青年部年間拝読御書

第3章 自身が妙法蓮華経の当体と確信する信心<br />生命の財宝積む広宣流布の実践

青年部拝読御書「生死一大事血脈抄」研鑽のために③第3章 自身が妙法蓮華経の当体と確信する信心
生命の財宝積む広宣流布の実践

 青年部拝読御書「生死一大事血脈抄」を学ぶ連載の第3回は第3章を解説。この章から第5章にかけて、日蓮門下が、南無妙法蓮華経をどう受持していくべきかについて学ぶ。

御文

  然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん浅■〈けものへんに爰〉浅■〈けものへんに爰〉、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。
 今日蓮が弟子檀那等・南無妙法蓮華経と唱えん程の者は・千仏の手を授け給はん事・譬えば■〈さかんむりに瓜2つ〉夕顔の手を出すが如くと思し食せ(御書1337㌻2行目~9行目)

通解

  したがって、久遠実成の釈尊と、万人が成仏するための法である法華経と、私たち衆生の三つは全く差別がないと理解し確信して、妙法蓮華経と唱えたてまつるところを「生死一大事の血脈」というのである。このことは、日蓮の弟子檀那らにとっての肝要である。法華経を持つとは、このことをいうのである。
 所詮、〝臨終は只今にある〟と覚って信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人のことを、普賢菩薩勧発品第28には「この人は寿命が終われば、千もの仏が手を差し伸べ、(死後への)恐怖を起こさせたり、悪道に堕とさせたりするようなことはしない」と説かれている。
 喜ばしいことに、一仏や二仏ではなく、また百仏や二百仏でもなく、千仏までも迎えに訪れ手を取ってくださるというのは、歓喜の涙を押えがたい。
 これに対し法華経不信の者は、譬喩品第3に「その人は命が終わって、阿鼻地獄に入るであろう」と説かれているので、きっと獄卒が迎えにきて、その手を取ることであろう。大変に痛ましいことである。十王にその罪を裁かれ、倶生神に責めたてられるにちがいない。
 今、日蓮の弟子檀那ら、南無妙法蓮華経と唱える者に千仏が手を差し伸べて迎えてくださるさまは、例えば瓜や夕顔の蔓がいくつも伸びてくるかのようであると思われるがよい。

挿絵

 この第3章および第4、5章では、衆生がどのような信心の姿勢に立ったときに生死一大事の血脈が通うか、ということに関して3点の大綱を示されていく。
 第3章では、その第一として「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」と仰せである。
 「久遠実成の釈尊」とは、五百塵点劫という計り知れない時間をさかのぼった昔に成仏して以来、この娑婆世界で衆生を救い続けている常住の仏である。この常住の仏こそ釈尊の本地であると法華経如来寿量品第16に説かれている。
 実はこの仏は、永遠の妙法蓮華経が持つ衆生救済の働きを表している。釈尊は、自分は宇宙根源の法である妙法蓮華経の現れにほかならないと悟って成仏し、その無始無終の妙法蓮華経と一体の、自身の仏界の生命を、久遠実成の仏として説いたと見ることができる。
 また、「皆成仏道の法華経」とは、万人の成仏のための法華経ということである。
 法華経以外の諸経では、二乗や女人や悪人は成仏できないとされてきた。だが法華経では、皆が平等に仏道を成就して成仏できることを明かしている。また、そのための根本法を説く。さらに、万人の成仏が仏の誓願であり、仏の本意であることを明かすとともに、万人の成仏のために永遠に戦い続ける仏が説かれる。菩薩についても、仏の大願を受け継いで万人の成仏のために戦う菩薩を強調している。生命の根本法としての妙法蓮華経こそが成仏の本因であるから、皆成仏道の法華経とは結局、「妙法蓮華経」そのものを指している。
 「我等衆生」の本体も妙法蓮華経にほかならないことは、前章に詳しく述べられた通りである。
 したがって、この三つは、生命の根本法である妙法蓮華経が仏・教え・衆生の生命の三つの次元に現れたものであり、妙法蓮華経を本体とする点では差別がない。
 真実の仏と真実の教えと我等衆生の三つが妙法蓮華経として平等であるということ、これが法華経の根本義である。
 それに対して爾前経は、基本的には差別の教えである。仏はわれわれ衆生とかけ離れた超越的な存在と見る。法華経はそのような差別を打ち破って、仏と衆生が平等であること、さらにいえば妙法を受持する衆生自身が仏であることを説いている。
 真実の仏と真実の教えと我等衆生が、究極的には妙法蓮華経の当体として差別がないことを、凡夫の身の上で実証したのが日蓮大聖人であられる。そして、その究極の妙法を南無妙法蓮華経として修行し、南無妙法蓮華経の御本尊として顕されたのである。
 したがって、大聖人の顕された南無妙法蓮華経の御本尊を信じて、大聖人と同じく南無妙法蓮華経を修行することで、凡夫の身に大聖人と同じ仏界の生命を顕すことが可能だ。
 このように、大聖人によって久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生の三つが無差別と悟る道が現れたと拝することができる。
 日寛上人は、〝一念三千の本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱えていけば、我が身が即ち一念三千の本尊であり、蓮祖聖人である〟と言われている。
 また「三つ全く差別無しと解りて」と仰せの「解る」とは、単に理解する、認識するということではない。釈尊と法華経と自分が一体であると言われても、そう簡単に理解できるものではない。この「解りて」とは、信による理解、即ち「信解」ということであり、実践して深く「確信」していくことである。
 成仏の法である妙法蓮華経を、自分のこととして主体的に信じて題目を唱えていくところに、生死一大事血脈が通う。「一生成仏抄」でも、題目を唱えても己心の外に法があると思えば妙法ではなくなってしまうと言われている(御書383㌻)。
 また、「我等衆生」と仰せのように自分だけではなく、全ての人が成仏できると信じて唱える題目でなければならない。これは具体的には、広宣流布の実践を貫く信心である。したがって、「一生成仏と広宣流布を目指す信心」で唱題するところに、生死一大事血脈が通うのである。
 池田SGI会長は『生死一大事血脈抄講義』の中で、「弟子檀那等の肝要」すなわち「弟子の道の根本」について、「仏の願いであり、日蓮大聖人の大願である広宣流布に生きることです。法華経の精神、すなわち、万人成仏の実践に生きることです。その中に『仏界の生死』の法が脈動するのです。それでこそ、真の意味で『法華経を持つ』といえるのです」と述べている。

