仏法の視点から

「大いなる一念の旅」

「大いなる一念の旅」時代を創る―日蓮仏法の視座から(12)

照喜納弘志 関東男子部教学部長

「異世界」に飛び込め! 「心の壁」を打ち破れ!
御聖訓〝題目の声は十方世界で届かないところはない〟

友人からよく聞かれる。
「創価学会って何をしているの?」
私はいつも「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」という小説『人間革命』の主題を通して、「一人一人の幸福の実現と、平和な社会の建設を目指して、平和・文化・教育の活動に取り組んでいるんだ」と答える。すると「なぜ、創価学会の活動で平和な社会ができるの?」と尋ねられることがある。
仏法には「一念三千」という考え方がある。私たちの一瞬の生命(=一念)には、誰でも例外なく、森羅万象の全宇宙(=三千)が具わっている。と同時に、私たちの一瞬の生命が全宇宙に行きわたっている。
つまり、一人の人間の生命の変化、成長が、他人にも影響を与え、ひいては国や社会、環境をも変える力を持つのだ。私たち創価学会の活動は全て、この生命観を根本に据えている。しかし、壮大なスケールの「一念三千」は、無力感に心をさいなまれた人にとって、決して理解しやすいものではないと思う。
どう語ればいいのだろうか。この問題意識を持ちながら、池田先生の対談集『21世紀への対話』をあらためてひもといた。対談相手は、20世紀最大の歴史家といわれるトインビー博士である。同書の「宗教の役割」という章に、ヒントとなる数行があった。

◆「わたし」と「社会」と「環境」はつながっている

「宗教の役割」の章で両者は、未来の宗教のあり方を論じている。トインビー博士は、宗教とは「(人類の生存を脅かしている)諸悪と対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならない」と語る。そして、その克服すべき諸悪として
 ①「貪欲」(=生命が生み出す悪)
 ②「戦争、社会的不公正」(=文明が生みだす悪)
 ③「人為的環境」(=人類が生みだす環境問題)
の3種類を挙げた。

対して池田名誉会長は、この三つの悪がそれぞれ①=自己、②=社会、③=環境、の次元に当たると指摘。そして、「個人」と「国土」の問題を考えるにあたり、仏法の「三世間」という考え方を紹介し、この三つはお互いに不可欠で関係し合っている、と語る。

「私は、この三つの関係を正常なものとすることに、最大の努力を注がなければならないと信ずるのです。そして、そのためには、人間一人一人が、自己の生命の内奥からの変革をめざさなければならないでしょう。これを可能にする宗教こそ、未来に望まれる真の宗教たりうると思います」

言うまでもなく、この考えは「一念三千」を土台にしたものだ。西欧の文明観の限界をめぐって呻吟を重ね、「世界宗教」を渇望した大歴史家トインビーの期待に応えうる智慧を、池田先生は仏法の生命観から汲み出そうとされたのである。

挿絵

◆「世間」とは「違い」の意味

「三世間」について考える前に、土台となる「一念三千」を確認しておきたい。

まず、仏界を含む10種類の生命の境涯からなる「十界」の各界が、互いに十界を具えている、と説く「十界互具」がある。

次に、十界の衆生に共通して具わる、生命の10種類の側面を示した「十如是」がある。

私たちが毎日の勤行で読誦している、法華経方便品第2の中には、この「十如是」が示されている。

さらに「十界互具」と「十如是」に「三世間」が合わさって、「一念三千」となる。

挿絵

では具体的に、「三世間」の中身に入っていこう。

「世間」とは、「差別」という意味である。具体的には①「五陰世間」②「衆生世間」③「国土世間」であり、それぞれに十界の違いがあると説かれる。

まず「五陰世間」だが、五陰とは、色陰・受陰・想陰・行陰・識陰のことで、衆生の生命を構成する五つの要素をいう。五陰の「陰」とは、〝集まり〟の意味であり、私たち一人一人は、この五陰が集まって成立しているとされる(五陰仮和合)。

「色陰」とは、生命体を構成する物質的側面。「受陰」とは、六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)を通して生じる感覚。「想陰」とは、受け入れたものを心に思い浮かべる働き。「行陰」とは、想陰に基づいて思い浮かべたものを、行動へ結びつける心の作用、すなわち意志や欲求の働きである。そして「識陰」とは、色陰・受陰・想陰・行陰を統括する活動、すなわち「認識する」「識別する」心のことである。

