青年部年間拝読御書

「種種御振舞御書」研鑽のために(4)

わが生命の力は無限!「種種御振舞御書」研鑽のために(4)

青年部年間拝読御書「種種御振舞御書」を学ぶ連載の第4回は、第6章と第7章を解説する。頸の座にあっても悠然たる御振る舞いを貫かれた日蓮大聖人の御精神を拝し、「難こそ誉れ」との強盛な信心で広布の闘争へ挑みゆく決意を固め合いたい。

第6章 竜の口の法難と発迹顕本
 (御書913ページ11行目~914ページ15行目)

通解

由比の浜に出て御霊社の前にさしかかった時、また「しばらく待て、殿たち。ここに知らせるべき人がいる」と言って、中務三郎左衛門尉(四条金吾)という者の所へ熊王という童子を遣わしたところ、(左衛門尉が)急いで出てきた。
「今夜、頸を切られに行くのである。この数年の間、願ってきたことはこれである。この娑婆世界において、雉となった時は鷹につかまれ、鼠となった時は猫に食われた。あるいは妻子の敵のために身を失ったことは大地の微塵よりも多い。だが法華経のためには、ただの一度も失うことはなかった。
それ故、日蓮は徳の少ない身と生まれて、父母への孝行も満足にできず、国の恩を報ずべき力もない。今度こそ、頸を法華経に奉って、その功徳を父母に回向しよう。その余りは弟子檀那たちに分けようと申してきたことは、今この時のことである」と言ったところ、左衛門尉ら兄弟4人は、馬の口に取りついて供をし、腰越・竜の口へ行った。
 (頸を切る処刑の場は)ここであろうと思っていたところ、予想していたとおり、兵士どもが動きまわり、(準備で)騒いだので、左衛門尉は「今が最期です」と泣いた。日蓮は「なんという不覚の人か。これほどの喜びを笑いなさい。どうして約束を違えられるのか」と言った。その時、江の島の方向から月のように光った物が、鞠のような形をして、東南のほうから西北のほうへ、光りわたった。
12日の夜が明ける前(13日の未明)の暗がりの中で人の顔も見えなかったのが、この物の光で月夜のようになり、人々の顔も皆見える。太刀取りは目がくらんで倒れ臥してしまい、兵士どもは、ひるみ恐れ、気力を失って一町ばかり走り逃げ、ある者は馬から下りてかしこまり、また馬の上でうずくまっている者もある。
日蓮は「殿たちよ、どうして、これほどの大罪人から遠のくのか。近くへ寄ってきなさい、寄ってきなさい」と声高々と呼び掛けたが、すぐ近寄ってくる人もない。
「さて、夜が明けてしまったならばどうするのか。頸を切るなら急いで切りなさい。夜が明けてしまえば見苦しいであろう」と勧めたけれども、何の返事もない。
しばらくしてから「相模の依智という所へお入りください」と言う。
「自分のほうには道を知る者がいない。案内しなさい」と言ったけれども、案内する者もいないので、しばらく休んでいると、ある兵士が「そこがその道でございます」と言ったので、道にまかせて進んだ。
正午ごろに依智という所へ行き着いたので、本間六郎左衛門の邸へ入った。酒を取り寄せて、ついて来た武士たちに飲ませていたところ、彼らは帰るということで、頭を下げて合掌して言った。
「この度のことを拝見すれば、あなたは、どのようなお方なのでしょう。我らが頼みにしてきた阿弥陀仏を謗られていると聞きましたので憎み申し上げていましたが、直接に拝顔して昨夜来の御振る舞いを拝見しましたところ、あまりにも尊いので、長年唱えてきた念仏は捨てました」と、火打ち袋から数珠を取り出して捨てる者があり、「今後は念仏を申しません」と誓状を差し出す者もあった。
六郎左衛門の家来たちが警護の役目を受け取った。左衛門尉も帰った。

