青年部年間拝読御書

「種種御振舞御書」研鑽のために(3)

大確信の「声」が道を開く「種種御振舞御書」研鑽のために(3)

青年部年間拝読御書「種種御振舞御書」を学ぶ連載の第3回は、第4章と第5章を解説する。大勢の兵士が無実の日蓮大聖人を捕らえにくる緊迫の場面。しかし、大聖人の大確信の「声」によって、捕縛や連行の場は正法を証明する場へと一変する――生命の危険が迫る大難のなかでも、威風堂々と正義を叫ばれた大聖人の御境涯に触れていきたい。

第4章 二度目の諫暁と御勘気
(911ページ15行目~912ページ15行目)

通解

去る文永8年〔太歳・辛未〕9月12日に御勘気を蒙った(おとがめを受けた)。その時の御勘気のありさまも尋常ではなく、定まった法を超えた異常なものであった。(建長3年、鎌倉幕府の転覆を謀った僧である)了行が謀反を起こした時よりも、(弘長元年、三浦一族の子で幕府滅亡を企んだ武将)大夫の律師良賢が世を乱そうとして、召し捕られた時にもまして大がかりなものであった。

平左衛門尉が大将として、数百人の兵士に胴丸(鎧の一種)を着せて、自分は烏帽子かけ(烏帽子〈袋形のかぶりもの〉を紐で結ぶこと)をし、眼をいからし、声を荒らげてやってきた。大体、この事件の本質を考えてみるに、太政入道・平清盛が天下を取りながら国を滅ぼそうとしたのに似ていて、ただごととは見えなかった。

日蓮は、これを見て思った。「月々日々に、考え覚悟していたことは、このことである。なんと幸いなことであろうか、法華経のために身を捨てられるということは。この汚れた身が斬首されるなら、砂と黄金とを交換し、石で珠を買うようなものである」と。

さて、平左衛門尉の家来の一人である少輔房という者が走り寄って、日蓮が懐に持っていた法華経の第五の巻を取り出して、それで日蓮の顔を三度なぐりつけて、さんざんに打ち散らした。また、残り九巻の法華経を兵士たちが打ち散らして、あるいは足で踏み、あるいは身に巻きつけ、あるいは板敷きや畳など、家の二三間(家一面)に散らさないところがなかった。

日蓮は、大高声を放って言った。「なんとも面白いことだ。平左衛門尉が物に狂う姿を見よ。おのおの方は、ただ今、日本国の柱を倒そうとしているのである」と叫んだところ、そこにいた上下万人、全ての人があわてたようであった。

日蓮のほうが御勘気を蒙っているのだから、おじけづいて見えるはずなのに、そうではないので、「この召し捕りは、間違いではないか」とでも思ったのであろう。兵士たちのほうが顔色を変えてしまったのが、よく見えた。

(9月)10日に召し出された時と12日の捕縛の時、(日蓮が)真言宗の失や禅宗・念仏宗の謗法、極楽寺良観が雨を降らすことができなかったことを詳しく平左衛門尉に言い聞かせたところ、あるいはどっと笑い、あるいは怒ったりしたことなどは、わずらわしいので書かない。

要するに、6月18日から7月4日まで、(幕府の命を受けて)極楽寺良観が雨乞いの祈りをして、日蓮に阻止されて降らせることができず、汗を流し、涙だけを降らして、雨が降らなかったうえ、逆風が吹き続けたこと。

(この祈りの間、良観のもとへ)三度まで使者を遣わして、「一丈の堀を越えることのできない者が、どうして十丈・二十丈の堀を越えられようか。和泉式部が好色不貞の身でありながら八斎戒(殺・盗・淫など在家の男女が修行するうえで犯してはならない八つの罪)で制止している和歌を詠んで雨を降らし、能因法師(平安時代の京都の歌僧)が破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らせたのに、どうして、二百五十戒を持った人々が百千人も集まって一週間、二週間、天を責め立て祈られたのに、雨が降らないばかりか、そのうえに大風が吹くのか。これをもって知りなさい。あなたたちの往生は叶うわけがない」と責められて、良観が泣いたこと。

