女子部「御書池田大学運動」

3月度「佐渡御書㊦」

師弟の大道歩む〝幸福人生〟を3月度「佐渡御書㊦」

  今月は、「佐渡御書」の後半を学びます。池田先生は本抄の講義の中で、次のように述べました。
 「師弟の魂を受け継ぐ限り、学会は永遠に勝ち栄えていく。このことを、わが門下、なかんずく直系の弟子である青年部の諸君に、私は強く語っておきたい。『師子王の心』の師に続け! 『師子王の心』で、弟子よ勝て! これこそが『佐渡御書』を身読する、創価の師弟の常勝の叫びなのです」
 弟子の勝利を願い、師子王の心で正義を叫ばれた日蓮大聖人の御精神を拝し、師弟不二の大道を歩んでいきましょう。(拝読範囲は、御書958ページ8行目~961ページ末尾)

本抄について

 本抄は、文永9年(1272年)3月、日蓮大聖人が51歳の時、流罪地の佐渡・塚原から、門下一同に宛てて認められたお手紙です。
 前年の竜の口の法難以降、迫害の手は大聖人だけでなく門下にも及び、弟子たちは投獄・所領没収などの処罰を受けました。こうした中、弾圧を恐れて退転する者が相次いだのです。大聖人は、難に動揺する弟子たちを案じられ、文永9年2月、御自身が末法の御本仏であることを示された「開目抄」を門下一同に与えられました。

挿絵

御文

 日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし(中略)日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし
 (御書960ページ17行目~961ページ3行目)

通解

 日蓮を信じているようであった者たちが、日蓮がこのような身になると疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教え諭して、自分は賢いと思っている。こうした愚か者たちが、念仏者よりも長く阿鼻地獄にいるであろうことは不憫としか言いようがない。(中略)
 「日蓮御房は師匠ではいらっしゃるがあまりにも強引だ。私たちは柔らかに法華経を弘めよう」などと言っているのは、螢火が太陽や月を笑い、蟻塚が華山を見下し、井戸や川が大河や海を侮り、鵲が鸞鳳を笑うようなものである。笑うようなものである。

解説

「師子王の心」で勇気の前進

 日蓮大聖人は、正法を弘めれば難に遭うことは法華経の経文通りであり、その中で信心を貫けば必ず宿命転換できることを教えられてきました。
 しかし、本抄御執筆の当時、〝正法を持っているのに、なぜ迫害に遭うのか。なぜ諸天善神の加護がないのか〟と、信心に疑いを起こし、退転する門下が相次ぎました。
 掲げた御文で大聖人は、〝一度は大聖人門下となりながら、大聖人に激しい迫害が加えられると心を翻し、大聖人を教え諭して「我賢し」と思い上がる者は、正法を誹謗する念仏者よりはるかに罪は重い〟と断言されています。
 こうした人々の本性は慢心であり、そこには師匠をないがしろにする心があります。
 彼らは、〝大聖人が難に遭うのは、弘教のあり方が、あまりに強引だからだ〟と非難し、〝自分たちは、もっと柔らかに法華経を弘めよう〟と自分勝手な主張をします。
 末法の民衆を救うために命懸けで広宣流布を進めようとする師匠の心が分からず、大聖人から心が離れていった人々。こうした人々のことを、大聖人は、「僻人」(愚か者)と喝破されます。そして、僻人が、いくら主張しようと、それは〝螢火が太陽や月を笑い、蟻塚が華山を見下し、井戸や川が大河や海を侮り、鵲が鸞鳳を笑うようなものである〟と断じられます。
 このように大聖人が弟子たちを厳しく戒められているのは、断じて弟子を退転させまいとする大慈悲からだと拝されます。
 広布を前進させる要諦は、〝師弟の魂〟です。師弟に生き抜けば、いかなる悩みや苦難も必ず乗り越えていくことができます。ゆえに大聖人は本抄で、〝私と共に師子王の心で進め〟と、門下に渾身の激励をされているのです。
 この大聖人の御精神を受け継ぎ、あらゆる大難を勝ち越えてきたのが創価三代の師弟です。
 池田先生は、「師匠と『同じ誓願』『同じ理想』『同じ行動』を貫くならば、必ず師匠と同じ境涯に達することができる」と述べています。

挿絵

池田先生の指針から

 「人生の師匠」に出会い、「師弟の道」に徹しゆくことほど、誇り高い人生はない。
 日蓮仏法は「師子王の宗教」です。大聖人は「佐渡御書」で弟子たちに、一生涯、「師弟の大道」に生き抜くべきことを教えられています。
 ――師匠は、師子の境涯で戦い抜いた。弟子もまた、「師子王の心」で戦えば、必ず、仏になれる。〝この大難の中でこそ、偉大な宿命転換ができる。成仏は間違いない。ゆえに、わが宿業転換の闘争を見よ! 範とせよ!〟――「佐渡御書」は、どこまでも、弟子の身を案じていく「師匠の心」が、全編に漲っています。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第1巻)
 ◇ ◆ ◇
 創価の師弟は師子王の陣列です。
 我らは軽薄な誹謗など痛烈に笑い飛ばしながら、そして、昇りゆく太陽の如く明るく朗らかに「師子王の心」で威風も堂々と進むのです。(2016年7月号「大白蓮華」、「世界を照らす太陽の仏法」)

研さんのために

 ○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第1巻、「佐渡御書」(聖教新聞社)
 ○…『御書の世界』第2巻、「佐渡流罪」㊤㊦(同)
 ○…2016年7月号「大白蓮華」、「世界を照らす太陽の仏法」〈御書根本㊦〉(同)

挿絵

御書カフェ -華陽姉妹の語らい-

「教えて」 ささいなことに心が揺れ動いてしまいます。 

「御文」 心の師とは・なるとも心を師とせざれ(兄弟抄、御書1088ページ)
〈通解〉心の師とはなっても、自分の心を師としてはならない。

 「心」には、生命に無上の尊極性を開く力があります。一方で、無明につき動かされ堕落するのも「心」です。したがって「心」の変革こそが一切の根幹となります。(中略)
 「心の師」――断固として揺れ動くことのない不動の根拠とは「法」しかありません。したがって、「法」を悟り弘める仏の説き残した「経典」が大事になります。私たちで言えば、「御本尊根本」「御書根本」の姿勢が「心の師」を求めることになります。
 そして、「法」と私たちを結びつけるのが、仏法実践の「師匠」の存在です。自分中心の慢心ではなく、師弟不二の求道の信心に生き抜くことが「心の師」を求める生き方にほかなりません。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第2巻))
 ◇ ◆ ◇
 揺るぎなき「心の師」をもつことが大切です。私の心には、常に戸田先生がおられます。今でも、毎日、対話しています。先生なら、どうされるか、どうすれば、先生に喜んでいただけるか――。
 心に、この原点があるから何も迷わない。何も怖くありません。(『未来対話』) (聖教新聞2017年3月14日付掲載)