青年部年間拝読御書

第2章 万物は妙法蓮華経の生死<br />正法に生き抜く歓喜の人生を

青年部拝読御書「生死一大事血脈抄」研鑽のために②第2章 万物は妙法蓮華経の生死
正法に生き抜く歓喜の人生を

 青年部拝読御書「生死一大事血脈抄」を学ぶ連載の第2回は、第2章を解説。法華経が一切衆生の生死の根本であることを学ぶ。
 ここでは、妙法蓮華経が一切衆生の生死の根本であることを明かされている。これによって、妙法蓮華経が生死一大事血脈の法であることがより明確になる。

御文

  妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文、地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり(御書1336㌻2行目~1337㌻2行目)

通解

  妙法の「妙」とは「死」であり、「法」とは「生」である。この生と死の二つの法が十界の当体である。また、これを当体蓮華ともいうのである。
 天台大師は「十界の依報と正報の因果は、ことごとく蓮華の法であることを知るべきである」(法華玄義)と言っている。この釈で「依報と正報」と言っているのは、生死のことである。生死があれば、その因果もまた蓮華の法であることは明らかである。
 伝教大師は「生と死の二つの法は、一心の妙なる働きである。有と無との二つの道は、本覚の仏に具わる真実の徳性である」と述べている。
 天地、陰陽、日月、五星、地獄から仏果に至るまで、生死の二法でないものはない。
 このように、生死もただ妙法蓮華経の生死なのである。天台大師の『摩訶止観』に「(事物が)生起するのは法性の生起であり、消滅するのもまた法性の消滅である」とある。
 (宝塔に並んで座っている)釈迦・多宝の二仏も、生と死の二つの法を表しているのである。

挿絵

十界の衆生は妙法の当体

  まず「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり」と仰せられ、生死を現す十界の一切衆生の生命が総じて妙法蓮華経の当体であることを示されている。
 「妙は死法は生なり」とは、妙法は生死の二法そのものであるということである。生死の二法とは、「生と死という二つの在り方」という意味である。
 仏法においては、生と死は別物ではない。万物は生じては滅していく。「生」として顕在化し、「死」として潜在化しつつ、生死生死と無始無終に繰り返していく。全ての生命、全ての現象が、妙法の現す生と死のリズムの中にある。それはあたかも大海原に波が起こり、その波が大海原に返っていくようなものであるといえる。
 言うまでもなく、大海原が「妙法」であり、波が「個々の生命」「個々の現象」に当たる。そして、波が大海原から起こり、大海原に返っていくことが「生」と「死」に当たる。
 なぜ妙が死で法が生になるのかといえば、法というのは現実に現れている現象を指しているから生命が顕現している状態、つまり生に当たる。それに対して死とは人間の思索では捉えることのできない不可思議な状態であるから妙に当たる。妙という字に不可思議という意味がある。
 いずれにしても、全ての生命はことごとく、生と死の二つの状態を繰り返している。生と死の二法に当てはまらない存在は何一つとしてない。その生と死が妙法の現象の一つである以上、十界の全ての衆生は妙法という大いなる法の現れである。ゆえに、「生死の二法が十界の当体なり」と仰せなのである。
 生死の二法を具えた妙法という大いなる法から、種々の因果、種々の現象、種々の生命、種々の事物が現れる。地獄から仏までの十界の違いは、現れ方の違いにすぎない。

挿絵

生命に具わる「蓮華」の法

  次に、生死の当体である十界の衆生の生命について「此れを当体蓮華とも云うなり」と仰せである。
 「当体蓮華」とは、「譬喩蓮華」に対して用いられる表現だが、十界の衆生の生死の当体(生命)に具わる因果の法が、因果?時という不可思議な法であることを蓮華と名付けるのである。この当体蓮華の因果?時という在り方は、草花の蓮華の特質によって表すことができる。
 普通の植物は花が咲いた後に実がなるが、蓮は花が咲いた時には既に実がなっている。そこで花を原因、実を結果とすれば、開花とともに実がなっている蓮は十界の衆生の生死の当体に因果が同時に具わっていることの譬喩として用いることができる。
 譬喩として用いる草花の蓮華を「譬喩蓮華」というのに対して、譬えられる因果一体の不可思議な生命そのものを「当体蓮華」という。すなわち、十界の衆生の生命の当体が妙法であり、蓮華の法なのである。
 池田名誉会長は、『生死一大事血脈抄講義』の中で、当体蓮華の「蓮華」とは、つまり十界互具のことであり、特に、今の一瞬の生命に、成仏の因である九界も、果である仏界も、同時に具わっていることを譬えているとし、当体蓮華の観点に立てば、生死を繰り返す生命そのものは、本来的には善でも悪でもなく、縁によって、迷いの状態にもなれば、悟りの状態にもなり、地獄界から仏界まで、あらゆる境涯を体現するのが、生命の本然的な姿であると述べている。

