青年部年間拝読御書

「種種御振舞御書」研鑽のために(5)

悪に勝ってこそ善は証明「種種御振舞御書」研鑽のために(5)

青年部年間拝読御書「種種御振舞御書」を学ぶ連載の第5回は、第8章と第9章を解説する。流罪地・佐渡での過酷な環境の中にあって、悠然と思索を深められ、烈々と破邪顕正の言論戦を展開された日蓮大聖人。その大境涯に触れ、競い起こる三障四魔と戦い抜く精神を学んでいきたい。 

第8章 塚原三昧堂での御法悦
 (御書916ページ4行目~917ページ9行目)

通解

同年(文永8年〈1271年〉)10月10日に依智をたって10月28日に佐渡の国に着いた。11月1日、本間六郎左衛門の家の後ろの塚原という山野の中にある三昧堂に入った。洛陽(京都)の蓮台野のように死人を捨てる所で、一間四面の堂で仏像も安置されていない。天井は板間が合わず、四方の壁は破れて、(堂の中に)雪が降り積もって消えることがない。
 このような所に敷皮を敷き、蓑をまとって夜を明かし、日を暮らした。夜は雪、雹、雷光が絶えず、昼は日の光も差し込まず、心細い住まいである。
 かの李陵が胡国に入って巌崛に閉じ込められたのも、法道三蔵が徽宗皇帝に責められて顔に焼印を入れられて江南に追放されたのも、ただ今の日蓮の境遇と同じだと思われた。
 何とうれしいことだろうか。須頭檀王は阿私仙人に責め使われて、法華経の功徳を得られた。不軽菩薩は増上慢の僧らの杖で打たれて、法華経の行者と言われるようになられた。今、日蓮は、末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めて、このような責めに遭っている。
 仏の入滅の後、2200余年の間、おそらくは天台智者大師も、「世間の人々で敵対する者が多く、法華経を信じることが難しい」(安楽行品)の経文を行じられなかった。「たびたび所を追われる」(勧持品)の明文を行じたのは、ただ日蓮一人である。「妙法蓮華経の一句一偈を聞いて、一瞬でも随喜した者には、全て成仏の記別を与えよう」(法師品)との経文に当たるのは私である。「阿耨多羅三藐三菩提」という仏の悟りを得ることは疑いない。
 相模守殿(北条時宗)こそ善知識であることよ。平左衛門尉こそ提婆達多よ。念仏者は瞿伽利尊者、持斎などは善星比丘である。在世は今にあり、今は在世である。法華経の肝心が「諸法実相」と説かれ、「本末究竟等(本末は究竟して等しい)」と述べられているのは、これである。
 『摩訶止観』第5巻には「修行・智解が既に進んだので、三障四魔が入り乱れて競い起こる」とある。また「猪が金山に身を擦りつけて金山をますます光らせ、たくさんの流れが海に流れ込み、薪が火の勢いを増し、風が迦羅求羅という虫を太らせるようなものである」等と。
 これらの釈の心は、法華経を教えの通りに、衆生の機根にかない、時にかなって理解し修行すれば、七つの大事(三障四魔)が現れてくるということである。
 その七つの大事の中で、天子魔といって、第六天の魔王が、あるいは国主、あるいは父母、あるいは妻子、あるいは檀那、あるいは悪人等について、ある時は行者に随いながら法華経の修行を妨害し、ある時は敵対しながら妨害するのである。
 いずれの経を行じるにせよ、仏法を行じるには、その経の浅深に応じてそれなりの難が必ずある。その中でも、法華経を行ずる場合には、魔は強盛に妨害する。しかも法華経を、教えの通り、時・機根にかなって行じる場合には、特に大難が起こってくるのである。
 ゆえに『止観輔行伝弘決』第8巻に「もし衆生が生死の迷いから出ず、法華経を慕わないと知れば、魔はこの人に対して親のような思いを生じる」等とある。
 この釈の心は、人が善根を修行しても、念仏、真言、禅、律等の修行をして法華経を修行しなければ、魔王は親のような思いを生じてその人につき随い、その人を大切に扱って供養する。世間の人に、真実の僧と思わせるためである。
 例えば、国主が尊ぶ僧を、人々が供養するようなものである。そうであれば、国主等が日蓮を敵としているのは、日蓮が既に正法を行じているということである。
 釈迦如来にとっては提婆達多こそ第一の善知識ではなかったか。今の世間を見ると、人を成長させるものは、味方の人よりも、かえって強い敵である。
 その例は眼前にある。この鎌倉の北条御一門の繁栄は、(北条一門を倒そうとした最大の敵である)和田義盛と隠岐法皇がおいでにならなければ、どうして日本の主となれたであろうか。それゆえ、この人々は、この御一門のためには、第一の味方である。
 日蓮が仏になるための第一の味方は、東条景信であり、法師では良観、道隆、道阿弥陀仏であり、また平左衛門尉、守殿(北条時宗)がおいでにならなければ、どうして法華経の行者となれただろうかと喜んでいるのである。

