青年部年間拝読御書

「種種御振舞御書」研鑽のために(1)

民衆救済の大闘争に続け「種種御振舞御書」研鑽のために(1)

万代にわたる人材の城を築きゆく「青年学会 勝利の年」の青年部年間拝読御書は「種種御振舞御書」。日蓮大聖人の御振る舞いと御境涯に迫るなかで、立正安国のため、不惜身命の闘争に挑みゆく決意を固めていきたい。連載の第1回は、背景と大意、第1章を解説する。

背景と大意

「種種御振舞御書」は建治2年(1276年)、日蓮大聖人が55歳の時に身延で御述作された御書とされている。大聖人御聖誕の地・安房国の門下・光日房(光日尼)に与えられたともされていたが、正確には分かっていない。
本抄は、文永5年(1268年)から身延入山までの大聖人の御振る舞いと御境涯を、御自身でつづられた御書である。
大聖人は述懐される――文永5年、蒙古からの牒状が日本に届く。大聖人が「立正安国論」で述べられた「他国侵逼難」の予言が、まさに現実のものとして差し迫った。大聖人は、再び国主諫暁に立ち上がられ、執権・北条時宗をはじめ、鎌倉の諸大寺の僧らに書状を送り、諫められる。これにより、権力者の卑劣な大弾圧は激しさを増し、命にも及ぶ法難に遭われた、と。
この文永8年(1271年)の「竜の口の法難」については、鮮烈な叙述で、日時を追って、特に詳しく述べられていく。

挿絵

続いて、流罪地・佐渡での闘争に筆をすすめられ、文永9年(1272年)の塚原問答、「自界叛逆難」の予言が的中した二月騒動(北条時輔の乱)、「開目抄」御述作の経緯を示される。
さらに、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免となって鎌倉に戻られた際に、3度目となる諫暁に臨まれ、その後、身延に入山されるまでをつづられる。
ここで記されているのは、大聖人の御生涯の中でも最も大きな法難に遭われた時期である。これらの大難によって、大聖人は「発迹顕本」され、末法の御本仏としての本地を顕された。つまり、末法の一切衆生を救っていく妙法弘通の御振る舞いを示されることが、本抄の元意であると拝される。

第1章 予言の的中と迫害
(御書909ページ初~910ページ2行目)

通解

 去る文永5年の閏正月18日に、西の異民族・大蒙古国から、蒙古に臣従しないなら日本国を攻めるという国書が送られてきた。
これによって、日蓮が去る文応元年に勘えて提出した立正安国論の予言が少しもたがうことなく符合した。この立正安国論は、かの中国の白楽天が時の政治に対して諫めた『新楽府』よりも優れ、釈迦仏の未来記にも劣るものではない。(このような重大な予言が事実となって現れたのであるから)末法の世に、これを越える不思議がまたとあるであろうか。
(予言の的中は国に対する大きな貢献であるから)賢王や聖主の治める世であるならば日本第一の権状(功を賞し、官位を授ける証書)にもあずかり、自分の生存中に大師号をも贈られるのが当然である。(また蒙古の襲来について)必ずや諮問を受け、幕府の軍事の評議にも参加し、蒙古調伏の祈りなども依頼されるのであろうと思ったのに、何の音沙汰もなかったので、その年(文永5年)の暮れの10月に11通の書状(「十一通御書」)を書いて、(幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧など)関係者へ警告を申し上げた。
国に賢人がいるならば、「まことに不思議なことである。これはただごとではない。天照太神と八幡大菩薩が、この僧に託宣して日本国が助かるべき方法を計られたのではないか」と思われるべきなのに、そうではなくて、あるいは(大聖人の書状を持って行った)使いの者に悪口し、あるいはごまかし、あるいは書状を受け取りもせず、あるいは返事もなく、あるいは返事は寄こしたが、上の者にそれを取り次がなかった。
こういうありさま自体、全くただごとではない。たとえ日蓮の身の上の個人的なことであったとしても、国主となって一国の政治を行う立場の人々は、取り次ぎ、申し上げてこそ政道の法にかなったことではないか。
まして、このことは、幕府の存亡にかかわる重大事であるばかりではなく、おのおのの身にあたって、大いなる嘆きが起こるべき出来事である。それなのに、この諫暁を用いることがないのはまだしも、悪口を加えるとは、あまりにも常軌を逸している。
これはひとえに、日本国の上下万人、一人も残らず皆、法華経の強敵となって、長い年を経たので、大きな誤ち(謗法)が積もり、大鬼神がおのおのの身に入った上に、蒙古国の国書に正念を抜かれて狂ったからである。
例えば、殷の紂王は比干という者が諫めを行ったけれども用いずに殺して、その死体の胸を割ってはずかしめ、結局、周の文王の子・武王に滅ぼされた。呉王は伍子胥の諫めを用いずに、反対に伍子胥に自害をさせた。その結果、呉王は越王・勾践の手にかかって滅ぼされてしまった。
幕府も彼ら(殷の紂王、呉王)のようになるだろうと、ますますふびんに感じて、(自分の)名を惜しむこともなく、命をも捨てる覚悟で強盛に言い切ったので、風が強いほど波が大きくなるように、竜が大きいほど雨も激しいように、いよいよ日蓮を恨み、ますます憎んで御評定で協議が行われた。頸をはねるべきか、鎌倉を追放すべきか、弟子檀那等については所領(土地や財産)のある者は所領を取り上げて頸を切れ、あるいは牢に入れて責めよ、あるいは遠流にせよなどと、さまざまに意見が出るありさまだった。

