青年部年間拝読御書

「種種御振舞御書」研鑽のために(7)=完

仏とは戦い続ける人「種種御振舞御書」研鑽のために(7)=完

青年部年間拝読御書「種種御振舞御書」を学ぶ連載の最終回は、第12章の解説と第13章以降の概要を紹介する。日蓮大聖人の御振る舞いのままに、「善の連帯」を広げる中に人類の宿命転換があり、社会の安穏と繁栄もある。今こそ、私たち青年部が広布後継の使命を自覚し、不惜身命の闘争に挑み、一人一人が勝利の実証を示し切っていきたい。

第12章 三度目の国諫(御書921ページ2行目~15行目)

通解

 (鎌倉へ帰ってから)同年(文永11年〈1274年〉)4月8日、(幕府に招かれて)平左衛門尉に対面した。前とは打って変わって、いかめしい態度を和らげ、礼儀を正して接してきた。ある入道は念仏について、ある在俗の者は真言について、ある人は禅について質問した。平左衛門尉は爾前(法華経以外の教え)で得道することが有るか無いかを質問した。これらの一つ一つに、経文を引いて答えた。
 また平左衛門尉は、主君(執権・北条時宗)の御使者のようで、「大蒙古国は、いつごろ攻めて来るでしょうか」と言った。
 私(日蓮)が答えた。「今年は必ず攻めてくるに違いない。これについて、私(日蓮)が以前から思索をめぐらせて申し上げたことを、用いられなかった。病の原因を知らない人が病を治療すれば、かえって病状が悪化するように、真言師などに蒙古調伏の祈禱をさせるなら、かえって、この国は戦に負けるであろう。決して真言師や、総じて今の法師たちに祈禱させてはいけない。
 皆さんそれぞれが仏法をご存じであるから戒めているということも、お分かりでしょう。そのうえで、どういう不思議であろうか、他のこととは異なり、私(日蓮)が申すことに限って用いられないので、後で思い合わせていただくために申し上げておく。
 (承久の乱で)隠岐法皇は天子である。権大夫殿(鎌倉幕府第2代執権・北条義時)は民ではないか。子が親に仇をなすのを天照太神は承認されるであろうか。家来が主君を敵にするのを正八幡大菩薩は用いられるであろうか。それなのに、どういうわけで朝廷は負けたのであろうか。
 これは全く、ただごとではない。弘法大師(空海)の邪義、慈覚大師(円仁)・智証大師(円珍)の誤った見解を真実だと思う比叡山延暦寺(慈覚の門流)・東寺(弘法の門流)・園城寺(智証の門流)の人々が鎌倉幕府に敵対したので、還著於本人といって、真言の祈りを用いた過失によって朝廷に危害が還ってきてふりかかり、朝廷は負けたのである。幕府は真言の祈りなどは知らないので、調伏も行わなかったから勝った。今またそのようになるであろう。
 蝦夷(中央政権に従わない北方の住民)は命知らずの者で、(津軽地方の統治を任されていた)安藤五郎は、因果の道理をわきまえて堂塔をたくさん造った善人である。それなのに、どうして頸を蝦夷に取られたのであろうか。これらのことから考えてみると、この御房たちが(真言の法で)祈禱をすれば、入道殿は必ず大事に遭われるであろう。その時になってから、『日蓮はそう言わなかった』と言われるな」と、強くはっきりと言い渡した。