挿絵

解説

日蓮大聖人は、佐渡・塚原の厳しい様子を述べられた後、法華経の文が今の大聖人の姿に符合していることから、大聖人こそ法華経の行者であり、成仏は疑いないと断言されている。
 法華経には、釈尊の滅後に正法を弘める人は「世間の人々で敵対する者が多く、法華経を信じることが難しい(一切世間多怨難信)」「たびたび所を追われる(数数見擯出)」と説かれている。法華経の行者が必ず遭うと予言されたこれらの留難を一身に受け、法華経を身読されたのは、ただ大聖人お一人である。天台も「一切世間多怨難信」を行じていないし、大聖人が、伊豆流罪と佐渡流罪の2回の流罪を受けて「数数見擯出」を身で読まれたように、この経文を読むことができた人は他にいない。
 それゆえ、大聖人は「一句一偈・我皆与授記」の経文に該当する人は御自身一人であり、成仏は間違いないと断言されるのである。これは、法華経に記されたことと現実との合致という客観的な事実によって、大聖人こそ末法の御本仏であることを示唆されているのである。
 そして大聖人は、提婆達多、瞿伽利尊者、善星比丘など、釈尊を迫害した者たちの名を挙げて、「在世は今にあり今は在世なり」(御書916ページ)と仰せである。これは釈尊の実践と大聖人の実践は全く同じであるという意味である。
 すなわち、釈尊も大聖人も、法華経を弘めるために迫害者たちと戦い、その難に勝って妙法を弘めた。そして、〝弘める法〟が同じであれば、迫害に勝つという〝弘める実践の相〟も同じであるという原理を「本末究竟等」(=本が釈尊在世の実践、末が末法の大聖人の実践)と表現されている。
 さらに、大聖人は、摩訶止観の「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」等の文を挙げ、魔が入り乱れて競い起こる様相を示されて、三障四魔と戦う人が「正法を行ずる」人であると仰せである。
 つまり、三障四魔が競い起こらなければ、法華経の行者とはいえず、悪知識の提婆達多からの迫害は、かえって釈尊の正義の証明となった。その結果から見れば、提婆達多は釈尊にとって「第一の善知識」と捉えることができる。これと同様に、大聖人にとっては、命まで奪おうとした良観や平左衛門尉ら迫害者こそが「第一の味方」であり、喜ばしいと仰せなのである。
 池田名誉会長は「勝利の経典『御書』に学ぶ」で語っている。
 「もちろん『敵も味方も仲良く』ということではありません。大切なのは『戦い切る』ことです。妥協を許さず『絶対に負けない』ことです」
 「『悦ぶ』ということは、成仏という人生の真の勝負に『勝った』ということです。世間の地位がどうであれ、生命の位である『境涯』において『天地雲泥』です。誰よりも民衆のために、大難を乗り越え、広宣流布のために戦い抜かれた大聖人だからこその『大勝利宣言』なのです」と。
 大事なのは、悪に勝ってこそ、悪を善の中に包んでいけるということである。その時に初めて「かたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(同917ページ)と、強敵を自身の成長の因とすることができる。
 また大聖人は他の御書で、法華経の文を引かれ、「魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る」(同1242ページ)との御金言を疑ってはならないと仰せである。強盛な信心に立てば、敵をも味方に変えることができる。反対に、悪に負ければ、善も悪の中に埋没してしまう。仏法は勝負であり、勝ってこそ善は証明できることを深く銘記したい。

挿絵

第9章 塚原問答と自界叛逆の御予言
 (同917ページ10行目~919ページ1行目)