そして、(良観がこの敗北を逆恨みし、幕府高官の女房ら)人々に取り入って讒言したこと。

これらのことを一つ一つはっきりと申し聞かせたところ、平左衛門尉らは良観の味方をしたが、それもかなわず、言葉に詰まり、うつむいてしまったことなどは、わずらわしいから、ここには書かない。

挿絵

解説

文永8年(1271年)9月12日、平左衛門尉頼綱は、自ら指揮して、鎌倉・松葉ケ谷の草庵を襲い、日蓮大聖人を逮捕した。たった一人の、しかも武士でもない大聖人を捕らえるのに、数百人もの兵に鎧をつけさせて乗り込む。しかも、捕縛後は、わざわざ鎌倉の大通りを連行していく。平左衛門尉の姿勢は、あたかも「謀反人」を扱うようであったと大聖人は指摘されている。

いつの時代にも、無実の者を反逆者、謀反人として陥れるのが権力の常套手段であるといえよう。

大聖人は微動だにされなかった。もとより「世間の失」など全くない。正法を弘めれば迫害が起こることは経文に説かれる通りであり、成仏は間違いない。ゆえに、この難を「なんと幸いなことであろうか」(御書912ページ、通解)と喜ばれているのである。

「法華経の第五の巻」に収められている勧持品第13には「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん」(法華経418ページ)とある。この経文が入っている「第五の巻」で大聖人が顔を打たれたことは、不思議な符合といわざるをえない。

「我、正義なり!」との揺るぎなき大確信のもと大聖人は、異常な興奮状態であった武士たちに「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」との大高声を放たれる。御勘気を受けた罪人が堂々とし、捕縛にきた平左衛門尉がものに狂う。武士たちは「自分たちのほうが間違っているのではないか」と、顔色が変わっていく。

さらに大聖人は、真言、禅、念仏、律の諸宗の邪義を破折し、この不当逮捕が良観の策謀であることを祈雨の勝負の経過をあげて指摘される。

挿絵

この文永8年は大旱魃が続き、幕府は良観に雨乞いを命じる。良観は道や橋をつくり、人々から「生き仏」と崇められていたが、その裏で通行料などを取って私腹を肥やしていた。大聖人は、良観のこうした僭聖増上慢の本性を鋭く見破られていたのである。

それまで良観は法門での勝負から逃げていたため、大聖人は、この雨乞いを絶好の機会と捉えられる。良観に対し、〝7日のうちに雨が降れば良観の弟子になる。もし降らなければ良観は非を認め、法華経に帰依せよ〟と申し送られた。これを受けた良観は、弟子を集め懸命に祈った。しかし、約束の7日が過ぎても露ほどの雨も降らない。さらに7日経っても雨が降らないどころか、悪風が吹きすさび多くの被害が出る。

大聖人は、三度、使いを送り催促。「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」(御書912ページ)と仰せられ、現実の実証も適わない良観の教えが一切衆生の成仏などかなえられるわけがないと痛烈に破折されたのである。良観を擁護しようとした平左衛門尉も反論できずに黙ってしまう。

大聖人を捕縛する場が、かえって大聖人の正義を証明する場と一変した。大聖人の確信の「声」は、周囲を圧倒し、相手の一念をも変えたのである。

池田名誉会長は「声仏事を為す」(同708ページ)との御文を拝し、つづっている。

「声が『仏の仕事』を行うのである。声で民衆を救う『仏の慈悲の行業』を為しゆくのである。声で魔を打ち破り、『仏の力』を示すのである」

「『信念』があるから、声に力があるのだ。『誠実』だから、相手の胸を打つのだ。『勇気』があるから、悪に勝つのだ」

「声」は、いかなる窮地をも躍進のバネに変えることができる――大聖人の御振る舞いは、「声の力」の偉大さを示されているのである。

挿絵

第5章 若宮八幡での諸天善神への諫暁
(912ページ16行目~913ページ10行目)

通解

さて12日の夜は、武蔵守宣時殿の保護預かりとなり、夜半に及んで、頸を切るために鎌倉を出発したが、若宮小路(鎌倉鶴岡八幡宮の前の街道)に出て、四方を兵士が取り囲んでいたけれども、日蓮は「みんな騒ぎなさるな。ほかのことではない。八幡大菩薩に、最後に言うべきことがある」と言って、馬から降りて高声に言った。

