青年部年間拝読御書

「種種御振舞御書」研鑽のために(6)

「時代の柱」「社会の柱」たれ「種種御振舞御書」研鑽のために(6)

青年部年間拝読御書「種種御振舞御書」を学ぶ連載の第6回は、第10章と第11章を解説する。大難の渦中に「開目抄」を執筆された日蓮大聖人の御真意に迫り、「民衆救済」と「広宣流布の大願」に生き抜く誓願を自身の胸中に打ち立てたい。

第10章 御本仏としての開目抄の御述作(御書919ページ2行目~920ページ4行目)

通解

 さて(問答も終わり)皆、帰ったので、前年11月から考えてきた「開目抄」という書、2巻をつくった。これは、もし頸を切られるならば、日蓮の身の不思議を留めておこうと思って構想したものである。
 この書の要点は次のようなことである。「日蓮によって、日本国の存亡は決まる。譬えば、家に柱がなければ家は保たれず、人に魂がなければ死人であるのと同じ道理である。日蓮は日本の人の魂である。平左衛門尉は(日蓮の諫言を用いず、流罪にまで処して)すでに、日本の柱を倒したのである。そのため、まさに今、世の中が乱れ、それという事実もないのに、夢のようにうその話が出てきて、北条家御一門において同士討ちが起こり、後には他国から攻められるであろう。例えば立正安国論に詳しく述べた通りである」と。
 このように書き付けて中務三郎左衛門尉(四条金吾)の使いに持たせた。そばに付いていた弟子たちも、強すぎる主張であると思っていても止めることができないようであった。
 そうこうするうちに、2月18日に佐渡の島に船が着いた。鎌倉で戦乱があり、京でもあって、その様子は言いようもなく大変なものであるという。
 本間六郎左衛門尉は、その夜、早舟で一門を率いて渡っていった。その時、日蓮に掌を合わせて、「お助けください。去る正月16日のお言葉を、どのようなことかと疑ってまいりましたが、いく日もたたず、30日の内に符合いたしました。蒙古国も必ず攻め寄せましょう。念仏無間地獄も間違いないことなのでございましょう。今後は決して念仏を申しません」と言ったので、「あなたがどのように言おうとも、相模守殿(北条時宗)らが用いられなければ日本国の人は用いまい。用いなければ国は必ず滅びるのである。日蓮は未熟者ではあるが、法華経を弘めている以上は、釈迦仏の御使いである。さほどでもない天照太神・正八幡大菩薩などという神は、この国でこそ重んじられているけれども、梵天・帝釈・日天・月天・四大天王に対するならば小神にすぎない。それでもこれに仕える神人などを殺したなら、(普通の人を)7人半、殺したことに当たるなどといわれる。太政入道(平清盛)や隠岐法皇らが滅んだのは、このためである。
 これ(日蓮への弾圧)はそれには似るべくもない大罪である。(日蓮は)教主釈尊の御使いであるから、天照太神・正八幡大菩薩も頭を下げ、手を合わせて地に伏すべきところである。法華経の行者に対しては、梵天・帝釈は左右に仕え、日天・月天は前後を照らされるのである。
 このような日蓮を用いたとしても、悪しく敬うなら、日本国は滅びるであろう。それどころか数百人に憎ませて2度まで流罪に処したのだから、この国が滅びることは疑いなかったが、しばらくは、押しとどめて、この国を助け給えと祈念して日蓮が控えていたからこそ、今までは安穏だったのである。しかし、あまりに度が過ぎたので罰を免れることができなくなったのである。またこのたびも用いなければ、大蒙古国から打手を向けて日本国は滅ぼされるであろう。
 これは平左衛門尉が好んで招く災いである。あなた方であれ、この島であれ、安穏ですむはずがない」と申したところ、愕然とした様子で帰って行った。
 さて、(これを聞いた)在家の人たちが言うには「この御房は神通力をそなえたお方なのであろうか、ああおそろしい、おそろしい。今後は念仏者も養うまい。持斎にも供養しまい」と。念仏者や良観の弟子の持斎らは、「(内乱をあらかじめ知っていたところを見ると)この御房は謀叛の仲間に加わっていたのであったか」と言った。そうして、しばらくして世間の騒ぎは静まった。

