青年部年間拝読御書

第2章 三千塵点劫を挙げて生命の流転を説く(御書1079ページ7行目~1080ページ3行目)<br />不退転の信心で勝利の実証を!

青年部拝読御書「兄弟抄」研さんのために②第2章 三千塵点劫を挙げて生命の流転を説く(御書1079ページ7行目~1080ページ3行目)
不退転の信心で勝利の実証を!

 青年部拝読御書「兄弟抄」を学ぶ連載の第2回は、第2章を解説。法華経を捨てる罪の重大さについて学ぶ。

御文

   別して経文に入って此れを見奉れば二十の大事あり、第一第二の大事は三千塵点劫五百塵点劫と
 申す二つの法門なり(御書1079ページ)

第2章の通解

  次に、別して法華経の経文についてみるならば、一切経より勝れた二十の大事な法門がある。その中で、第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門である。その三千塵点劫という法門は第三の巻・化城喩品というところに出ている。この三千大千世界をすりつぶして微塵となし、東の方に向かって、千の三千大千世界を過ぎてその一つの塵を落とし、また千の三千大千世界を過ぎて一つの塵を落とし、このようにして三千大千世界の塵をことごとく落とし果たした。さて、その後、塵を落とした三千大千世界と、落とさない三千大千世界とを一緒に束ねてまた塵となし、この諸々の塵をもって並べて一塵を一劫として経尽くしては、また同じように始め、終わればまた始めるというように劫を重ねていき、このようにして以上の無数の塵の数だけの劫を尽くしたとき、これを三千塵点劫というのである。今、三周の声聞といって舎利弗・迦葉・阿難・羅云(羅■<目に侯>羅)などという人々は、過去遠々劫の三千塵点劫のその昔に大通智勝仏という仏の十六番目の王子である菩薩(釈尊)がおられ、その菩薩より法華経を習ったのであるが、途中、悪縁にだまされて法華経を捨てる心を起こしてしまった。このようにしてあるいは華厳経へ堕ち、あるいは般若経に堕ち、あるいは大集経へ堕ち、あるいは涅槃経に堕ち、あるいは大日経、あるいは深密経、あるいは観無量義経へ堕ち、あるいは阿含小乗経へ堕ちるなどしているうちに次第に堕ちていって、後には人界・天界の善根に堕ち、さらには、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣に堕ちてしまったのである。このようにして堕ちていくうちに、三千塵点劫の間、多くは無間地獄に生じ、少しは他の七大地獄に生じ、ときたまは一百余りの地獄、まれには餓鬼・畜生・修羅などに生まれ、大塵点劫などの長い期間を経て、また人界・天界に生まれたのである。

挿絵

解説

  日蓮大聖人は本章で、法華経が諸経に勝れる理由として三千塵点劫・五百塵点劫の法門を挙げられつつ、悪縁にだまされて法華経を捨ててしまう罪の重大さを示されている。

挿絵

「三・五の二法」

  一切経より法華経が勝れていることの根拠として、二十の大事の法門がある。その中でも、第一、第二の大事が「三千塵点劫」「五百塵点劫」という二つの法門であると大聖人は仰せである。
 「三千塵点劫」とは、三千大千世界の国土を粉々にすりつぶして微塵にし、千の国土を過ぎるごとに、その微塵を一粒ずつ落としていく。
 全ての塵を置き終えたところで、塵を置いた国も、置かなかった国も、全て再びすりつぶして塵にし、その塵の一粒を一劫とする(劫は長遠な時間の単位)。
 「五百塵点劫」とは、五百千万億那由佗阿僧祇という膨大な数の三千大千世界の国土を粉々にすりつぶして微塵にし、五百千万億那由佗阿僧祇という数の国を過ぎるごとに、その塵を一粒ずつ落としていく。
 そして、全ての塵を置き終えたところで、塵を置いた国も、置かなかった国も、全て再びすりつぶして塵にし、その塵の一粒を一劫とする。
 大聖人は、この「三・五の二法」を、仏と衆生との結縁の長遠を明かしたものとして示されている。
 一方、そうした長遠な過去に結縁したにもかかわらず、法華経の信を捨てて退転し、釈尊在世にいたるまで生死流転してきたのが声聞たちの姿だとも指摘されている。
 つまり、本抄では、法華経を捨てる罪報がどれほど大きいかを池上兄弟に示すために、この法門を挙げられたと拝される。

法華不信が流転の原因

  大聖人は、法華経化城喩品第7に説かれる三千塵点劫の法門を通し、法華経を捨てる罪による生死流転の相を明かされている。退転してしまうことで、迷いの人生を繰り返し漂っていくことになるというのである。
 そして、その退転のプロセスを、「悪縁→法華経を捨てる→余経に堕ちる→流転」と示されている。すなわち、法華経を捨てるといっても、一挙に悪道に堕ちるのではなく、まずそれに近い余経へ堕ちるとされている。これは、結局、諸宗の人師を悪縁とするからにほかならない。
 言い換えれば、大聖人は、これら諸宗の人師という悪縁に紛動されるところに、退転の根本的原因があると教えられているのである。
 そして、「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(御書232ページ)と仰せのように、法華経を捨てることは、究極的には「地獄の業」となることを知らねばならない。
 では、退転の罪による流転の一因は、いかなるものであろうか。
 その根本的な原因は、「不信の故に三悪道に堕す可きなり」(同721ページ)と説かれるように、法華不信である。そのために、法華経から離れ、生死の流転を繰り返してしまうのだ。
 宗仲・宗長の兄弟は大聖人のご指導通りに信心を貫き、父・康光は、いったんは勘当を解いたが、後に再度、宗仲を勘当する。しかし、大聖人の渾身の激励を受けた兄弟は、この難も見事に乗り越えて、弘安元年には父も仏法に帰依した。
 池上兄弟は、「父による反対」という一つの事例を通し、信仰途上に起こった難を乗り越える姿を示した点で、尊い模範となったのである。
 とともに、潔い決意に立ち不退転の信心を貫いていくならば、どんな敵も味方にすることができ、いかなる逆境をも打ち破ることができるのだと、私たちに身をもって示してくれている。 (創価新報2016年11月16日号)