女子部「御書池田大学運動」

12月度「日女御前御返事(御本尊相貌抄)㊦」

御本尊根本に幸福の道を12月度「日女御前御返事(御本尊相貌抄)㊦」

本抄について

 本抄は、建治3年(1277年)8月、日蓮大聖人が身延で著され、日女御前に送られたお手紙です。日女御前について、詳細は明らかではありませんが、深い教養があり、信心強盛な女性であったと考えられます。
 文永11年(1274年)に起きた蒙古襲来(文永の役)以降、社会は再びの襲来に対する恐怖で騒然としていました。
 そのような状況の中で、日女御前は純粋な信心を貫き、大聖人から御本尊を賜ったことへの感謝を込めて御供養をお届けしました。そのことへの御礼にあたるのが本抄です。
 御本尊の相貌の深い意義が明かされていることから、別名を「御本尊相貌抄」といいます。

拝読範囲の大意

(御書1244ページ5行目~1245ページ最後)
 御本尊に供養する女性の功徳がどれほど大きいかを教えられ、悪知識にたぶらかされることなく、信心を貫くよう促されます。
 そして、御本尊は、どこか別の所にあるのではなく、南無妙法蓮華経と唱える自身の胸中にあると述べられ、御本尊への唯一無二の信心が大切であることを強調されます。
 最後に、御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱えることこそ成仏の肝要であると教えられています。

挿絵

御文

 此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。(御書1244ページ9行目~12行目)

通解

 この御本尊を決して別の所に求めてはならない。ただ、私たち衆生が法華経を持って南無妙法蓮華経と唱えるその胸中の肉団にいらっしゃるのである。これを「九識心王真如の都」というのである。
 十界具足とは、十界のどの一界も欠けることなく一界に納まっているということである。このことによって、御本尊を曼陀羅というのである。曼陀羅というのはインドの言葉であり、訳すと輪円具足とも功徳聚ともいうのである。
 この御本尊も、ただ信心の二字に納まっている。「信によってこそ入ることができる(以信得入)」とはこのことである。

 

解説

自身が尊極の妙法の当体
その限りない力を信心で現す

 私たちは皆、無限の可能性を持っています。その力を発揮し、幸福への道を開きゆくための御本尊です。
 今回の拝読範囲で日蓮大聖人は、〝この御本尊は、他の場所に求めてはなりません。信心に励むあなた自身の胸中にあるのですよ〟と教えられています。
 自分の外にあると思って拝していた御本尊が、実は自身の生命の中にある――日女御前は、どれほど驚き、感動したことでしょう。
 御本仏である大聖人の生命が、そのまま顕されているのが御本尊です。御本尊は、私たちが自身の仏界の生命に目覚めて、瞬間瞬間、仏界の生命を呼び現すための明鏡なのです。
 ここで、仏界が現れる「胸中の肉団」について大聖人は、「九識心王真如の都」と仰せです。九識とは、生命の働きを九つに分けた中で最も根源的な第九識を指します。これは、何ものにも汚されることのない尊極な仏の生命そのものであり、生命の働きの中心であることから「心王」といわれます。この尊極な生命が私たちの胸中にあることを、大聖人は教えられているのです。
 大聖人が顕された御本尊は、中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」の左右に、地獄界から仏界までの十界の衆生が、一界ももれずに認められています。これは私たちがいかなる生命状態であったとしても、妙法の光に照らされて仏界を現すことができることを示しています。この「十界互具」の御本尊を「曼陀羅(曼荼羅)」といいます。
 「曼陀羅」という言葉は、サンスクリット(古代インドの文章語)に由来し、「輪円具足」(欠けることなく全てが具わっていること)、「功徳聚」(功徳の集まり)と訳されます。妙法の無量の功徳が全て具わっているのが御本尊なのです。
 この御本尊の功力を引き出すうえで大切になるのが「信心」です。大聖人は「この御本尊も信心の二字に納まっている」と仰せです。
 法華経譬喩品に「以信得入」とあります。これは、釈尊の高弟の一人で「智慧第一」と言われた舎利弗でさえも、仏の甚深の智慧を理解することはできず、ただ「信じる」ことによって、初めて成仏の道に入ることができたということを示しています。
 迷いや悩みの連続の中にいれば、自分自身が妙法の当体であると実感することは簡単ではないかもしれません。だからこそ、大事なのは「信じる心」です。御本尊を信じ、題目を唱える。師匠を信じ、仏法の実践に励む。その積み重ねの中で信心を深め、確信をつかむことができるのです。
 池田名誉会長は「勇気も、智慧も、慈悲も、希望も、確信も、忍耐も、幸福へと前進しゆく、すべての力の源泉は、わが胸中にある。まさしく、創価の乙女の生命それ自体が、尊極の『仏の当体』なのである」とつづっています。大いなる希望を胸に、師匠と同じ誓願の祈りで前進していきましょう。

挿絵

理解を深めよう

〝悪知識を捨てよ〟

 真の幸福は、信心を貫く中にあります。ゆえに、どんな時も正しい方向へ導いてくれる「善知識」が大切になります。同志やその集い、また師匠が善知識にあたります。
 日蓮大聖人は本抄で、「悪知識を捨てて、善友に親しみ近づきなさい」(御書1244ページ、通解)と仰せです。私たちの仏道修行を妨げ、退転へと追いやる存在を「悪知識」といいます。
 釈尊の時代には提婆達多、大聖人の時代には良観等、そして創価学会の誕生の後も反逆者や退転の坊主等が現れました。広宣流布は、悪知識に打ち勝つ中で進んできたのです。
 私たち一人一人の前進の前にも、信心から離れさせようとする、さまざまな試練や魔の働きが競い起こります。大聖人は「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(同1136ページ)と仰せになり、妙法を持ち抜く大切さを教えられています。何があろうとも不退転を貫くことが最重要なのです。
 また私たちの内面を見ても、その生命には誰にも「無明」があります。しかし自身の胸中の迷いや葛藤を乗り越えていくことが、結局、悪知識を遠ざけていくことにつながります。だからこそ私たちは、すすんで善知識に縁していくことが大切です。善知識と共に進むことで悪を悪と見抜き、悪を退けて幸福の軌道を歩み抜くことができるからです。
 池田名誉会長は呼び掛けました。「身近に一人でもよい、何でも語り合える善き友人、また何かあった時に相談できる善き先輩をつくっておくことだ」と。華陽姉妹のスクラムの中で、広布に生き抜く幸福の青春を歩んでいきましょう。

(聖教新聞2013年12月10日付掲載)