通解

このような心境で過ごしていたが、庭には雪が積もって人も通わず、堂には荒い風のほかは訪れる者もない。眼には摩訶止観や法華経をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱え、夜は月や星に向かって諸宗の違いと法華経の深義を談じている間に年が改まった。
 どこでも人の心の浅はかさは同じことで、佐渡の国の持斎や念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等の数百人が寄り合って謀議していると伝わってきた。
 「阿弥陀仏の大怨敵、一切衆生の悪知識として有名な日蓮房がこの国に流されてきた。いずれにしても、この国へ流された人で、最後まで生かされたためしはない。たとえ生かされていても元の国へ帰れたためしはない。また流人を打ち殺したとしても、おとがめはない。日蓮房は、塚原という所に、ただ一人でいる。いかに剛の者でも、力が強くても、人のいない場所なのだから集まって射殺してしまえ」と言う者もあった。
 また「いずれにしても、頸を切られるはずであったが、守殿(北条時宗)の夫人がご懐妊なので、しばらく斬罪を延ばしているが、やがて必ず執行されると聞いている」とか、また「地頭の本間六郎左衛門尉殿に切ってもらうように訴えて、切らなかったなら、我々で謀ろうではないか」という者もあった。多くの意見の中で、最後の意見に落ち着き、守護所に数百人が集まった。
 これに対して、六郎左衛門尉は「お上から殺してはならぬという添え状が下っていて、軽んずべき流人ではない。過ちがあるならば私(重連)の大きな罪となってしまう。(だから殺すなど考えないで)それよりも、法門だけで責めよ」と答えたので、念仏者等が、あるいは浄土の三部経、あるいは摩訶止観、あるいは真言の経典等を、小僧らの首にかけさせ、あるいは小脇に挟ませて、正月16日に集まった。
 佐渡の国だけでなく、越後(新潟)・越中(富山)・出羽(山形・秋田)・奥州(福島・宮城・岩手・青森と秋田の一部)・信濃(長野)等の国々から集まった法師たちであるから、塚原の堂の大庭から山野にかけて数百人、また六郎左衛門尉と兄弟一家、そのほか入道たちが数知れず集まってきた。
 念仏者は、口々に悪口を言い、(天台密教の)真言師は青ざめた顔色で「天台宗が勝つ」と声高に騒ぎ立てた。在家の人たちは「あれが名高い阿弥陀仏の敵だ」と大声で騒いだ。その騒ぎの震動は雷鳴のようであった。
 日蓮は、しばらく騒がせておいて「おのおの方、お静かに。法論のために、わざわざ来られたのであろう。悪口などは無意味ではないか」と言ったところ、六郎左衛門尉はじめ数多くの人々が「その通りだ」と、悪口していた念仏者の首をつかまえて突き出した。
 さて、天台の摩訶止観や真言・念仏などの法門について、一つ一つに彼らが主張する内容に念を押して承知させておいてから、ちょうとばかりに突き詰め、突き詰めしていくと、一言か二言で十分であった。鎌倉の真言師、禅宗・念仏者・天台の学者よりもはかない者たちなので、ただご想像されなさい。まるで利剣で瓜を切り、大風が草をなびかすようであった。
 彼らは仏法に暗いばかりでなく、あるいは自語相違したり、あるいは「経文」であることを忘れて「論」と言ったり、「釈」であることを忘れて「論」と言ったりした。善導が首をくくって柳から落ち、弘法大師が三鈷を投げたことや大日如来と現れたこと等について、あるいはその妄語であること、あるいは物に狂っている点を一つ一つ責めたところ、ある者は悪口し、ある者は口を閉じ、ある者は顔色を失い、ある者は「念仏は間違いであった」と言う者もあり、あるいは、その場で袈裟や浄土宗の平念珠を捨てて「これからは念仏は唱えない」という旨の誓状を立てる者もあった。
 人が皆立ち帰っていくので、六郎左衛門尉も、その一家の者も帰っていく。この時、日蓮は不思議を一つ言おうと思って、六郎左衛門尉を大庭から呼び返して言った。「いつ鎌倉へ上られるのか」と。彼が答えて言うには「下人どもに農事をさせてから、7月のころ」と。
 日蓮は言う。「弓矢をとる武士は、幕府の大事にあっては戦って、その報いに所領を賜るものではないか。田畠をつくる時であるとはいえ、ただ今、戦が起ころうとしているのであるから、急いで鎌倉へ駆け上り、手柄を立て、名を高めて所領を賜ってはどうか。何といっても、あなたは、相模の国にあっては名の知られた侍であろう。それが田舎で田をつくっていて、戦に外れたならば、恥であろう」と申したところ、どう思ったのであろうか、あわててものも言わなかった。見ていた念仏者や持斎、在家の人たちも何を言っているのかと、あやしんだ。

挿絵

解説

佐渡に入り、粗末な塚原の三昧堂に住まわれた日蓮大聖人は、極寒の、想像を絶する環境の中で新年を迎えられる。この間、大聖人は、摩訶止観や法華経を読まれ、ひたすら題目を唱え続けられる。
 夜は月や星に向かって、諸宗の違いや法華経の深義を談じられたと仰せであるが、これは、人本尊開顕の書である「開目抄」御執筆のための御思索のことであると推察される。
 ここに、何ものにも妨げられずになすべきことをなし、大宇宙を相手に語らう御本仏の雄大な御境涯を拝することができるのである。このお姿に、私たちが目指すべき人間王者の模範があろう。
 次に「塚原問答」が起こったいきさつと、その模様について述べられている。
 いざ法論が始まってみると、念仏僧たちは、大聖人の簡潔な破折に何一つ反論もできず、自語相違したり、「経(仏が説いた教法)」「論(インドの論師が経を解釈した書)」「釈(人師が経論の義を解釈したもの)」の違いという仏法研学の基本すら満足に理解できていなかったりするありさまで、最後は「これからは念仏は唱えない」と誓う者が出るほどであった。
 〝日蓮は流人なのだから殺してもかまわない〟などと企むほど敵意と憎しみに満ちた念仏僧ら数百人が取り囲み、雷鳴のごとく悪口を浴びせる状況の中、大聖人は、舌鋒鋭き言論の力で見事に相手を圧倒された。
 この破邪顕正の闘争の御振る舞いに、大聖人の法門の深さはもとより、あらゆる障魔を一掃する大生命力と大確信の力を学ぶことができるのである。

(創価新報2013年5月15日号)