「いったい八幡大菩薩はまことの神であるか。和気清丸が(道鏡の策謀で)頸をはねられようとした時は、たけ一丈の月と顕れて守護し、伝教大師が法華経を講じられた時は、紫の袈裟をお布施としておさずけになった。

今、日蓮は日本第一の法華経の行者である。その上、身に一分の過失もない。日本国の一切衆生が法華経を誹謗して無間地獄に堕ちて苦しむのを防ごうと、法門を説いている。また大蒙古国がこの国を攻めるならば、天照太神・正八幡大菩薩であっても安穏ではおられようか。

そのうえ、釈迦仏が法華経を説かれると、多宝仏・十方の諸仏・菩薩が集まって、そのありさまが日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とを並べたようになった時、無量の諸天並びにインド・中国・日本国等の善神・聖人が集まり、仏に『おのおの法華経の行者に対して疎略なことはしません(必ず守護します)という誓状を出しなさい』と責められて、一人一人が御誓状を立てたではないか。

そうである以上、日蓮が申すまでもない。大急ぎで守護の誓いを果たすべきなのに、どうして、この場に来ないのか」と声高々に申しわたした。

そして最後には「日蓮が今夜、頸を切られて霊山浄土へ参った時には、まず、天照太神・正八幡こそ法華経の行者を守護するという誓いを果たさない神であったと、教主釈尊に申し上げよう。それを辛いと思われるならば、大至急お計らいなされるがよい」と言って、また馬に乗った。

挿絵

解説

幕府は、日蓮大聖人を捕縛した後、何の裁判もなく、評定所において佐渡流罪の決定を下した。そして、大聖人は、佐渡を領国としていた北条武蔵守宣時の預かり処分となり、宣時邸に留め置かれることになった。

しかし大聖人が「下山御消息」で「都て一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる、外には遠流と聞えしかども内には頸を切ると定めぬ」(御書356ページ)と仰せのように、平左衛門尉は、最初から斬首するつもりだったようである。

夜半の午前零時ごろ、大聖人は馬に乗せられ、兵に囲まれて竜の口の刑場へ向かわれた。闇に紛れて処刑の既成事実を作ってしまおうとする魂胆は明らかである。

このような状況にあっても大聖人は悠然とされていた。八幡宮の前で大音声で八幡大菩薩を叱咤されるのである。日本第一の法華経の行者である日蓮大聖人が、このような大難にあっているのに八幡大菩薩の守護の働きがないのはどういうわけか、と。

天照太神や八幡大菩薩は、当時の最高権力者たちが頼みとする神であった。それを叱りつける大聖人の御振る舞いに触れた兵士たちの驚愕は、いかばかりであっただろうか。

もとより大聖人御自身は、諸天の加護を頼られているわけではない。しかし、諸天善神が法華経の行者を守護することは法華経の経文上の約束である。したがって、守護の有無は、真実の法華経の行者であるかどうかを証明するものでもある。それゆえに、諸天の加護の働きをうながされているのである。

名誉会長は「勝利の経典『御書』に学ぶ」で、この大聖人の八幡大菩薩・天照太神への叱咤について、戸田第2代会長が「全宇宙に向かって」の叱咤であったと講義していたと紹介している。

本抄では、この後、大聖人が竜の口の刑場でまさに首をはねられそうになった時、「ひかりたる物」(御書914ページ)の登場によって、刑の執行が不可能になったことがつづられている。まさに、「大音声」によって諸天と大宇宙を揺り動かし、大難を乗り越えられたのである。

我らにとっての最高の音声とは「題目」である。大生命力を湧き出して仏法を語る破邪顕正の師子吼である。社会で正法正義の実証を示しゆくために発するあらゆる声である。  そして、相手の心を揺り動かし、一切の壁を破っていく「音声」の原動力は、広宣流布という最善の正義に生ききる強き確信である。

我ら青年部の後継の証しは、大聖人の堂々たる御振る舞いと御境涯に迫りながら、広布の峰へ立ち向かい、断固と勝ち越えていくことにほかならない。

(創価新報2013年3月20日号)