男子部「御書活」研鑽 2012年

7月度「経王殿御返事」

真剣な祈りから出発7月度「経王殿御返事」

7月度の男子部「御書活動者会(御書活)」では「経王殿御返事」を研鑽。「勇気の信心」こそ、広布と人生の勝利を開く原動力であることを学ぶ。

御文

但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし、日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし(御書1124ページ)

通解

ただし、(諸天の加護が深いといっても)あなた方の信心によるのである。剣なども、進まない人のためには何の役にも立たない。法華経(御本尊)の剣は、信心の強い人が用いてこそ、役に立つ。まさに鬼に金棒である。

この御本尊は日蓮の魂を墨に染めながして書き認めたものである。信じていきなさい。釈尊の本意は法華経である。日蓮の魂は南無妙法蓮華経以外のなにものでもない。

挿絵

背景と大意

「経王殿御返事」は、文永10年(1273年)8月、日蓮大聖人が流罪地の佐渡・一谷で認められ、鎌倉の門下に送られたお手紙である。経王御前が病気になった時、経王御前の親が平癒の祈念を大聖人にお願いしたことへの御返事である。

大聖人は冒頭で、経王御前の回復を昼夜にわたって祈念していると、真心の励ましの言葉を送られている。

そして、この門下に対して、御本尊は御自身が全生命を注いで御図顕されたものであると述べられている。さらに、この御本尊を強く信じ、祈り抜いていくならば、必ず諸天善神に護られ、福運に満ちた幸福境涯を確立することは間違いないと教えられ、今こそ強盛な信心に励むよう促されている。

宿命の鉄鎖を断ち切る

日蓮仏法は現実変革の宗教である。

決して何かにすがって〝願いを叶えてもらう〟ものではなく、自立した信仰者として、胸中に生命の無限の力を湧き出し、人生を有意義に楽しみ切っていくための信仰である。変革の主体は私たち一人一人なのである。

挿絵

日蓮大聖人は本抄で、御本尊の偉大な力用を引き出すのは、それを受持する人の「信心」にあることを教えられている。

大聖人はそれを「法華経(御本尊)の剣は、信心の強い人が用いてこそ役に立つ」と、「剣」の譬えを用いて示されている。

「法華経の剣」は、あらゆる障魔を打ち破る利剣である。

宿命の鉄鎖を断ち切り、最高の幸福境涯を勝ち開くための宝剣である。

しかし、どんなに剣が立派であったとしても、その剣を用いる人に力がなければ、剣は役に立たない。

御文にある「すすまざる人」とは「信心の上で臆病な人」や「不信の人」を指す。反対に「信心のけなげなる人」とは、「勇気ある信心の人」である。信仰とは、勇気が不可欠である。

「祈りとして叶わざるなし」の偉大な御本尊も、その力用を顕していくためには勇気ある信心の実践が必要なのだ。

挿絵

仏法で説く「四力」

かつて戸田第2代会長は語った。

「仏法の真髄は慈悲であるが、凡夫においては、勇気をもって仏法を実践していくことが慈悲に通じる。仏は『慈悲』で、凡夫は『勇気』で人を救っていくのだ」と。

周囲に、自分が学会員だと宣言するのにも「勇気」がいる。

友人に声をかけ、仏法対話をしていくのにも、「勇気」が必要だ。

臆病であっては、仏法を弘めることも、学会への理解の輪を広げることもできない。

御本尊に祈り、勇気を奮い起こして、拡大の対話に打って出る。学会活動に勇んで取り組んでいく。その自行化他にわたる「行動」によってこそ、御本尊の偉大な力用は顕現するのだ。

そのことを、仏法では、具体的に「四力」として説いている。四力とは「信力」「行力」「仏力」「法力」である。

「信力」は、御本尊を信ずる力。

「行力」は、南無妙法蓮華経の題目を唱え、それを弘めていく実践のこと。

「仏力」とは、仏が一切衆生の救済を願う慈悲の力である。

「法力」とは、妙法にそなわる無限の力を指す。

御本尊がもつ広大無辺の「仏力・法力」は、我らの「信力・行力」の強さによって、現実の上に顕れる。

法華経の剣は、強き「信力・行力」の人が用いてこそ「鬼に・かなぼう」となり、無敵となるのである。

挿絵

法華弘通のはたじるし

続けて大聖人は「この御本尊は日蓮の魂を墨に染めながして書き認めたものである。信じていきなさい」と仰せである。

竜の口の法難から佐渡流罪という、命に及ぶ大難の渦中にあって、大聖人は、全人類の成仏の道を開く「法華弘通のはたじるし」(御書1243ページ)として御本尊を認められた。

御本尊には、あらゆる苦難を乗り越えて、「全民衆を断じて幸福にするのだ!」との、仏の大慈悲が脈動している。

「日蓮の魂は南無妙法蓮華経以外のなにものでもない」と仰せである。御本尊は末法の御本仏である大聖人の御生命そのものであり、宇宙の根源の法である「南無妙法蓮華経」を示され、末法の民衆を救う法を確立されたのである。

ゆえに、この御本尊に向かって題目を唱えるならば、大聖人と同じ仏の大生命力を胸中に涌現できる。最高の智慧と福徳を、わが身に現していくことができるのである。

池田名誉会長は語っている。

「妙法は『生活』と『社会』と『宇宙』の根本のリズムです。観念ではない。道理である」「真剣な祈りから出発する。そして、これ以上ないという努力を重ね、死力を尽くす。これが『信心即生活』の生き方です。そこに、諸天も動くのです」と。

いよいよ青年の月・7月である。

池田門下の男子部は、一人一人が御本尊への強き祈りを根本に、自身の生活に、広宣流布の闘争に勝利していきたい。今こそ「師子王の心」を取り出し、誠実と納得の対話で創価の連帯を大きく広げ、新時代の民衆勝利の城を築きゆこう!

挿絵

第六天の魔王

「負けたらあかん!」の誓い胸に

広宣流布――それは仏と魔との闘争だ。

仏法の眼で見れば、人間生命の奥底では根源的な迷いである「元品の無明」と、根源的な悟りである「元品の法性」が、激しいせめぎ合いを演じている。

日蓮大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(御書997ページ)と仰せである。「第六天の魔王」は「他化自在天」ともいい、「他の生命を支配すること」に喜びを覚える生命である。その究極こそ「権力の魔性」であろう。

だからこそ、生命尊厳を掲げる仏法者にとって、権力の魔性との戦いは避けて通れないのだ。

事実、日蓮大聖人は「立正安国論」をもって国主諫暁されて以来、迫害に次ぐ迫害の御生涯であられた。牧口先生、戸田先生も戦時中、軍部政府の弾圧に遭い、投獄されている。

そして何より、私たち関西の同志にとって忘れ得ぬ歴史は、1957年(昭和32年)7月3日、池田先生が選挙違反という無実の罪で逮捕された「大阪事件」である。民衆勢力の台頭を恐れた権力による迫害であった。

7月17日、大阪拘置所を出所した先生は大阪大会に出席。権力の魔性に屈せず、「正しい信心が最後は必ず勝つ」と師子吼された。その叫びに関西の友は誓った。「戦いは絶対に勝たなあかん。負けたらあかん!」と。

そして4年半後、「無罪」判決によって正義が明確に示されたのである。

本年は、大阪事件から55年。そして関西広布60周年である。

今こそ師の心をわが心として堂々と正義を語り、関西に常勝の金字塔を打ち立ててみせる。

関西男子部副教学部長 小松慎一

(聖教新聞2012年6月26日付掲載)