青年部年間拝読御書

青年部拝読御書 顕仏未来記 研鑚のために③

不軽菩薩の実践も、日蓮仏法の真髄も
「私は信じる、あなたの可能性を!」青年部拝読御書 顕仏未来記 研鑚のために③

青年部拝読御書「顕仏未来記」を学ぶ連載の第3回は、第3章を解説。末法における弘教の在り方を研鑽し、不軽菩薩の実践に象徴される「誠実」の二字を心に刻んでいく。

第3章 末法の弘教の方軌を明かす(御書506㌻13行目~507㌻9行目)

通解

 疑って言うには、正法と像法の二つの時代と末法とを比べてみると、時も衆生の機根も、共に正法・像法時代は末法よりもずっと勝れている。それなのに、法華経薬王品の文は、どうして正法・像法時代の勝れた「時」と「機」を捨てて、ひとえに今、末法の時を指定したのだろうか。
 答えて言うには、仏の本意は測り難い。私(日蓮大聖人)もいまだ仏の本意を証得していない。しかし試みに一つの道理を立てて、まず小乗経に基づいて正法・像法・末法の三時の違いを考えてみれば、正法の千年間は、「教」「行」「証」の三つが完全に具わっていた。像法の千年間には「教」と「行」のみが具わり、「証」はない。末法においては「教」だけが残っており、「行」も「証」もない。
 法華経をもってこれを考えてみると、正法の千年間に(小乗経が)「教」「行」「証」の三つを完全に具えていたのは、釈尊在世の時に法華経に結縁した者が、その後、再び正法時代に生まれてきて、小乗経の「教」と「行」を縁として、小乗経の証果を得たのである。
 像法時代においては、釈尊在世の時の法華経への結縁が薄いために、小乗経では証果を得ることができないので、この時代の人は権大乗経を縁として十方の浄土に生まれるのである。
 ところが、末法の時代に入ると、権大乗経・小乗経は、共に利益がなくなる。小乗経は「教」だけは残っているが「行」「証」はない。権大乗経には「教」「行」があっても、冥顕の「証」がなくなっている。
 そのうえ、正法・像法時代に立てられたところの権大乗経・小乗経の二教による諸宗派は、末法に入ってからは次第にその執着心がいよいよ強くなり、小乗経で大乗教を批判したり、権教の教義で実教の教義を打ち破ったりして、国中にこうした謗法の人が充満したのである。
 そのために、仏教によって三悪道に堕ちる人は、大地の微塵よりも多く、正法を修行して成仏する人は、爪の上の土よりも少ない。
 こういう時においては、諸天善神はその国を捨て去り、ただ邪天・邪鬼等だけがいて、王臣や比丘・比丘尼などの身や心の中に入り住み、これらの人々に法華経の行者への悪口を言わせ、辱めさせたりする時になっている。
 しかしながら、仏の滅後において四味・三教等の爾前権教への邪な執着を捨てて、真実の大乗である法華経に帰依するならば、諸天善神や無数の地涌の菩薩が、法華経の行者を守護するであろう。この人は守護の力を得て、本門の本尊・妙法蓮華経の五字を一閻浮提に広宣流布させるであろう。
 例えば、威音王仏の像法の時に、不軽菩薩が出現して、「我深く汝等を敬う」等の二十四字の法華経を、彼の国土に広宣流布し、一国の人々によって杖木をもって打たれ、瓦石をもって追われるという迫害を招いたようなものである。(不軽菩薩の)二十四文字の法華経と(大聖人の)妙法蓮華経の五字と、その言葉は異なっていても、その意は同じである。(次に弘通の時について)不軽菩薩の出現した威音王仏の像法時代の末と、(大聖人が出現している)今の末法の初めと全く同じである。
 (そして、弘通の人について)彼の不軽菩薩は初随喜の人であり、日蓮は名字の凡夫で(ともに浅位であるという点で)等しいのである。