解説

本抄は、文永5年(1268年)閏正月18日に蒙古から牒状が届いたことから書き起こされている。「牒状」とは外交文書のことで、その内容は、蒙古への服従を迫り、拒絶するならば武力をもって侵略する、という威嚇的なものであった。当時の日本にとって、最大の危機の到来であり、日本国中が騒然となった。
大聖人は、文応元年(1260年)7月16日に、北条時頼に対し「立正安国論」を提出された。そのなかで、もし謗法の信仰を続けるならば、「自界叛逆難」(内乱)と「他国侵逼難」(他国からの侵略)が起こると警告されている。蒙古からの牒状の到来は、この「他国侵逼難」の予言が現実のものとなったことを意味していた。
大聖人は「立正安国論」こそ、白楽天の『新楽府』よりも優れた諫暁書であり、その予言は仏の未来記にも劣らないと仰せである。これは、大聖人の御本仏としての御境地を示唆されているのである。

挿絵

蒙古の牒状到来を機に、大聖人は「安国論御勘由来」を著されて幕府を促されたが、幕府からは何の反応もなかった。そのため、文永5年10月11日、幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧などにあてて11通の書状を出され、諸宗との公場対決を迫られた。しかし、だれ一人としてまともな応対がなかった。
これについて大聖人は、当時の政治の根本法規である貞永式目にかなったあり方(政道の法)から外れた狂った姿であると糾弾される。そして、その根本原因は、謗法の大罪により大悪鬼が人々の身に入っているからであり、さらには蒙古の牒状に動揺して正しい思慮を失ってしまったからであると指摘される。
なお、冒頭で〝賢王・聖主の世ならば、権状や大師号を受けることが当然である〟と言及されているが、いうまでもなく、大聖人は、これらの名誉を求めて諫暁されたのではない。
続く第2章の冒頭で、大聖人は叫ばれる。
「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」(御書910ページ)――もとより承知の上だ。喜ばしい限りだ、と。
正義を叫べば大難が競い起こることを、一番、御存じだったのが大聖人であられた。しかし、民衆の幸福のために、国土の安穏のために、大難を覚悟の上で国主諫暁に挑まれた。そして、命を賭した闘争のなかで発迹顕本され、末法の御本仏としての御境涯を顕されたのである。
竜の口の法難で、まさに頸を切られようとする最中、弟子に対し、「これほどの喜びを笑っていきなさい」(同914ページ、通解)と痛烈に叫ばれた大聖人。「難こそ宿命転換の好機!」「民衆救済に立ち上がる時は今だ!」との大聖人の崇高な御境涯に触れた当時の門下の胸に、どれほどの勇気と情熱が湧き上がったことであろうか。
池田名誉会長は「勝利の経典『御書』に学ぶ」で、本抄に貫かれているものは「いかなる迫害も悠然と見下ろし、威風も堂々と、そして、大誠実で妙法の正義を語り抜かれる大聖人の御境涯」であると語っている。
大聖人の立正安国の精神、不惜身命の魂をわが胸中に燃え上がらせ、「本より存知の旨」と一念を定めた時、いかなる苦難も恐れることはない。必ず乗り越え、宿命転換していける。それを証明したのが、創価三代の会長の大闘争である。
ますます混迷を極める現代社会にあって、次代を継承しゆく青年部の使命は、いやまして大きく深い。今こそ折伏・弘教、対話拡大の大旋風を青年部が巻き起こし、「青年学会 勝利の年」の先陣を飾っていきたい。

(創価新報2013年1月16日号)