青年部年間拝読御書

青年部拝読御書 顕仏未来記 研鑚のために②

難こそ誉れ! 末法広宣流布の主人公たれ青年部拝読御書 顕仏未来記 研鑚のために②

青年部拝読御書「顕仏未来記」を学ぶ連載の第2回は、第2章を解説する。法華経の「猶多怨嫉・況滅度後」の文を身読されたのは、日蓮大聖人ただお一人であるとの事実を通し、大聖人こそが末法広宣流布を担う法華経の行者であることを学んでいく。

第2章 末法の留難を明かす(御書506㌻2行目~12行目)

通解

 問うて言うには、後の五百年に生まれたのはあなた一人ではない。なのに、どうしてあなただけが末法に生まれたことを喜んでいるのか。
 答えて言うには、法華経第4の巻、法師品第10には、次のように説かれている。
 「如来の在世中でさえ、なお怨嫉が多い。まして仏の入滅の後においては、さらに大きな怨嫉があるのは当然である」と。天台大師は法華文句に「法師品の『何に況んや未来をや』と説くその理は、滅後の衆生は化し難いということにある」と述べている。
 妙楽大師は法華文句記に「『その理は化し難いというところに在る』とは、この況滅度後の理を明かす本意は、末法の衆生を教化することがいかに難しいかを知らせることにある」と説いている。
 (妙楽の弟子である)智度法師は(法華経疏義纉に)、「俗にも『良薬、口に苦し』と言うようなものである。この法華経は人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗それぞれが執着する教えを打ち破って、仏の究極にして唯一の教えを明らかにしている。だから、六道の凡位の者を退け、声聞・縁覚の聖位の者を呵責し、大乗教を排し、小乗教を打ち破るのである。(中略)そのために、このように破折された教えに執着する者たちはことごとく、法華経を弘める者に対して迫害を加えるのである」等と述べている。
 伝教大師は法華秀句に「妙法流布の時代を論じれば、像法時代の終わりから末法の始めであり、地域を論じれば(昔の中国である)唐の国の東・(中国東北部に住した)靺鞨の西である。人を尋ねれば、五濁が充満する悪世末法に生まれてくる衆生であり、その時は闘諍の絶えない時代である。法華経法師品に『猶多怨嫉・況滅度後』と予言しているが、この言葉は、本当に深い意味がある」と説いている。
 この伝教大師が書き残した文は、それを著した伝教自身の時代のことを言っているようにみえるが、実は末法の初めである今の時を指している。正法・像法の時代がほぼ終わろうとし、「末法がごく間近に近づいている」との伝教の釈は、実に意味深いのである。
 法華経薬王品には「後五百歳広宣流布の時には、悪魔(=人の生命力を奪う悪鬼・魔神)・魔民諸天(=魔の姿をした神々)・竜(=蛇型の悪鬼)・夜叉(=形が醜く猛悪な鬼)・鳩槃茶(=人の精気を吸う悪神)等がつけこんで、さまざまな災いをなすであろう」と説かれている。
 この文の中でいう「等」については、この法華経に更に「あるいは夜叉、あるいは羅刹(=鬼)、あるいは餓鬼、あるいは富単那(=餓鬼の異名)、あるいは吉遮(=悪鬼)、あるいは毘陀羅(=以下、いずれも鬼神の名)、あるいは犍駄、あるいは烏摩勒伽、あるいは阿跋摩羅、あるいは夜叉吉遮(=夜叉の姿をした吉遮)、あるいは人吉遮(=人の姿をした吉遮)」(陀羅尼品第26)とある。
 この法華経の文は、過去世に(爾前諸経の)四味三教や外道、人・天等の法を修行して、その結果、今世に悪魔・諸天・諸人等として生まれてきた者が、完全にして真実の教えである法華経を広める行者を見聞して、難を加えるという原理を示している。

