危機の克服において外してはならない急所として、次のように訴えていました。

「根深い不平等と人権の格差が、ウイルスの感染拡大とその脅威を加速度的に膨張させていく様子を、私たちは目の当たりにしてきました。社会とその狭間に存在するこれらの格差を修復し、深く刻まれた傷を癒すための行動が、今こそ必要とされています」

ここでバチェレ氏は「根深い不平等と人権の格差」に言及していますが、こうした「深く刻まれた傷」は社会で構造化されて、問題の深刻さが見過ごされがちになってきたものの、コロナ危機をきっかけに差別意識がより鮮明な形で表れるようになった面があるのではないでしょうか。

コロナ危機が深刻化し、多くの人々が「生きづらさ」を感じるようになる中で、差別や憎悪を煽る言説に影響を受け、そこに憤懣のはけ口を求めていく危険性が高まっている点が懸念されるのです。

建設的な行動を生み出すカギ

暮らしている地域や職業の違い、人種や宗教の違いなど、あらゆる差異に関係なく誰もが感染する恐れがある病気であり、共に乗り越えるべき課題であるはずなのに、かえって社会の分断が広がり、脅威を加速させてしまう背景には何があるのか――。

この問題を考える上で、差別を巡る示唆的な分析として私が触れたいのは、アメリカの哲学者のマーサ・ヌスバウム博士が、社会と嫌悪感の関係を論じた著書『感情と法』(河野哲也監訳、慶應義塾大学出版会)で述べていた言葉です。

博士は、人々が社会で境界線をつくり出そうとするのは他者への「嫌悪感」に根差しており、境界線を設けることで、自分たちが「安堵」を得たいと考えるからであるとして、こう問題提起しています。

「私たちは救済を求めて嫌悪感を呼び出している」と。

ここでヌスバウム博士が論じているのは、〝邪悪な行為をするのは特定の集団だけで、自分たちにはまったく関係ない〟とみなす思考に対してのものですが、感染症が引き起こす混乱と差別を巡る問題にも、その構図は当てはまるのではないかと私は考えます。

同書の中で博士が指摘するように、「病原菌」といった医学的言説が嫌悪感を示す表現として転用されて、特定の人々を貶めたり、抑圧したりする傾向があるからです。

差別の根源にある〝自分たちこそ最も正しく尊い存在にほかならない〟との意識。それが何らかの社会的危機が起きた時に、〝自分たちだけは難を逃れたい〟と望む気持ちと相まって、他の集団への嫌悪感を強め、関わり合いを断つことで安堵しようとする構図がみられると思うのです。

ヌスバウム博士は、嫌悪感はその感情を向ける相手や集団に対し、「共同体の成員あるいは世界の成員ではないというレッテル」を貼るものであり、特にそれが「弱い集団や人物の周縁化を行う時には、危険な社会的感情となる」と警鐘を鳴らしています。

また、博士が民主主義社会を支える感情として重視するのは「憤り」であるとし、その機能について次のように述べています。

「憤りは建設的な機能を持っている。憤りが語るのは、『これらの人々に対して不正がなされてきたが、そのような不正はあるべきではなかった』ということである。憤りはそれ自体で不正を正す動機を提供する」と。

その意味から言えば、人々が感じる「生きづらさ」は差別意識を募らせる原因となり、社会を分断させる危険性を持つ半面で、共生の社会を築くための建設的な行動を生む可能性も秘めているといえましょう。

コロナ危機による打撃が社会のあらゆる分野に及ぶ中で、人々の生命と尊厳が蔑ろにされることに対する痛みについて、これまで以上に切実に胸に迫った人は決して少なくなかったのではないでしょうか。

そこで肝要となるのは、自分が感じる「生きづらさ」を、他者を貶める「嫌悪感」に向けて解消しようとするのではなく、他の人々が感じている「生きづらさ」にも思いをはせながら、厳しい社会の状況を変えるための〝建設的な行動〟の輪を広げることだと思えてならないのです。

法華経に説かれる生命触発のドラマ

もちろん、自分の存在を何よりも大切に思う心情は、人間にとって自然な感情であり、私どもが信奉する仏法の人権思想においても、その点が踏まえられています。例えば、釈尊を巡る逸話を通して、こんな教えが伝えられています。

――ある時、コーサラ国の国王夫妻が会話を交わす中で、夫妻のそれぞれが「自分よりもさらに愛しい他の人は存在しない」との思いを抱いていることが話題となった。その後、釈尊のいる場所に赴いた国王が、自分たちの正直な思いを伝えたところ、釈尊は次の詩句をもって応えた。

「どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない」――と(『ブッダ 神々との対話』中村元訳、岩波書店を引用・参照)。

つまり、自分を〝かけがえのない存在〟であると感じるならば、誰もが同じ思いを抱いている可能性があることを深くかみしめるべきであり、その実感を自分の生き方の基軸にして、他者を害するような行為を排していかねばならないと、釈尊は諭したのです。

この逸話が示すように、仏法の人権思想が促しているのは、自分を大切に思う心情を打ち消すことではなく、その実感を〝他者に対しても開かれたもの〟へと昇華させる中で、自分と他者、自分と社会との関係を紡ぎ直すことにあると言ってよいでしょう。