一瞬を全力で生きる

  さらに、以上のような主体的な信心の姿勢の肝要として「臨終只今にあり」との覚悟を教えられている。この覚悟こそ、生死一大事血脈の法である妙法蓮華経を信ずるのにふさわしい姿勢なのである。
 「臨終只今にありと解りて」とは、死は厳粛な事実であり誰人も避けることはできない、という生命の真実の姿を見極めることである。この事実を自覚したとき、今、生きて真実の仏法を受持していることの重大さを感じ、そこに真剣な信心が生まれる。一日一日、一瞬一瞬に全生命をかけていくということが「臨終只今」なのだ。
 臨終は人生の総決算である。各人の人生の全てがこの一瞬に凝縮される。いかに権力をほしいままにし、巨万の富を貯えて名声を博しても、死の前には全て無力である。その臨終を、たとえ今、迎えたとしても何の悔いもない――。そのように言えるほど、真剣に精いっぱい生きているということが「臨終只今にあり」である。
 また、そのような真剣な姿勢で南無妙法蓮華経と唱えていく人は、必ず豊かな境涯を育み、何の不安もない歓喜の臨終を迎えることができると仰せである。
 大聖人は、只今臨終の覚悟で一筋に御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えていく人の臨終時の境地を、法華経勧発品第28の「是の人は命終して、千仏の手を授け、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたまうことを為」(法華経672㌻)との経文を引かれて示されている。
 今世で正法を信受し持ち抜いた人は、通常は恐怖・不安に満ちることが多い臨終時にも、千仏が手を差し伸べられて、絶対安心の境地となるとの意味である。言い換えれば、全宇宙のあらゆる働きが、その人の死後、来世の生命を守り、決して悪道に堕ちることはないとの御断言なのである。全てに守られながら、喜びのうちに安心しきって亡くなっていくことができるのだ。
 自分が有限な存在であることを自覚できるのは人間だけである。自分が、いつかは死んでいくという事実を知っていることが人間の特質であり、人間だけが宗教を持つ理由もまた、ここにある。限りある人生をどのように価値あるものにしていくかを考えるところに人間の尊厳があるとも言えるだろう。
 しかし、誰しもいつかは死ぬことを知っているからこそ、死から目をそらし、「まだ先のこと」と思って、死の不安を紛らわそうとする人も多い。そして「いつか頑張ろう」「これが終わったら」と思っているうちに、あっという間に年月は過ぎ去り、気が付いてみると、何一つ生命の財宝を積まないで、死に臨まなければならなくなってしまうのだ。
 戸田第2代会長は「本当は、死ぬときのために信心するのだ」と述べている。
 また池田SGI会長は、こう論じている。
 「何が確実といって、『死』ほど確実なものはない。だから、今、ただちに、三世永遠にわたる『心の財』を積むことです。その一番大事なことを『あと回し』にし、『先送り』して生きている人が人類の大半なのです」「『死』を意識することが、人生を高めることになる。『死』を自覚することによって、『永遠なるもの』を求め始めるからです。そして、この一瞬一瞬を大切に使おうと決意できる」(「法華経の智慧」『池田大作全集』第30巻481㌻)と。
 新たな年が始まった。「今から」「ここから」挑戦の日々を送りたい。

挿絵

池田SGI会長の講義から

 生命の奥底で深く納得するためには、不惜身命の実践が不可欠です。決定した信心で広宣流布のために戦ってこられた学会員の方々には、その戦いの中に「信解」が脈打っています。地涌の菩薩として、南無妙法蓮華経を弘める使命に生き、悔いなく戦い切っている姿に、すでに「久遠実成の釈尊」「皆成仏道の法華経」と全く等しい南無妙法蓮華経の仏界の大生命が涌現しているのです。(『生死一大事血脈抄講義』91~92㌻)
                                 ◇
 「臨終只今」の信心の本質は、魔に蕩かされたり、恐れおののいたりしないことです。そのために信心を奮い起こし、智慧と勇気と生命力を奮い起こして、魔と戦うことです。魔性と戦い、完全に勝利した人が「仏」です。言い換えれば、仏とは、究極の障魔である天子魔や死魔を乗り越えた存在であり、不死を得た存在に他なりません。(同109~110㌻) (創価新報2016年1月20日号)