挿絵

解説

★妙法流布に立ち上がる

 第3章では、仏が正像二時ではなく、末法を法華経広宣流布の時と定めた理由が論じられていく。謗法の者が充満する末法の国土では、法華経の行者が難に耐えつつ、「本門の本尊・妙法蓮華経の五字」を一閻浮提(全世界)に広宣流布し、衆生を救っていくことが明かされる。また、このような法華経の行者による末法広宣流布の方軌は、不軽菩薩の法華弘通の方軌と一致していることが示されている。
 はじめに、「なぜ仏は、時も機根も勝れている正像の二時ではなく、末法を広宣流布の時と定められたのか」との問いが立てられる。これに対し日蓮大聖人は、「仏の真意は測り難いが、試みに一つの考え方を示す」と前置きされ、「教行証」の観点から考察されていく。
 「教」とは仏の所説の教法、「行」とは教法によって立てた修行、「証」とは「教」「行」によって証得された果徳をいう。
 まず、小乗経の「教行証」について、正法時代は三つとも具わっていたが、像法時代に入ると、「教」「行」のみあって「証」がなく、末法に至っては、「教」のみあって「行」「証」がないと仰せである。
 次に、法華経の立場から、あらためて小乗経の「教行証」を見直されていく。大聖人は、正法時代に小乗経に「教行証」が具わっていたのも、正法時代の衆生が釈尊在世の法華経と結縁していたからである、と述べられる。すなわち、法華経との結縁が根本原因となっていたからこそ、小乗の「教」「行」を縁として証を得ることができたのである。あくまでも根本は法華経との結縁なのだ。
 像法時代に入ると、法華経との結縁が微薄になる。よって、小乗では「証」を得ることができないが、権大乗の「教」「行」を縁とすれば、権大乗の「証」を得ることができる。末法に入ると、小乗・権大乗経ともに、「証」を得ることができなくなる。末法の衆生は、在世の法華経との結縁が全くないからである。ゆえに、末法では、「証」の根本原因である法華経との結縁から始めなければならない。そのため、釈尊の脱益の法華経ではなく、大聖人の下種の法華経、すなわち南無妙法蓮華経が、末法の衆生を救いゆく大法となるのである。
 次に大聖人は、悪世末法の様相を示しながら、弘教の方軌を述べられていく。
 末法では、正法・像法時代に役割を終えたはずの小乗・権大乗経に執着し、法華経を破ろうとする謗法の者が国土に充満する。したがって、仏法によって悪道に堕する者は多く、正法を行じて成仏する人は少ない。
 謗法の者が充満するため、諸天善神は国を離れ、代わりに邪天・邪鬼等が王や家来、僧侶、尼等の心身に入り、法華経の行者を責める。しかし、その悪世こそ、法華経の行者が立ち上がる時なのである。
 権教への執着を捨て、法華経のみを信じ、帰依すれば、諸天善神がその人を守護する。これは、仏説の通りである。そして、諸天善神の守護の力を得た法華経の行者は、「本門の本尊・妙法蓮華経の五字」を、一閻浮提に広宣流布していくのだ。
 さらに大聖人は、末法の法華経の行者が妙法を弘通していく方軌を、不軽菩薩の弘教と対照され、御自身の弘教が不軽菩薩の実践と重なることを明かされていく。
 すなわち、①法の共通性(「二十四文字の法華経」と「妙法蓮華経の五字」=万人成仏の法)、②時の共通性(威音王仏の像法時代の末と、釈迦仏の末法=いずれも悪世であり、迫害を受けながら、逆縁によって法を弘める時)、③修行の位の共通性(初随喜と名字即=いずれも菩薩道を実践し始めたばかりの凡夫の位)の三つである。

★迫害者は悪鬼入其身

 末法は、経典に説かれている通り、釈尊の仏法で人々を救う力がなくなる時代である。人々の機根は悪くなり、生命が濁る悪世である。悪をもって善を打ち、邪をもって正を破る――そうした顛倒の時代であるがゆえに、真実の教えを弘めゆくのは困難を極める。
 日蓮大聖人は、末法の時代には、仏教のなかにおいて正法を誹謗して悪道に堕ちる者が大地の微塵よりも多くなるのに対して、正法を実践して仏道を得る者は爪の上の土のように少ない、と言われている。このような謗法が充満した時代には、仏法の法味によって威光勢力を得る諸天善神は国土を捨て去り、その国土には代わりに悪鬼が充満する。その悪鬼らが権力者や宗教者の心身に入って、法華経の行者への迫害を起こすのである。
 法華経には、法華経の行者を迫害する者の本質は「悪鬼入其身(悪鬼其の身に入る)」と説かれている。「悪鬼」とは、人の生命力や功徳を奪い、生き方を狂わす邪悪な働きである。末法の民衆を救うために最も必要な、正義の人である大聖人を亡き者にしようとすること自体、邪悪な悪鬼による狂気と言わざるを得ない。大聖人は、こうした法華経ゆえの迫害を一身に受けながら、一歩も引くことなく妙法流布に生き抜かれた。その上で、「仏の滅後に於て……閻浮提に広宣流布せしめんか」(御書507㌻)の御文で大聖人は、悪世末法における弘教の在り方について述べられている。
 まず、「邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば」とは、私たちの実践で言えば、「御本尊以外にない」と覚悟し、祈り、動くことと拝することができる。この「絶対の確信」「強く深い信心」で立ち上がることが、謗法のまん延する末法を生き抜く生命力の源泉となる。
 そして、「此の人(=法華経の行者)は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布」していく、と仰せなのである。あふれだす仏菩薩の生命、いうなれば勇気、確信、希望、戦う心をみなぎらせて、全世界に妙法を広宣流布していく存在こそ、法華経の行者である。
 たとえ悪世であっても、否、悪世であるからこそ、いよいよ妙法流布の使命に燃え立ち、競い起こる三障四魔、三類の強敵にもひるまず前進し続ける――ここに、末法の弘教の方途がある。