挿絵

天台・伝教の釈を引く

  大聖人は、以上のことをさらに天台・伝教の言葉を挙げて論証されている。
 まず天台大師の「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」との釈を引かれる。
 「依正」とは、生命活動を営んでいく主体(正報)と、その生命活動を営む依りどころとなる環境(依報)をいう。現実に存在する生命を、空間的な広がりの中で捉えたのが依正であるとすれば、時間的な流れの中で捉えたのが生死となる。それゆえに大聖人は、「依正と云うは生死なり」と仰せられているのだと拝することができる。
 また、「依正」とも「生死」とも捉えられる生命には、「因果」の法が具わっている。その「依正の因果」は「蓮華の法」、すなわち因果倶時であると論じているのである。
 依報つまり環境に起こる種々の現象の因果も、正報つまり主体の生命において起こる身心の種々の因果も、また環境と主体の間に起こる因果も含めて、要するに全ては、因果?時の蓮華の法である妙法から現れる。生命活動の根本は必ず因果?時の妙法であるので、「悉く是れ蓮華の法なり」とあるのである。
 また、このことを大聖人は「生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし」と言われている。
 次に伝教大師の「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」の文(天台法華宗牛頭法門要纂)を挙げられている。
 「生死の二法は一心の妙用」とは、生と死は妙法の現す不思議な働きだという意味である。「一心」とは一瞬の生命あるいは生命の究極という意味であり、要するに妙法蓮華経のことである。私たちがこの世に生まれ、死んでいくのも、妙法蓮華経の不可思議な働きなのである。
 また「有無の二道は本覚の真徳」とあるが、「有無の二道」とは有と無の二つの在り方をとるあらゆる現象のことであり、「本覚」とは簡単に言えば、生命に本来具わる真実の悟り、ありのままの悟りという意味で、要するに妙法の悟りをいう。この世に有ることも、無くなることも、ありのままの悟りの法である妙法に具わっている働きなのである。
 すなわち、万物は「生死の二法」「有無の二道」を示していくけれども、その体は常住不変の妙法蓮華経そのものである。
 この「一心」も「本覚」も、具体的には妙法を信ずる信心の一念以外にはない。したがって、この伝教の言葉を実践的に解釈すれば、変化が絶えないあらゆる現象も、妙法を信ずる一念で自在に乗り切っていけるということである。

挿絵

一切の事象は法性の起滅

  以上の天台・伝教の釈に基づき大聖人は、「天地・陰陽・日月・五星」等の万物・万象も、また「地獄・乃至仏果」すなわち十界の生命の働きも、全て「生死の二法」でないものはないとされ、これら万物の示す生死は、所詮「妙法蓮華経の生死」、つまり〝妙法蓮華経があらわすところの生死〟であると結論されている。
 また、この結論の証明として、さらに天台大師の「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」の文を引かれる。
 「法性」とは妙法蓮華経ということである。一切の事物・事象が生滅流転する現象も、全て妙法蓮華経の起滅にほかならないという意である。「起」は生であり「滅」は死である。ゆえに「法性の起・法性の滅」とは、妙法蓮華経の生死を指すのである。

挿絵

釈迦・多宝が示す境智冥合

  本章の最後に「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」と仰せである。法華経の虚空会の儀式で、宝塔の中で並座する釈迦・多宝の二仏も、やはり妙法蓮華経の生死を表しているのである。
 現実の上で教えを説き、人々を救う働きをしている釈迦仏は「生」であり、法を説かない過去の仏である多宝如来は「死」を表していると言える。
 名誉会長は、虚空会の宝塔で並座する釈迦・多宝の二仏について、五百塵点劫という久遠以来、この現実の娑婆世界に常住して妙法を説き続ける釈迦仏は、現象面としては「生から死へ」と様相を転じるさまを示し、遠い昔に成仏し入滅した古仏である多宝仏は、妙法の当体が「死から生へ」と転じる様相を象徴していると語っている。
 その上で、「いずれも、妙法を教え示すための生死です。そのために妙法の当体である生命に本来的に具わる生死を用いるのですから、釈迦・多宝の二仏の生死は、まさに『妙法の生死』といえるのです」と述べている。
 あらゆる生死は「妙法蓮華経の生死」である。したがって、釈迦・多宝が生死の二法であるということは、この二仏の本体が妙法蓮華経であるということである。
 言い換えれば、この二仏は妙法蓮華経の働きであることになる。妙法蓮華経は「体」=本体、釈迦・多宝は「用」=働き、という関係になる。
 また、二仏が妙法蓮華経の働きであることを別の角度で言うと、多宝仏が永遠の真理を表し、釈迦仏が永遠の真理を悟る究極の智慧を表しており、この二仏が並び座ったことは、永遠の真理と究極の智慧の一致、つまり境智冥合の真実の仏界が現れたことを意味する。
 この境智冥合の全体が南無妙法蓮華経である。
                                 ◇
 以上のことから、十界の生命の当体が妙法蓮華経であり、妙法蓮華経が生命の根本の大事であることが明らかになった。また、妙法蓮華経は釈迦・多宝の二仏の本体でもあり、妙法蓮華経こそ仏から衆生へと伝えられるべき生死一大事血脈の法なのである。
 妙法蓮華経という大いなる律動、宇宙生命ともいうべき大いなる生命が自分の生命の本体であると知った時、そして自分の生と死も妙法蓮華経の生と死であると捉えた時、生きることの煩わしさも、死ぬことの不安も乗り越えることができる。根本的な安心が得られ、生きる生命力、そして勇気と知恵を現していけるのである。 (創価新報2015年11月18日号)