挿絵

解説

竜の口の処刑に臨まれた日蓮大聖人の御振る舞いと、その前後の模様を詳しく述べられている。
急を聞いて駆けつけてきた四条金吾に、大聖人は諄々と大難の意義を語られる。〝わが身を法華経に捧げることこそ、この数年の間、願ってきたことである〟と。
金吾も、殉教の覚悟を決めて大聖人のお供をしたと思われる。師弟一体で、不惜身命の境地を開きながら刑場に向かわれたに違いない。
刑場の竜の口で、役人が大聖人の頸を切ろうとしたその瞬間、「ひかりたる物」が現れて、刑は執行できなくなる。この「ひかりたる物」の正体が何かは今日では分からないが、明確なことは、頸が切られそうになるその時に、現れたという事実である。仏法の眼から見れば、まさしく諸天善神の働きにほかならない。
大聖人御自身、諸天善神のうち、三光天子(日天子・月天子・明星天子)の月天子が「光物」として現れたと述懐されている(御書1114ページ)。
翌年2月に認められた「開目抄」に、「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて……」(同223ページ)と仰せられている。実際には頸をはねられたわけではないのに、「頸はねられぬ」と仰せなのは、それ以前の自分は、ここで終わったのだという意である。「魂魄」とは、末法の御本仏としての御生命を意味する。
日寛上人は「この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり」と、これこそ日蓮大聖人が「発迹顕本」されたことを示す御文であると述べられている。
「発」とは「開く」という意味である。つまり、発迹顕本とは、凡夫という「迹」の姿を開かれて、凡夫の身のままで久遠元初の自受用報身如来の本地(本来の境地)を顕されたことをいう。
これは決して、人間が「超人的な仏」という別のものに変わることではない。一人の人間に具わる「仏性」、すなわち無限の可能性を開くのである。
大聖人が凡夫の身のまま仏界の生命を顕されたことは、人間に具わる宇宙大の生命を「証明」され、万人が発迹顕本できる「手本」を示されたことにほかならない。 池田名誉会長は語っている。
「唱題し、広宣流布に連なる活動に励む時、わが身に自受用身――本来の自分が顕れて、智慧が働き、勇気がわき、行き詰まることなく自由自在に自らの境涯を楽しめるのです。それが私たちの『発迹顕本』です」
本抄ではこの後、依智の本間邸に入られた時の様子が描かれる。
前夜から大聖人の御振る舞いの一部始終を見ていた兵士たちが、大聖人の偉大な人格に触れて、鎌倉に帰るにあたり、せきを切ったように改宗を誓う。日蓮大聖人の偉大さに感化されてのことである。
あらためて、「振る舞い」の中に仏法があることを深く銘記したい。

挿絵

第7章 月天の不思議と弟子檀那への迫害
 (同914ページ16行目~916ページ3行目)