挿絵

解説

★経文身読の喜び

 第2章からは、日蓮大聖人こそが、仏が予言した末法広宣流布を担う法華経の行者であることを明らかにされていく。
 冒頭では、「末法に生まれているのは大聖人一人に限らないのに、なぜ、大聖人だけが末法に生まれたことを喜んでいるのか」という問いが設けられている。これに対する答えとして、本章では末法広宣流布における大難の様相を示す経・釈を挙げ、このような大難を受ける人こそ法華経の行者であることを示されている。
 まず、法華経法師品の「如来の現に在すすら猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」(創価学会版法華経362㌻)との文を挙げられる。釈尊滅後の法華経流布の時には、釈尊在世以上の難が起こるということを予言した文である。
 続いて挙げられている天台・妙楽・智度法師・伝教の文は、法師品の「況滅度後」の大難を、種々の角度から具体的に示すものである。
 そのうち、天台と妙楽の文は、滅後の衆生の教化が難事であることを示している意味である。
 また、智度法師の文は、法華経が仏の唯一の教えであるとの立場から諸経を破折する経典なので、滅後に法華経を弘通すると、その他の経に執着する者たちが反発し、法華経を弘める者に対して迫害を加えることを示す。
 さらに、伝教の文は、法師品の文が具体的に、末法始めの五濁悪世・闘諍の時を指しており、その国土は日本であることを明言している。大聖人はこれを受けて、伝教の本意は、末法の始めの大聖人の時代を指し示すことにあると言われ、その証拠として伝教が末法を願楽する「末法太だ近きに有り」との文を再び引かれている。
 最後に薬王品と陀羅尼品の文を引かれる。薬王品の文は、先の仏の未来記に関連するもので、後の五百歳の広宣流布の時には、諸々の悪魔、悪鬼が広宣流布を断絶させようとするという意味である。広宣流布の戦いの本質は、どこまでも魔との闘争なのである。
 ここで大聖人が、この薬王品の文、および陀羅尼品の文を引いて、さまざまな悪魔・悪鬼の名を挙げられているのは、これらの魔や鬼が身に入った者たちが法華経の行者に間断なく、種々の難を加えるということを示されているのである。
 このように、釈尊以上の大難を受け、それに耐えて法華経を弘通していく人こそが、末法広宣流布の未来記にあたる法華経の行者である。その法華経の行者とは、まさしく大聖人にほかならないのである。

★迫害こそ正義の証明

 なぜ、日蓮大聖人だけが末法に生まれたことを喜ぶのか――。大聖人は第2章から、さまざまな経文を挙げながら、御自身が末法において、釈尊以上の大難を受けてきた「法華経の行者」であることを明かされていく。
 末法とは、釈尊滅後、仏法が形骸化して、人々を救う力が弱まっていく時代である。大聖人御在世の時は、この末法の初めにあたっており、度重なる天変地異や飢饉・疫病などによって、民衆の心は不安と恐怖で疲弊し切っていた。いわば、先行きの見えない困難な社会状況であったのである。
 しかし、こうした時代状況も、大聖人の眼から見れば、法華経の肝要である「南無妙法蓮華経」を説き顕すことによって、尽未来際にわたって民衆を苦悩の海から救っていける時代へと変わる。大聖人は、その使命に生き切るがゆえに、末法に生まれることを喜びと表現された。
 迫害こそ正義の証明である。法華経弘通に伴う、あらゆる難は正しき信仰の証しとなる。
 大聖人の喜びとは、御自身が末法において仏の未来記を経文通りに実践しているとの大確信であり、広宣流布に生き抜く深き使命の自覚といえよう。
 開目抄で「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書232㌻)と仰せのように、広宣流布の大願に立った大聖人に、恐れるものは何もなかった。事実、大聖人はいかなる大難に遭おうとも、民衆救済のために戦い抜き、信念の道を歩み抜かれた。
 また、「日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり」(同1190㌻)と仰せのように、大聖人が法華経を身読されたことによって、法華経が虚妄にならず、釈尊の言葉の正しさが証明されたのだ。

★大聖人の闘争に連なる

 法華経の行者とは、あらゆる三障四魔、三類の強敵を耐え忍び、打ち勝ちながら、法華経の題目を弘める広宣流布の実践者である。それは、末法広宣流布の大願に生き抜く大聖人にほかならない。また現代において、この大聖人の大闘争に連なり、全世界に幸福の連帯を広げてきたのが創価の三代会長であり、学会員である。そして、偉大な師の闘争に続く私たち青年部には、仏法の偉大さを証明しゆく尊い使命がある。
 御書には「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(1360㌻)とある。世界広布といっても、一対一の納得と共感の対話から始まる。たとえ無理解な批判や中傷があっても、朗らかに堂々と仏法を語っていく。一人一人が広布の主役との決意で行動を起こしていくことである。
 池田名誉会長はつづっている。
 「広宣流布に闘う、勇敢なる仏子には、必ず中傷や非難がある。そうでなければ、真実の法華経の行者とはいえない。現実に、批判・中傷を受けながら、妙法を世界に弘めているのはだれか。私である。学会員の皆さまである。広布の闘争に連なる功徳は、あまりにも大きい。師とともに広宣流布へ――これが牧口先生以来の学会の伝統である。ここに仏法流布の方程式がある」
 私たちは末法広宣流布の主体者としての自覚も新たに、「難こそ誉れ」との決意で師弟の大道を進んでいきたい。

(創価新報2014年2月19日号)