仏法の視点から

教学論苑(11月)

不軽菩薩の実践の現代的意義教学論苑〈2〉

松村光城 学生部教学室事務局長

目の前の一人の尊厳性を信じ行動し続ける
〝善の連帯〟の拡大が時代変革の鍵

 ある学生部員から、こんな質問を受けた。
 「相手の幸福を思って折伏に挑戦しましたが、逆に心ない言葉を返されました。それでも、この友人には仏性があるのでしょうか?」
 仏法では、全ての人が平等に尊い存在であると説く。問題は、理論では分かっていても、それを心から信じることは難しいということだ。
 本稿では、この難事を貫いた存在として、法華経の常不軽菩薩品第20に登場する不軽菩薩を取り上げ、その実践の現代的意義について考察する。  

挿絵

◆人間性が欠落するネット上の攻撃

 不軽菩薩とは、釈尊の過去世における修行の姿だ。会う人全てに対して、「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経557㌻)と、「二十四文字の法華経」を説いて歩いた。
 不軽菩薩が礼拝すると、上慢の四衆(増上慢になっている男女の出家者と、男女の在家の人々)は、不軽を罵り、瓦や石を投げ、杖や木で襲いかかった。
 法華経に「増上慢の比丘に大勢力有り」(同556㌻)とあるように、「力」や「地位」を頼んだ彼らは、不軽菩薩を下に見て、バカにしていたと考えられる。
 不軽菩薩が礼拝行を実践した時代は、威音王仏の滅後の像法時代の末であった。
 御書に「彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ」(507㌻)とあるように、この時代は像法といっても、「像末」であり、大聖人御在世の「末法」と実質的に同じ様相であった。
 人々には、仏の教えを真摯に希求する姿勢などなく、何があっても礼拝行を貫く不軽菩薩を迫害したのだ。
 自他共の尊厳性を信じ切れない悪世の様相は、現代社会においても見られる所である。
 例えば、ネット上で氾濫する口汚い罵倒の言葉の数々だ。
 気にくわない他人の投稿や有名人の失言などに対して、考え得る限りの悪口を並べ立てる。
 また、別の掲示板などでも呼び掛け、特定のブログを人為的に「炎上」させるという悪質なケースもある。
 標的にされた人間をかばおうものなら、その人も攻撃の対象とされる。これは、いじめの構図とも酷似している。
 自分は安全地帯にいながら、標的とする相手を傷つけては満足する。このようなネット上でのやり取りに、他者への尊敬の念はみじんも感じられない。

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◆礼拝行の持続が境涯を大きく開く

 末法悪世の時代を根底から変えようとするのが、創価の運動であり、目の前の一人の尊厳性を徹して信じる折伏の実践にほかならない。
 しかし、折伏は「難事中の難事」である。冒頭の学生部員のように、相手を思って語っても、なかなか理解されず、相手への思いやりの心が揺らいでしまうこともある。しかし、そういう時こそ、自身が大きく境涯を開いていけるチャンスと捉えていきたい。
 不軽菩薩は人々からの迫害に屈することなく礼拝行を貫き、「六根清浄」(生命の浄化)という功徳を得た。迫害を加えた人々も、最後には、みな不軽菩薩に信伏随従した。
 不軽菩薩の実践の最大の特徴は、何があっても相手を敬う実践をやめなかったことである。
 仏法を語れば、さまざまな反応に直面するだろう。それでも折伏行を貫けるかは、自分自身が相手の仏性を信じて題目を唱え抜き、行動していけるかどうかにかかっている。このことを深く胸に刻みたい。
 日蓮大聖人は、「崇峻天皇御書」で次のように仰せだ。
 「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174㌻)
 「人の振舞」とは、不軽菩薩の礼拝行、すなわち人を敬う実践を指す。不軽菩薩が相手の仏性を信じ、それを呼び覚まそうとしたように、学会員は目の前の人を励まそうと、真剣に祈り、真心でじっくり語り合ってきた。この地道な実践が、〝善の連帯〟を確実に広げている。
 互いを尊敬し合う、この善の連帯の拡大こそ、五濁悪世の現代社会を変革していく鍵ではないだろうか。

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◆互いを尊敬し合う社会の実現を

 折伏を基調とした〝善の連帯〟の拡大は、今や日本中、世界中に広がっている。
 私もかつて遠くアフリカの地で、このことを実感することがあった。
 学生時代、大学の研修プログラムでケニアを訪問した時のことだ。その際、孤児を集めて教育する施設で、ある少年と出会った。スポーツが好きな彼と、共にサッカーをしながら、すぐに意気投合した。
 しかし、貧しくて身寄りがなく、自分の夢を実現させるすべを持たない彼のために、私は何の力にもなってあげられないのだと、自身の無力さを痛感した。
 その夜、現地のSGI(創価学会インタナショナル)の女性リーダーにこの思いをぶつけると、彼女は自らの体験を通しながら、こう語ってくれた。
 「たとえ現状が絶望的でも、目の前の一人を心から尊敬し、仏法の視点から徹して励まし抜くことが大事よ」
 その後、現地の座談会に参加させてもらった。
 その場には、民族や言語、文化土壌が違う多種多様な人々が集まっていた。一人一人が宿命を抱えながらも、そうした差異を乗り越えて互いを尊敬し、たたえ合う姿に、言葉にできない感動を覚えた。女性リーダーが語ってくれた、相手を敬い、励ますという不軽菩薩の実践が、アフリカでも根付いていることを深く実感した。
 帰国後、その少年に、施設の職員の方を通じて、彼と私のツーショット写真をメールで送った。女性リーダーの話を思い出し、少しでも彼への励ましになればと思ったからだ。
 かつて池田先生は、「不軽菩薩は、増上慢の勢力にも怯まず、非暴力を貫いた。それは、人間としての最高の行動である『人を敬う振る舞い』にほかなりません」「『人の振る舞い』こそ、仏法実践の肝要です。この振る舞いが相手の生命を変える」と指導された。
 ある若手論客は、私たち学生部のような若い世代の特徴を、〝現状にはある程度満足しているが、将来に何となく漠然とした不安を抱えている〟〝社会貢献はしたいが、何をしていいか分からない〟と論じている。
 多少の改善は見られるものの、依然として厳しい就職状況や、非正規雇用の拡大など、学生世代を取り巻く環境は厳しい。
 何かしたいと思ってはいるが、自分のことで精いっぱいであり、人のことにまで構っていられない、というのが実状なのではないだろうか。
 だからこそ、自他共の人間革命を実現できる創価の哲学を、同世代の若者たちに語り抜いていきたい。
 互いを尊敬し合う、不軽菩薩と同じ実践をする人の拡大なくして、時代変革はなしえないからだ。
 創価の三代会長、なかんずく池田先生の死身弘法の闘争によって、創価学会が現代によみがえらせた不軽菩薩の実践は、世界192カ国・地域にまで広がった。
 その全同志が待ちわびる、世界広布の本陣たる「総本部」の落慶がいよいよ近づいてきた。
 いかなる差異も超えた、他者を敬う振る舞いを貫き、自他共の幸福を目指す社会を築いていきたい。

(創価新報2013年11月6日号)