青年部年間拝読御書

第3章 法華誹謗の罪を説く(御書1080ページ4行目~18行目)<br />正義の師と共に歓喜の劇綴れ!

青年部拝読御書「兄弟抄」研さんのために③第3章 法華誹謗の罪を説く(御書1080ページ4行目~18行目)
正義の師と共に歓喜の劇綴れ!

 青年部拝読御書「兄弟抄」を研さんする連載の第3回は、第3章を解説。退転のために悪道を流転する罪が五逆罪よりもはるかに重いこと、法華経を経文通りに説く人に巡り合うのが難しいことを学ぶ。

御文

  設い一眼の亀の浮木には値うとも・はちすのいとをもって須弥山をば虚空にかくとも法華経を経のごとく説く人にあひがたし(御書1080ページ)

第3章の通解

  それゆえ、法華経第二の巻、譬喩品には「つねに地獄に居ることは、あたかも園観に遊んでいるようにあたりまえとなり、また、他の餓鬼、畜生、修羅の悪道がわが家のようになってしまう」等と。十悪を犯した者は、等活地獄、黒縄地獄などという地獄に堕ちて五百生、あるいは一千歳を経る。五逆罪を作った人は無間地獄に堕ちて一中劫もの長い期間を過ぎて後、また人界に生まれてくる。ところがいかなることであろうか、法華経を捨てる人は、退転するときは、それほど父母等を殺すことのように重大な罪とは思わないけれども、もっとも重い無間地獄に堕ちて多劫を過ごすのである。
 たとえ、父母を一人・二人・十人・百人・千人・万人・十万人・百万人・億万人と殺したとしても、どうして地獄に堕ちて三千塵点劫という長い間を過ぎることがあろうか。また、一仏・二仏・十仏・百仏・千仏・万仏、そして億万仏を殺したとしても、どうして無間地獄に堕ちて五百塵点劫を過ぎることがあろうか。ところが法華経を捨てた罪によって、三周の声聞が三千塵点劫を経、諸大菩薩が五百塵点劫を経たことは重大なことに思われる。結局、たとえば拳をもって虚空を打てば拳は痛くない。石を打てば拳は痛い。悪人を殺すのは罪が浅く、善人を殺すのは罪が深い。あるいは他人を殺すのは拳で泥を打つようなものである。父母を殺すのは拳で石を打つようなものである。鹿を吠える犬は頭が割れるようなことはない。師子を吠える犬は腸が腐る。日月を?む修羅は頭が七分にわれ、仏を打った提婆達多は大地がわれて無間地獄に入った。このように罪を犯した所対によって罪の軽重は異なるのである。
 それゆえこの法華経は一切の諸仏の眼目であり、教主釈尊の本師である。よって、法華経の一字一点でも捨てる人があれば、その人は千万の父母を殺した罪よりも重罪であり、十方の仏の身から血を出す罪にも超えているゆえに、三千塵点劫、五百塵点劫もの長い間、悪道において過ごしたのである。この法華経については、しばらく置く。またこの経を経文のごとく説く人に値うことは難しいのである。たとえ一眼の亀が栴檀の浮木に値うことがあっても、蓮の糸で須弥山を虚空に懸けることができても、法華経を経文のごとく説く人には値いがたい。

挿絵

解説

  前章では、法華経退転の罪について学んだ。本章の冒頭で日蓮大聖人は、その罪がいかに大きいかを、十悪・五逆罪の結果と比べることで明らかにされている。十悪とは、身口意にわたる悪業のうち、最も甚しい十種をあげたもの。身の三悪(殺生・偸盗・邪婬)、口の四悪(妄語・綺語・悪口・両舌)、意の三悪(貧欲・瞋恚・愚癡)のことをいう。
 『華厳経』「十地品」(『十地経』・『十住経』)では、十悪のそれぞれの果報は、三悪道に堕するものとされている。それを本抄では、「十悪をつくる人は等活黒繩なんど申す地獄に堕ちて五百生或は一千歳を経」と指摘している。
 五逆罪とは、「一に殺父・二に殺母・三に殺阿羅漢・四に出仏身血・五に破和合僧」(御書447ページ)の五つである。本抄では、その罪の大きさを「五逆をつくれる人は無間地獄に堕ちて一中劫を経て後は又かへりて生ず」と説かれている。
 五逆罪を十悪と比較するならば、「法蓮抄」に「八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処なり、第八の無間地獄は五逆と不孝と誹謗との三人の住処なり」(同1042ページ)と説かれるように、五逆罪は十悪の罪に比べて、はるかに重い罪とされる。

