青年部年間拝読御書

青年部拝読御書 顕仏未来記 研鑚のために④

正義を叫び真実を語り抜く!
信仰とは迫害にも揺るがない強き信念を貫くこと青年部拝読御書 顕仏未来記 研鑚のために④

青年部拝読御書「顕仏未来記」を学ぶ連載の第4回は、第4章を解説する。法華経の経文を身読した日蓮大聖人こそ、末法の法華経の行者であることを学び、仏の未来記を実現した御本仏の大確信を心に刻んでいく。

第4章 末法の御本仏なるを論ず(御書507㌻10行目~18行目)

通解

 疑って言うには、いったい何を根拠として、あなた(=大聖人)が末法の初めの法華経の行者であるということを知ることができるのであろうか。
 答えて言うには、法華経法師品第10に「況んや滅度の後をや」と説かれている。
 また勧持品第13には、「多くの仏法に無智な人がいて、法華経の行者に対して、悪口を言ったり、ののしったり、さらに刀で斬りつけたり、杖で打つ人まで現れるだろう」と。また同じく勧持品には「たびたび追放されるであろう」と。
 また安楽行品第14には「世間のあらゆるところで怨む人が多く、法華経を信じようとしない」と。また常不軽菩薩品第20には「杖や棒で打ったり、瓦や石を投げつけたりして迫害する」と。また薬王菩薩本事品第23には「悪魔・魔民・諸の天竜・夜叉・鳩槃茶等がつけいって、さまざまな災いをなすであろう」等と述べられている。
 これらの法華経の明鏡に関して、仏語(=仏の言葉)を信じさせるために、日本国中の王と臣下、および四衆(=在家の男女と出家の男女)に当てはめてみると、この経文に符合する者は私(=大聖人)よりほかには一人も見当たらない。時を論ずれば、末法の初めであることは決定している。それ故、もし日蓮が出現して大難に遭わなければ、仏語は虚妄になるであろう。
 非難して言う。あなた(=大聖人)は大慢の法師であって、その慢心ぶりは大天(=釈尊滅後100年ごろ、当時一つであった仏教教団における上座部と大衆部の分裂と抗争の原因をつくったとされるインドの論師)よりもひどく、四禅比丘(=増上慢を起こし生身で無間地獄に落ちたといわれる釈尊の弟子)を超えていると思うが、いかがだろうか。
 答えて言う。あなたがこの日蓮を軽蔑する重罪こそ、提婆達多の犯した逆罪に過ぎ、無垢論師(=小乗に執着し大乗を滅ぼすと誓ったインドの小乗の論師)の罪にも超えている。私(=大聖人)の言葉は大慢に似ているが、それは仏の未来記を証明し、仏の実語を顕すためである。
 しかしながら、日本国中において、日蓮を除いてほかに、誰を選び出して法華経の行者と言うことができようか。
 あなたは日蓮を誹謗しようとして、仏の未来記を虚妄にしている。それこそまさに大悪人ではないか。

挿絵

解説

★法華経の経文を身読

 「末法の法華経の行者」とは一体誰か――。法華経では、〝仏滅後、法華経の行者に難が起こる〟と説かれている。この経文と符合し、末法に大難を受けられたのは、日蓮大聖人をおいて他にいない。大聖人は本抄で、御自身が法華経の経文通りに迫害を受けてきた事実を通して、大聖人こそ末法における法華経の行者であることを示される。
 はじめに「何を根拠として、大聖人が末法の初めの法華経の行者であるということを知ることができるのであろうか」との問いが立てられ、その答えとして、法華経の経文が挙げられている。重要なことは、それらの文が、全て大聖人が現実に遭われた法難の様相に符合していることである。
 最初に引用されている法師品第10で説かれる「況滅度後」の文は、釈尊滅後、末法の法華経の行者は釈尊が受けた難よりも、さらに大きな難に遭うことを示している。権力による二度の流罪、あるいは竜の口の法難など、大聖人の難が釈尊の難をはるかに超えるものであったことは言うまでもない。
 次の「諸の無智の人有って悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」と「数数擯出せられん」は、いずれも三類の強敵が法華経の行者にいかなる迫害を加えるかを説いた勧持品第13の一節。「諸の無智の人有って……」は、三類の強敵のうちの俗衆増上慢について述べられた部分である。「悪口罵詈」「及加刀杖」との経文のとおり、大聖人は万人から謗られ、「小松原の法難」「竜の口の法難」では刀の難に遭われた。
 同じく「数数擯出せられん」の「擯出」とは、王などの権力者によって所を追われることであり、大聖人にあっては特に流罪を意味する。「開目抄」では、「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ」(御書200㌻)と、二度の「王難」、すなわち伊豆流罪と佐渡流罪に遭われたと仰せである。
 また安楽行品第14の「一切世間怨多くして信じ難し」の文は、法華経が難信難解であるがゆえに、あらゆる衆生が法華経の行者に対して怨嫉を起こし、誹謗するという意味である。さらに常不軽菩薩品第20の「杖木瓦石……」の文のとおり、竜の口の法難の直前に逮捕された時、大聖人は法華経の第5の巻で顔を打たれた(杖の難)。
 最後に引かれている薬王品第23の「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃茶等其の便りを得ん」とは、広宣流布を断絶させるために悪魔・魔民等が国王等の身に入り、さまざまな形で法華経の行者の弘通を妨げるということを示している。