要するに、衆生の心身が五陰であり、五陰の働きが十界によって異なることを「五陰世間」という。

この五陰が一体となっているのが、それぞれの衆生であり、「衆生世間」とは衆生にも十界の差異があることをいう。

さらに、衆生の住んでいる場所や自然環境にも、衆生の生命に応じて十界の違いがある。これが「国土世間」である。

同じ環境でも、喜んで生活する人もいれば、不平不満ばかり言う人もいる。それぞれの生命の違いによって、環境の意味が変わるのである。

挿絵

◆「差異」から「価値」を生むために

このように、どの次元から考えても、私たちはいつも「自分とは異なる誰か」「自分とは異なる何か」に囲まれている。家族ですら、物事の感じ方や性格、体の特徴に至るまで、同じ人は一人もいない。ましてや地域、社会、世界へと目を転じていけば、出身地、経歴、言葉、文化、宗教、民族など千差万別である。

この「違い」や「区別」に価値を認めれば、それは「特徴」となり、「個性」となる。逆に、「違い」を否定的に見れば「差別」の心が生まれる。さらにそれは「いじめ」や「戦争」をも生み出す。

他者との「違い」にこだわり、対立を煽るか、「違い」を認めて差別する心を克服するか。この分岐点でこそ、仏法の価値を引き出すことができる。

「三世間」を含む「一念三千」は、この世にどれほど広い次元にわたって、根深い「世間」=「違い」があろうとも、それら「全ての現象」(=三千世間)は、一切が「わが心」(=一念)におさまっている、という生命観である。この考えを土台にして、創価学会は、私たちの生命そのものから慈悲をわきたたせて、自分と異なる他者に関わっていく積極性を確立した。「一念三千」こそ「宿命」を「使命」に変えていく学会の思想の一つの淵源だといえよう。

私たちに具わる「違いを見分ける力」「分別する力」を、違いを生かし、人生に価値を生みだす源泉として、使い切っていく。その具体的な方法が、日々唱える題目である。

「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし(中略)手の音はわずかなれども鼓を打つに遠く響くが如し、一念三千の大事の法門是なり」(御書808ページ)

手をたたく音は小さくても鼓を打てば遠くまで響く。同じように、南無妙法蓮華経の題目によって、人間の一念の力は全宇宙に届くとの仰せである。

さらに「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば(中略)如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」(同1443ページ)とも仰せである。

題目によって、誰にも差別なく、仏界という尊貴な生命が涌現する。この「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無からしめん、法華経130ページ)とは、あらゆる人を、差異なく自分と同じ幸福境涯にしようとの仏の真意である。

挿絵

◆先入観を超える瞬間

日蓮仏法の実践者である私たち学会員は、個性や性格の違い、環境の違いを認め合い、積極的に現実を変える行動を起こしている。そこには「心にできた壁を乗り越える」という自分自身との闘いがある。

埼玉・川越の男子部ニュー・リーダーである柴田英輝さんは、ろう者サッカー男子日本代表監督を務め、昨年のアジア大会で日本代表をアジア王者に導いた。

監督に就任したばかりのころは、自分の意志が耳の不自由な選手に全く伝わらないという現実を前に、がくぜんとしたという。「止まれ!」と笛を吹いても、選手は走ったままである。自分の考えを伝えようとしても、〝意を尽くして語り合う〟ことそのものがままならない。自分と全く異なる境遇で育ってきた選手たちの心が、なかなか分からなかった。

彼は真剣に題目を唱え、池田名誉会長の指導を学び、学会活動に徹した。そんなある日、ふと気づいた。皆、体が不自由でも、心からサッカーを楽しんでいる。自分と全く変わらない、ということを。障がいはハンディキャップではなく個性であり、特徴なのだ――そう感じると、選手の表情が違って見えてきた。

むしろ耳が聞こえない分、目で見て判断することについては、自分よりも優れていると感じた。

どうすればうまく指示を伝えられるかで悩んだが、選手と一緒にサッカーを楽しもう、と一念が変わった時に、初めて選手と気持ちが通じ合えた。より深く選手のことを知ろうと、個人面談、練習会場に来ている家族との対話を通して、選手の家族構成、性格や趣味まで深く知るよう努力した。信頼関係が生まれると、いつしか互いの「心の壁」がなくなり、チームは家族のようになっていった。

「アジア王者」という目標を選手たちと共有して臨んだ昨年の大会。選手たちは自信に満ちあふれ、決勝のピッチは光り輝いて見えた。

挿絵

私たちが感じている他者との差異は、往々にして、実際の違い以上に、自分がつくった「心の壁」によって線引きされたものが多い。その壁を取り壊し、相手の違いを認め、その懐に――異世界に――飛び込んでいく。自分の心を変革し、〝人間は皆が一念三千の当体である〟と悟って行動する。その時、私たちは相手の心をも変えることができる。

この地道な積み重ねによって、自分と相手を含む社会が変わり、自分と相手が住む環境をも変えていける、といえないだろうか。

「自己」「社会」「環境」の関係を正常なものにし、共生させゆく真の宗教のあり方は、まさに池田先生が「三世間」を通して訴えた「自己の生命の内奥からの変革」に象徴されるのである。

(創価新報2013年2月6日号)