挿絵

退転の罪を五逆罪に比す

  その上で、「法華経をすつる人は・すつる時はさしも父母を殺すなんどのやうにをびただしくは・みへ候はねども無間地獄に堕ちては多劫を経候」――法華経を捨てる罪は、これらの罪とも比較にならないほど重い罪であることを示される。そして、法華経を捨てる罪による三千塵点劫・五百塵点劫の流転という果報と、十悪・五逆罪による果報を比較され、さらに「所対によりて罪の軽重はありけるなり」ということを述べられて、世間法上の罪や仏法上のさまざまな例を引かれる。
 「所対によりて」とは、同じ行為でも、その対象によって罪に軽重がある、ということである。例えば、自分のものではない宝石を持ち出した場合と、ティッシュペーパーを一枚持ち出した場合とでは、どちらも罪ではあるが、その対象の違いゆえに、刑の軽重には差が出てくるだろう。同様に、同じ誹謗でも、至尊の法華経を誹謗することは最大の罪になる。本抄で大聖人は、このことを、さまざまな譬えを用いて、池上兄弟に分かりやすく説かれているのである。
 大聖人は「この法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり」と示されている。ゆえに、法華経のたとえ一字・一点でも「すつる」(退転する)ことは、最も尊いものに背くことになる。その罪の重さを、「千万の父母を殺せる罪にもすぎ十方の仏の身より血を出す罪にもこへて」と説かれ、三千塵点劫、五百塵点劫もの間、無間地獄に堕ちなければならないと指摘されているのである。

巡り合い難き真の行者

  以上のように、「法」に対する罪について述べられた後、大聖人は「法」から「人」へと着眼点を変えられる。すなわち、この法華経を「経のごとく説く人」(法華経の肝心を明らかにし、その本意を説く人。また、身をもって実践する如説修行の行者)には値いがたいと述べられる。「経のごとく説く人」とは、いうまでもなく、大聖人御自身のことである。
 そして、こうした真の行者と巡り合うことが、いかにまれであるかを、「一眼の亀」などの譬えを通して教えられる。
 ――大海の、八万由旬という深い海底に、片目の亀がいた。この亀は、腹は鉄を焼いたように熱く、背は雪山のように寒かった。亀の願いは、熱い腹を木の穴に入れて冷やし、寒い甲羅を天日にあてて温めること。だが、亀が水面に出られるのは、千年に一度。しかも願いをかなえるには、大海の中で、ちょうど腹に合うくぼみのある、赤栴檀という香木の浮木に巡り合わねばならない。つまり、片目で真っすぐに泳ぐこともできない亀が願いをかなえることは、不可能といっていいほど困難なことであった。
 大聖人は、こうした譬えで、池上兄弟が末法において大聖人の弟子となったことは、一眼の亀が浮木に出合ったようなものだと示された。兄弟に対して、そのことを深く自覚し、不退転の決意に立ちなさいと、大慈悲をもって促されたのである。
 池田先生は語っている。「五濁悪世の娑婆世界にあって、大聖人と巡りあえることが、どれほど稀なことであるのか。それとともに、大聖人滅後の後世の人々にとって、法華経の真髄である妙法を、大聖人の御書の通りに弘通する、仏法の正しき指導者に巡りあうことも、これまた至難です」(『勝利の経典「御書」に学ぶ』)
 世界一の師と巡り合い、共に戦える喜びに燃え、「世界広布新時代 青年拡大の年」の本年も走り抜きたい。同志のもとへ、友のもとへと! (創価新報2017年1月18日号)