挿絵

解説

 日蓮大聖人は佐渡に流罪された翌年の文永9年(1272年)に「人本尊開顕の書」である「開目抄」、文永10年(1273年)に「法本尊開顕の書」である「観心本尊抄」を著されている。
 ここでは「開目抄」御述作について、その経緯と意義を述べられている。
 大聖人は、自然環境の過酷さに加え、「今日切るあす切る」(御書323ページ)と仰せのように、依然として命の危機にさらされていた。「開目抄」は、こうした中で構想を練られ、筆紙も資料も乏しい状況で執筆されたのである。
 「開目抄」で記された「日蓮が不思議」(同919ページ)について、御執筆の元意を示すことで明かされている。
 すなわち、大聖人こそ、経文の通りに末法の全世界の人々を教え導く大法を不惜身命で弘通する「法華経の行者」であり、一切衆生が尊敬すべき主師親の三徳具備の末法の御本仏であられるゆえに、一国の存亡は大聖人にかかっている。この「日本の人の魂」であり、「日本の柱」を平左衛門尉は倒してしまったがゆえに、「立正安国論」で警告したように自界叛逆難が起こり、さらに他国侵逼難が現実になるであろうと述べられている。
 2月18日に船が着き、二月騒動(北条時輔の乱)が起こり、京と鎌倉で戦闘があったと伝えられた。自界叛逆難の的中である。大聖人はすでに、正月16日、塚原問答が終わって帰ろうとする本間六郎左衛門尉を呼び止め、このことを予言されていた。
 本間六郎左衛門尉は急遽、鎌倉に向かう際、大聖人のもとに来て、念仏を捨てて改心を誓う。これに対して、大聖人は「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」と厳しく仰せられている。
 「かかる」とは、「教主釈尊の御使」であり、「法華経の行者」であり、末法の御本仏であられることである。その尊貴な大聖人を、仮に用いたとしても悪しく敬えば日本国が滅びる、まして敬うどころか反対に大迫害を加えてきた日本国が滅びるのは疑いないと仰せなのである。
 事実、文永11年(1274年)春の大聖人の赦免後、幕府は大聖人を尊重する気配を見せたが、大聖人の教えを全面的に受け入れて、その通りに実践するという姿勢ではなかった。
 ほどなく同年の10月に蒙古が襲来(文永の役)するのである。さらに弘安4年(1281年)に再び蒙古が襲来(弘安の役)し、鎌倉幕府は大打撃を受けて、やがて滅亡する遠因となったともいわれる。
 池田名誉会長は「勝利の経典『御書』に学ぶ」の中で、「青年は21世紀の柱である」「世界の青年よ、一人立て!」と呼び掛け、次のように語っている。
 「全人類が『大家族』へと結ばれゆく新時代――それは特定の一部の人ではない、『万人が「柱」と立ち上がる』時代です。広宣流布は、妙法を抱いた人間の『振る舞い』を通して、一人一人が、人類の宿命転換の『柱』と立ち上がりゆく未聞の運動なのです」と。
 大聖人直結で、異体同心の団結をもって広宣流布に邁進する私たち青年部は、大聖人の「民衆救済」の誓願を深く心に刻みながら、新たな「時代の柱」「社会の柱」と成長しゆく誓いを打ち立てていきたい。

挿絵

 

第11章 北条宣時の迫害と御赦免(同920ページ5行目~921ページ1行目)

通解

また念仏者が集まって協議した。「このままでは、我らは餓え死にするだろう。どうにかしてこの法師を亡き者にしようではないか。すでに(佐渡の)国の者も大体(日蓮のほうに)付いてしまった。どうするべきであろうか」と。
 念仏者の指導者である唯阿弥陀仏、持斎の指導者である性諭房、良観の弟子の道観らが鎌倉に走り上って武蔵守殿(北条宣時)に申し上げた。「この御房(日蓮)が島にいるならば諸宗の堂塔は一宇も残らないし、僧も一人も残らないであろう。阿弥陀仏を、あるいは火に入れ、あるいは川に流している。夜も昼も高い山に登って、日月に向かって大音声を放って、お上を呪咀(神仏に呪いの祈願をすること)している。その音声は、佐渡一国に聞こえています」と言った。
 武蔵前司殿(武蔵の国の前の国司であった北条宣時)は、これを聞き、「上へ申し上げるまでもあるまい」と言って、まず「佐渡国の者で日蓮につく者があれば、国から追放せよ、あるいは牢に入れよ」との私の下知(公式ではなく独断で作った命令書)を下した。また命令書が下された。このようなことが3度行われたが、その間、いかなる事態になったか、申し上げなくとも推し量っていただけるであろう。
 役人たちは人々に対し、日蓮が居住している所の前を通ったからといって牢に入れたり、何か物を届けたといって追放したり、妻子を召し捕ったりした。このような様子を上にも伝えたところ、(宣時らの)意図に反して、去る文永11年2月14日付の御赦免状が同3月8日に佐渡に着いた。
 念仏者らが協議して言った。「これほどの阿弥陀仏の御敵であり、善導和尚や法然上人を罵るほどの者が、たまたま御勘気を蒙ってこの島に流されてきたのを、御赦免になったといって生かして帰すのは残念なことだ」と。
 さまざまな企てがあったが、どういうわけであろうか、思いがけなく順風が吹いてきて、島を出発したが、間合いが悪ければ100日、50日を経ても渡れず、順風でも3日かかる所を、わずかの間に渡ってしまった。
 (これを聞いて)越後の国府や信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言師らは雲集して協議した。「島の法師らは今まで生かしておいて、しかも還すとは、人でなしである。我らは、どうしても生身の阿弥陀仏(善光寺の本尊の阿弥陀如来)の御前を通すまい」と謀議したけれども、越後の国府から兵者たちが大勢、日蓮に付き添って善光寺を通ったので、彼らの妨害の力も及ばなかった。
 3月13日に島を発って、3月26日に鎌倉へ打ち入ったのである。

挿絵

解説

 佐渡の人々が念仏者や持斎たちから離れていくと、彼らは「このままでは自分たちは飢え死にしてしまう」と戦々恐々として謀議する。結局、念仏者たちは、法の高低浅深よりも、自分たちの生活を脅かすから日蓮大聖人が憎いという浅ましい〝本心〟を露呈させるのである。
 そこで用いたのも、例によって讒言である。彼らは鎌倉へ行き、幕府の有力者であった北条宣時に大聖人が幕府を呪詛していると直訴する。権力の力で大聖人を弾圧しようとしたのである。
 その結果、北条宣時は偽の命令書を3度にわたって出し、これによって大聖人の身辺をお世話する人たちに、追放や入牢などさまざまな弾圧が加えられた。しかし、宣時の思惑に反して、宣時の報告を受けた幕府中枢は大聖人を赦免する旨の決定を出した。
 大聖人は、2年4カ月の流罪生活に終わりを告げ、佐渡から生きて出られたのである。しかも、越後(新潟県)から鎌倉まで大勢の兵士たちが護衛につき、途中で大聖人の命を狙った念仏者たちは手を出すことができなかった。
 こうして大聖人は、「鎌倉へ打ち入りぬ」(御書921ページ)と、堂々たる凱旋を果たされるのである。

(創価新報2013年6月5日号)