女子部「御書池田大学運動」

8月度「法華証明抄㊤」

信心で福徳あふれる境涯に8月度「法華証明抄㊤」

本抄について

 本抄は、弘安5年(1282年)2月28日、日蓮大聖人が身延から駿河国(静岡県中央部)の南条時光に与えられた書です。
 熱原の法難の嵐が、ようやく静まった当時、この地の中心者として活躍した時光は、前年から病に伏していました。
 日蓮大聖人も健康を害しておられましたが、時光の病の報告に対し、2月25日、弟子に代筆させたお手紙を送られ、その3日後に、病をおして自ら筆を執られ、再び送られたのが本抄です。
 本抄の冒頭には、「法華経の行者 日蓮(花押)」と認められています(花押とはサインの一種)。本抄では、大聖人が「法華経の行者」として、後継の弟子に渾身の力を振り絞っての厳愛の指導をされ、病魔を打ち破る大確信を示されています。

拝読範囲の大意

 (御書1586㌻冒頭~13行目)
 濁世である末法において法華経を信じる人は、過去に十万億という無数の仏を供養した大福徳の人であると、法華経を踏まえて示されます。
 こうした人も、過去世における謗法によって今世に貧しく卑しい身と生まれてきたけれども、仏への供養の功徳が莫大だったので法華経を信ずることができたのであると、法華経に説かれている内容を述べられます。
 このことについて、法華経への謗法によって、たとえ地獄・餓鬼・畜生の三悪道等の大地に倒れることがあっても、法華経に縁した「逆縁」によって仏になることができるということを示しているのだと仰せになっています。

挿絵

御文

 此れをば天台の御釈に云く「人の地に倒れて還って地より起つが如し」等云云、地にたうれたる人は・かへりて地よりをく、法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・たうれ候へども・かへりて法華経の御手にかかりて仏になると・ことわられて候(御書1586㌻11行目~13行目)

通解

 このことについて天台の『法華文句』を解釈した妙楽の注釈には、「人が地に倒れて、また再び、その地より起つのと同様である」と言っています。地面に倒れた人は、かえって、その地面から起き上がるように、法華経への謗法を犯した人は、その罪によって地獄・餓鬼・畜生の三悪道や人界・天界の大地に倒れるけれども、逆縁でかえって法華経の御手によって仏になることができる、と明かされています。

解説

妙法は苦難と戦う原動力

 末法において法華経を信受し実践する人が、いかに大福徳の人であるか――日蓮大聖人は、病床の時光に、必ず病魔に勝てるとの希望と確信を、法華経に照らして教えられていると拝されます。
 本抄では、末代悪世で法華経を持つ人は、過去に十万億という無数の仏を供養した人であると強調されています。
 大聖人は法華経を踏まえて、このことは釈尊一人の説法ではなく、多宝如来も、十方の諸仏も証明していることなのだと述べられています。
 このように、あらゆる仏が、悪世末法において法華経を信受する人の計り知れない福徳を証明しているのです。
 もちろん、私たちの現実は、〝妙法を信じているから何の悩みもない〟〝仏法を実践しているから何の苦労もない〟ということではありません。
 本抄を頂いた当時、24歳だった時光の人生においても、幼いころに父を亡くし、さらには弟の早世、自身の大病と、苦難が相次いでいました。
 法華経を持つ人が絶大な福徳に包まれた存在であると、法華経に述べられているにもかかわらず、なぜ、次から次へと宿命が襲いかかってくるのでしょうか。
 掲げた御文の前段で、過去世に十万億の仏を供養したことがあっても、謗法の罪によって今世にさまざまな苦しみの報いを受けなければならないことが示されています。
 と同時に、仏に供養した絶大な功徳によって、今世に法華経を信ずることができたのだとも教えられています。
 「人の地に倒れて還って地より起つが如し」――地面に倒れた人が、その地面から起き上がるように、法華経を誹謗した人は、法華経によって救われるのです。このように逆縁であれ、法華経に縁することが成仏を可能とするのです。
 ゆえに大聖人は、「かえって法華経の御手によって仏になることができる」と示されています。
 妙法を持つ人には、どんな逆境をもはね返していく力があります。宿業に苦しんだとしても、信心を貫くことによって、苦難を必ず乗り越えていくことができるのです。
 今この時に、大聖人門下として、万人成仏の唯一の法である南無妙法蓮華経を唱え弘めゆく実践は、マイナスの宿業を単にゼロにするのではなく、宿業の意味をむしろプラスへと転換していきます。
 たとえ苦悩のどん底のように思えたとしても、幸福への確かな軌道を歩んでいるのだと確信し前進する中で、福徳あふれる境涯を開くことができるのです。

挿絵

理解を深めよう

毒鼓の縁

 拝読範囲で、法華経への謗法があっても、それが縁となり、成仏が可能となることを教えられています。
 私たちが対話する場面でも、友人が信心に反発することがあります。
 御書には「毒鼓の縁」の例えが引用されています。「毒鼓」とは、毒薬が塗られた太鼓のことです。「毒鼓」の音を耳にした人は、たとえ聞くつもりがなくても死に至ると説かれています。ここで、死ぬとは「煩悩が死ぬ」ことの例えです。
 この「毒鼓の縁」の例えは、相手が好むと好まざるとにかかわらず、正法を耳にすることで成仏に至ることを教えているのです。
 同じように、相手に信心への反発があっても、妙法の素晴らしさを説き聞かせることで、相手は将来、必ず信心に目覚め、成仏することができるのです。
 日蓮大聖人は「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(御書552㌻)と仰せです。たとえ反発があっても、人々に妙法を説き聞かせていくことが大切なのです。大聖人は、一切衆生の幸福の実現のために、妙法の種を人々の心田に植える「下種」の実践を貫かれました。
 池田名誉会長は語っています。「生命に下種を受けた人は、種子からやがて芽が出るように、いつか必ず正法を信ずる時がくる」と。
 自他共の幸福の実現という尊い使命を胸に、堂々と仏法の偉大さを語り広げていきましょう。

(聖教新聞2014年8月9日付掲載)