挿絵

解説

 日蓮大聖人は、佐渡から鎌倉に帰られた後、文永11年(1274年)4月8日に平左衛門尉らと対面される。
 これが、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」をもって北条時頼になされた1度目の諫暁、文永8年(1271年)9月10日と12日、竜の口の法難の前に平左衛門尉らに対する2度目の諫暁に続く、3度目の国主諫暁となった。
 平左衛門尉から蒙古襲来の時期を尋ねられた大聖人は「今年は一定なり」(御書921ページ)と明言される。事実、この年の10月に第1回の蒙古襲来が起こる。
 大聖人は「病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし」(同ページ)と、災難の根源を究明し、その根源から治術しなければ、かえって事態は深刻化すると諫言される。そして、「還著於本人」の原理を示され、為政者の謗法を戒められる。
 佐渡流罪を赦免された直後にもかかわらず、大聖人は最後まで、「他国侵逼難」が起こらないよう、何より民衆が苦しまないように、一歩も退かずに言論闘争を展開されたのである。
 池田名誉会長は「勝利の経典『御書』に学ぶ」で、次のように述べている。
 「『法』根本の不惜身命の闘争があれば、大難を乗り越え、堂々たる発迹顕本の姿を満天下に示すことができる。いかなる権力の迫害も、宿命も侵すことのできない、一人の人間の尊厳性を確立できる。その生き方が一人からまた一人へと広がることが広宣流布です。この立正安国の闘争の中に、人類の宿命転換があります。この大闘争を、自らのお振る舞いを通して教えてくださったのが、『種種御振舞御書』です」
 「大聖人の御闘争を、現代にあって、不惜身命の振る舞いで、一身を捧げて、あらゆる言葉を尽くして、私たちに教えてくださったのが、牧口先生であり、戸田先生です。この両先生の崇高なる精神のままに、私は戦ってきました。だからこそ、仏法は世界192カ国・地域へと広がったのです」
 民衆救済の大願に生き抜かれた御本仏・日蓮大聖人の御振る舞いを心に刻み、創価の同志と「広宣流布の道」「師弟の道」を真っすぐに進んでまいりたい。

挿絵

 

第13章~第17章の概要
第13章 阿弥陀堂法印の祈雨、大悪風をまねく(同921ページ16行目~922ページ18行目)

幕府は、日蓮大聖人との対面があった2日後、こともあろうに真言宗の僧に雨乞いの祈禱を命じた。その祈禱は最初は成功して雨が静かに降りはじめた。そして、北条時宗が恩賞を授けるや、鎌倉中の上下万人が大聖人を嘲笑し、大聖人の弟子たちの中に「大聖人が真言を破折したのはやり過ぎではないか」と言い出す者もいた。
 大聖人は動揺する門下に対し、いかに真言宗が仏法を歪めてきたかを詳細に語られる。そうすると、たちまち、逆風が吹き、しかも鎌倉の御所や建長寺、極楽寺など、大聖人を誹謗する権力者や僧侶がいるところに大きい被害が出た。

第14章 身延入山後、蒙古襲来す(同923ページ1行目~12行目)

日蓮大聖人は、3度、国を諫めて用いられなかったことから、中国の故事にならって文永11年(1274年)5月12日に鎌倉を去り、身延の山中に草庵を結ばれた。
 それから5カ月後の同年10月、蒙古が襲来(文永の役)。大聖人の他国侵逼難の予言が現実のものとなった。大聖人は、仁王経、最勝王経、大集経、法華経を引かれ、この蒙古襲来を招いた元凶こそ、悪侶・悪王であると喝破される。

第15章 臨終の相をもって法華誹謗を証す(同923ページ13行目~924ページ9行目)

「どうして弘法や慈覚らを謗る人を用いることができようか」との人々の反感に対して、日蓮大聖人は、臨終の相をもって判断すべきであり、弘法・慈覚については、臨終が悪かったが弟子どもが隠してしまったために後代の人々が尊敬しているにすぎないと述べられる。
 続いて、人間として生を受けるのはすでに五戒を守り、善を修したからであり、したがって、人間であれば25の善神に守られ、同生・同名天に守護されているので、失がない限り、鬼神が害することはない。にもかかわらず、この国の人々が戦乱に苦しんでいるのは、国中に謗法が充満しており、諸天から反対に「頭破作七分」の治罰が加えられているためであると仰せられる。

第16章 最大の総罰、頭破作七分(同924ページ10行目~925ページ1行目)

法華経の行者に仇をなす者は「頭破作七分」と説かれているのに、日蓮大聖人を謗っても頭が割れていないのは、大聖人が法華経の行者ではないのではないか、との問いに対し、大聖人は〝日蓮以外に「法華経の行者」はいない〟と述べられる。そして「頭破作七分」といっても実際に頭が割れるのではなく、邪見によって生命力が衰弱し、苦しみ悩む状態に陥ることをいうのであり、今の世の人々がまさにそれに当てはまるとされる。

第17章 身延山での御生活(同925ページ2行目~終わり)

譬えを用いて、法華経の行者には必ず難があると述べられる。そして、日蓮大聖人御自身が南無妙法蓮華経と唱えるゆえに、20数年間、所を追われ、2度までも流罪に処せられ、身延山に移られたことを振り返られる。最後に大聖人が住んでおられる身延山中の様子を描き、訪れる人もまれな大聖人の庵室へ、便りを差し出した門下に対する心からの感謝をつづられる。

(創価新報2013年7月3日号)