★仏語を虚妄にしない

 これらの法華経の経文を明鏡として、日本国の人々を映し出してみると、経文の通りに難を受けたのは、日本においては大聖人お一人であり、もし大聖人がいなければ、これらの仏の言葉は虚妄になってしまうではないか、と断言されている。大聖人が法華経に記された諸々の難に遭われたという事実は、大聖人こそ末法の法華経の行者であることの具体的・客観的な証明である。
 こうした大聖人の断言に対して、自分だけが法華経の文を身で読んでいるというのは慢心の極みである、と非難する者の言葉を挙げられている。
 これは佐渡流罪が行われた当時、他宗はもちろん、世間の人から起きていた疑問であろう。この疑問に対して大聖人は、そのように断言するのは、大慢心のように見えるであろうが、決してそうではない。「仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり」(御書507㌻)と仰せのように、仏の予言が正しかったことを人々に知らしめるためであり、自身を特別視するエゴなどでは決してないと述べられている。
 慢心とは自分を特別視することである。しかし、大聖人は御自身のためでなく、仏の言葉が真実であることを明らかにするために戦われている。大聖人の主張を「慢」と捉えるのは、大聖人の「正法を惜む心」(同957㌻)を知らない浅見と言わざるをえない。
 むしろ、経文を身読された大聖人を大慢心とののしるのは、結果的に大聖人を謗ることで仏記を虚妄にしようという働きとなる。それこそが、提婆達多や無垢論師を超える「大悪人」であると痛烈に破折されている。大聖人の御出現がなければ、仏法は虚妄になるとの大確信が示されているのである。

★慈悲の心で民衆救済

 大聖人は、経文の通りの迫害を受け、現実に三類の強敵を引き起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされた。広宣流布の途上には迫害がつきものである。妙法弘通によって起こる迫害や三類の強敵の出現は、法華経の行者の実践が正しいことの証しにほかならない。
 かつて戸田第2代会長は、三類の強敵の現れ方を卑近な例を用いてこう語った。
 「近所のおばさんが、ぐずぐず言うのが俗衆増上慢。坊主が、ぐずぐず言うのが道門増上慢。あの人は日本で一番偉い人だと世間から思われている人が、国家権力と結託して、法華経の行者に迫害を加えるのが僭聖増上慢」と。
 現代においても広宣流布を進めようとすれば、必ずそれを阻もうとする働きが現れる。無理解や偏見による非難や中傷を受けることもあるだろう。しかし、その時こそ勇んで正義を叫び、真実を語り抜いていきたい。
 池田名誉会長はつづっている。
 「『難を忍び』とは、決して一方的な受け身の姿ではありません。末法は『悪』が強い時代です。その悪を破り、人々を目覚めさせる使命を自覚した人は、誰であれ、難と戦い続ける覚悟を必要とするからです。その根底には、末法の人々に謗法の道を歩ませてはならないという厳父の慈悲があります。その厳愛の心こそが、末法の民衆救済に直結します」(『開目抄講義』)
 末法の民衆救済に生き抜く私たちは、皆が偉大な使命を持っている。後継の青年部が、今こそ時代変革の先頭に立つ時である。栄光の「5・3」へ、眼前の一人の友の悩みに耳を傾け、同苦し、励ましを送りながら、人間共和の大連帯を構築する対話を広げていきたい。

(創価新報2014年4月16日号)