女子部「御書池田大学運動」

1月度「顕仏未来記㊤」

「仏の未来記」の実現が弟子の使命1月度「顕仏未来記㊤」

本抄について

本抄は、文永10年(1273年)閏5月、佐渡の一谷で著されました。門下一同に与えられた御書であると考えられています。

日蓮大聖人は佐渡流罪の中、「開目抄」「観心本尊抄」を著されますが、本抄は、それぞれで顕された人本尊・法本尊の深義を踏まえて記されています。題号は「仏の未来記を顕す」との意味です。「仏の未来記」とは、一往は釈尊の未来記を指しますが、本抄の元意は、末法の御本仏である日蓮大聖人の未来記を明かすことにあります。

悪世末法における広宣流布という釈尊の未来記が大聖人の闘争によって現実のものとなったことを、まず示されています。そのうえで、大聖人御自身の未来記として、法華経の肝要である南無妙法蓮華経の大法が世界に流布するとの確信を述べられています。

拝読範囲の大意

(御書505ページ冒頭~507ページ18行目)

末法における広宣流布を説いた法華経薬王品の文を引かれ、その時代に生まれ合わせた喜びを述べられます。

その理由として、法華経などに、末法の法華経の行者には釈尊が受けた迫害よりも激しい迫害があることが説かれていますが、大聖人はその通りに大難を受け、法華経が真実であることを証明しているからであると示されます。

挿絵

さらに、釈尊の仏法が無益となり、謗法が充満する時に、法華経の行者が出現し、南無妙法蓮華経を全世界に広宣流布させていくことを教えられます。その姿は、法華経に説かれる不軽菩薩が妙法を弘めて大難を呼び起こしたようなものであると述べられ、法華経の文を文証として、大聖人こそ末法の法華経の行者であることを示されます。

御文

法華経の第七に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云、予一たびは歎いて云く仏滅後既に二千二百二十余年を隔つ何なる罪業に依って仏の在世に生れず正法の四依・像法の中の天台・伝教等にも値わざるやと、亦一たびは喜んで云く何なる幸あって後五百歳に生れて此の真文を拝見することぞや(御書505ページ冒頭~4行目)

通解

法華経第7巻には「私(釈尊)が滅度した後、後の五百年のうちに、この法華経を全世界に広宣流布して、断絶させてはならない」(薬王菩薩本事品第23)と述べられている。

日蓮は一度は歎いて言う。今は釈迦仏の滅後、すでに二千二百二十余年が経っている。いったいどのような罪業があって、釈尊のおられる時代に生まれ合わせることができず、また、正法時代の四依の人(迦葉・阿難や竜樹・天親等)にも、像法時代の天台大師や伝教大師にも会えなかったのであろうかと。

また、一度は歓喜して言う。いったいどのような福運があって、後の五百年である末法に生まれ、この薬王品の真実の文を拝見することができたのであろうかと。

解説

全ての人を幸福に――これこそが、仏の願いです。ゆえに、釈尊は法華経で、〝末法において、この法華経を全世界に広宣流布して、断絶させてはならない〟と厳命したのです。大聖人は本抄の冒頭に、この経文を掲げ、自身が仏の未来記を実現したことを明かされていきます。

末法とは、釈尊滅後、仏法が形骸化して、人々を救う力が弱まっていく時代です。大聖人御在世の時は、末法の初めにあたります。

大聖人は、「歎いて云く」と、法華経を説いた釈尊にも、そして、仏法を正しく継承した正法・像法時代の人々にも巡り会うことができない不遇を述べられます。

この〝歎き〟は、当時の人々の心情を表されたものと拝されます。仏法の力の衰えとともに、人々の心には諦めや無力感が渦巻き、人心は乱れ、争いの絶えない濁世の様相を呈していたのです。

しかし、大聖人は「喜んで云く」と、末法に生まれ合わせた喜びを示されます。それは、末法こそが法華経に説かれる広宣流布の時、すなわち、法華経の肝要である南無妙法蓮華経が法華経の行者によって広まる時だからです。大聖人は、天台・伝教でさえ、末法の時代に生まれることを願われていたのだと明かされ、末法という時の意義を示されます。

挿絵

掲げた御文の後では、法華経の「猶多怨嫉況滅度後」(仏の在世でさえ怨嫉が多い。いわんや仏の滅後に、さらに怨嫉が多いのは当然である)等の文を挙げ、その通りの大難に遭っているのは大聖人お一人であり、大聖人こそ法華経の行者にほかならないことを明かされます。

さらに、人々が法華経に帰依すれば、法華経の行者は力を得て、南無妙法蓮華経を世界に広宣流布させていくと述べられます。

広宣流布の大願に立った時、恐れるものはありません。生きて帰れないと言われた佐渡流罪の中にあっても微動だにしない大聖人のお姿からは、末法広宣流布という、これ以上ない偉大な使命を果たす歓喜の御心情が拝されます。

このように、法華経の行者としての尊極の生き方を現実の上で示される師匠こそが、あらゆる人々を救いゆく「末法の師」となるのです。

この大闘争に連なり、全世界に幸福の連帯を広げてきたのは、創価学会の三代の会長以外にいません。それは、大聖人の未来記を何としても現実のものとしゆく弟子の実践です。師と共に進む私たちにも、仏法の偉大さを証明しゆく尊い使命があるのです。

池田名誉会長は、「私は、わが人生の総仕上げのこの時、『華陽の誓い』を抱いて躍り出てこられた女子部の皆さんに、不思議な縁を感じてならない。宝の中の宝である皆さんに、広宣流布の未来の一切を託していきたい」と呼び掛けています。

この信頼と期待を胸に、広宣流布の大願に生きる喜びをかみしめ、心広々と前進していきましょう。

挿絵

理解を深めよう

名字の凡夫

今回の拝読範囲で大聖人は御自身のことを「名字の凡夫」(御書507ページ)と示されています。

「名字」とは「名字即」という、菩薩の位のことで、初めて正法を聞いて、仏法の究極を言葉(名字)によって理解し、正法を信ずる修行の段階を指します。

末法の御本仏である大聖人が自らを「名字の凡夫」と仰せになったのは、仏とは特別な存在ではなく、悩みや試練を抱える凡夫こそが広宣流布の主体者であることを示すためであると拝されます。大聖人は、末法の衆生を救うため凡夫の姿のまま、難と戦い広布に進むことが宿命転換の道であることを示しながら妙法を弘められたのです。

私たちもさまざまな悩みや試練に直面することがあります。その時に、自分の境遇を嘆いたり、自分とは違う特別な姿を追い求めたりする必要はありません。大聖人が「名字即の位より即身成仏す」(同566ページ)と仰せの通り、妙法を信受する誰もが、最も尊く偉大な存在であり、妙法の当体である――このことを確信し、題目を唱え、広宣流布に生き抜く中で、仏界の生命を現し、宿命を使命に変えることができるのです。

池田名誉会長は「青春時代は、悩みの連続だ。しかし、まっすぐに信心を貫いていけば、法華経に『衆生所遊楽』とある通り、『生きていること自体が楽しい』『何をやっても楽しい』という人生になる。必ず、なる。(中略)無限の宝は、わが胸中にある。生命それ自体が、宝の集まりである。その宝を、自由自在に引き出すのが『信心』なのである」と述べています。

どこまでも自分らしく、万人成仏の幸福の哲学を一人でも多くの友に真心込めて語り広げ、世界広布の使命に生き抜いていきましょう。

(聖教新聞2013年1月15日付掲載)