通解

その日の午後8時ごろに鎌倉から幕府の使いが、命令書を持って来た。
「頸を切れ」という重ねての使いかと武士たちは思っていたところ、本間六郎左衛門の代官・右馬尉という者が命令書を持って走ってきて、ひざまずいて言った。
 「(斬首は)今夜であろう、なんとも情けないと思っておりましたのに、このようなお喜びの手紙がまいりました。使いの者は『武蔵守殿は今日、午前6時に熱海の湯へお立ちになりましたから、理不尽なことがあっては大変だと思い、急いでまずこちらへ走ってまいりました』と申しております」と。
鎌倉から使者は4時間で走ってきたのである。そして「今夜のうちに熱海の湯へ走り、(命令書を武蔵守殿に)お届けします」と言って出発した。
追状には「この人は罪のない人である。今しばらくしてから許されるであろう。過ち(斬首)を犯したならば後悔するであろう」と認めてあった。
その夜は13日で、兵士たちが数十人、坊のあたりと大庭に並んで控えていた。9月13日の夜であるから、月が大きく、澄んでいたので、夜中に大庭へ出て月に向かい、自我偈を少しよみ奉り諸宗の勝劣と法華経の文を概略申し述べて「そもそも今の月天は法華経の御座に列席している名月天子ではないか。宝塔品で仏勅を受けられ、嘱累品で仏に頂をなでられて『世尊の勅の通り、まさにそのまま実行します』と誓状を立てた諸天善神ではないか。仏前の誓いは、日蓮がいなかったら果たせないではないか。今このような大難が出てきたのであるから、急いで、喜んで法華経の行者に代わって戦い、仏勅をも果たして誓言の証明を成し遂げなさい。いったい、いまだに何の証明もないのは不思議なことである。なにごとも国に起こらなければ鎌倉へも帰ろうとも思わない。たとえ誓いの証明を現さないにしても、うれしそうな顔で澄みわたっているのはどうしたわけであるか。大集経には『日月は明るさを現さない』と説かれ、仁王経には『日月が度を失う』と書かれ、最勝王経(金光明経)には『三十三天がおのおの瞋りを生ずる』と明らかに見えているではないか。いかに月天、いかに月天」と責めたところ、それが効いたのであろうか、天から明星のような大星が下ってきて、前の梅の木の枝にかかったので、武士たちは皆、縁側から飛び降り、あるいは大庭に平伏し、あるいは家の後ろへ逃げてしまった。
まもなく一天かき曇って大風が吹いてきて、江の島が鳴るということで空が響くありさまは、大きな鼓を打つようであった。
夜が明けると14日で、朝6時ごろに十郎入道という者が来て言った。  「昨日の夜の8時ごろに執権・相模守殿(北条時宗)の邸に大きな騒動があり、陰陽師を呼んで占わせたところ、彼が言うには『大いに国が乱れましょう。それはこの御房(大聖人のこと)に対する御勘気のためである。大至急、召し返さなければ世の中がどうなるか分かりません』と言ったので、『すぐにお許しになりますように』という人もあり、また『(日蓮房が)百日のうちに戦が起こるであろうと申していたから、それを待ちましょう』という者もあったとのことです」と。
依智に滞在すること二十数日。その間に、鎌倉では、放火が7、8度あったり、人を殺したりすることが絶えなかった。
讒言する者どもが「日蓮の弟子どもが火をつけたのである」と言うので、「そういうこともあるだろう」ということで、「日蓮の弟子たちを鎌倉に置いてはならない」と、260人あまりの名前が記された。  「その者たちは、皆、遠島へ流すべきである。すでに入牢中の弟子たちは頸をはねるべきである」と聞こえてきた。
ところがその後、放火などは持斎や念仏者たちの謀であったと分かった。そのほかのことは繁多になるから、ここには書かない。

挿絵

解説

竜の口の頸の座の翌9月13日と14日の様子が述べられている。  まず、幕府から、日蓮大聖人が無実であることを認め、刑の執行などの過ちを犯してはならないと命じた書面が届く。
このことからも、竜の口の処刑は、平左衛門尉が独断で強行したという背景がうかがえる。
次いで、大聖人が満月に近い十三夜の月に向かって、諸天善神への呼び掛けをされる。そして、諸天もまた「其のしるし」を現ずるのである。これは、正しい仏法を行する人の一念が大自然を揺り動かす原理を示している。
一方、幕府は大聖人に対する態度を決めかねており、中には放免を主張する者も現れた。
それに焦りを感じた極楽寺良観一派や念仏者たちは、再び卑劣な策動を始める。放火、殺人といった事件を鎌倉中で起こし、それを大聖人門下の仕業であると讒言。厳しい弾圧は、大聖人の門下にも及んでいくのである。
すでに9月12日の捕縛の時に、一部の門下は土牢に入れられていたが、今度は、鎌倉在住の主な信徒、260人あまりの名簿が作られた。逮捕、追放、財産没収など、迫害の過酷さは「かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」(御書907ページ)と仰せのように、ほとんどの門下が退転するほどであった。
こうした御自身と門下の迫害の中にあって、大聖人は決然と広宣流布の道を開いていかれるのである。
まさに、この大聖人の御精神のままに、一切の法難をその身に受けて打ち破り、「難即悟達」の生き方を示し、世界広宣流布を現実のものとしたのが創価の三代会長である。
私たちは、どんな困難があろうとも、日々の生活の中で不安や臆病に覆われる時があろうとも、絶対に負けない「仏の生命」が具わっている。そして、時々刻々と発迹顕本し、この最高の生命を引き出していけるのだ。
「難こそ誉れ」との強盛な信心に立ち、「わが生命に断じて限界はない」との絶対幸福の妙法を弘めゆくことこそ、学会青年部の心意気である。

(創価新報2013年4月17日号)