★人を敬うことが根本

 とはいえ、「迫害に立ち向かう」「非難・中傷を恐れずに進む」ことは、凡夫の私たちにとっては艱難の道である。また、末法という時代において、自身の生命に具わる仏性を信じることも決して容易ではない。では、このような悪世の衆生は、どうすれば救うことができるのか。その鍵こそ「不軽菩薩の実践」にあると拝したい。
 不軽菩薩は、法華経不軽品に説かれており、威音王仏の像法時代の末に出現した菩薩である。「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(創価学会版法華経557㌻)との二十四字の法華経を唱え、全ての人を礼拝して敬う修行を貫いた。不軽菩薩は、無知な衆生から悪口罵詈され、杖で打たれ、瓦や石を投げられる迫害に遭うが、彼は礼拝行を決してやめなかった。
 不軽菩薩が信じたのは、「一切衆生の仏性」である。私たちに即して言えば、「全ての人には無限の可能性がある」ということである。
 自らを攻撃する存在ですら、不軽菩薩は軽んじなかった。「皆が必ず仏になる存在である」ということを信じて疑わなかった。乞眼の婆羅門にだまされ、「衆生は度し難し」といって菩薩行をやめてしまった舎利弗の過去世の姿とは対照的である。なぜ不軽菩薩は修行を貫くことができたのか――。舎利弗の過去世の姿と比べた上で、あえていうならば、「相手の反応に左右されなかった」からではないか。
 真実を語っている以上、相手が称賛しようがけなそうが、その功徳は絶対である。そして、相手の生命に成仏の種が確実に植えられている――相手の仏性を信じ抜くという絶対の確信こそ、折伏の肝要であり、友を救い、自らを人間革命していく源ではないだろうか。
 「御義口伝」に、「不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向って礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(御書769㌻)と仰せの通りである。
 翻って現代社会では、深刻な不況や少子高齢化が急速に進み、多くの若者が将来に対して漠然とした不安を抱いている。一方でインターネットをはじめとして、さまざまな情報は氾濫しているものの、何が正しい人生かを指し示す基準を持っている人は少ない。
 孤独感に苛まれ、いつの間にか無気力・無関心に陥り、未来への希望を抱くことすらしなくなる人もいる。
 創価学会は、そうした時代の風潮に、真っ向から挑んできた。誠実な対話を重ね、夢や希望を語りながら、幾多の蘇生のドラマを生み出してきた。妙法の弘通は無明との戦いでもあるがゆえに、無理解や偏見による悪口も言われる。正義であるがゆえに、中傷され、迫害されることもある。それでも、「友のために!」と立ち上がり、勇気の対話を広げてきたのだ。
 相手から何を言われようが、相手の現状がどうであろうが、その人の「可能性」「仏の生命」を見て、折伏にまい進する。確信をもって「変われるよ!」と語り抜く。その姿こそ、現代における「不軽菩薩の実践」と言えよう。
 池田名誉会長は語っている。
 「創価学会は、不軽菩薩の実践を現代に移した、地涌の菩薩の集いである。したがって、学会の根本精神は、人を敬うことにある。人の幸福を願い、実現していくことにある。人に尽くしていくことにある」
 私たちは、いかなる時代にあろうとも、人間の尊厳性を広げ、友を信じ、誠実を尽くし抜く「不軽の実践」を、誇り高く貫いていきたい。

(創価新報2014年3月19日号)