青年部年間拝読御書

第7章 本化地涌の利益を示す<br />南無妙法蓮華経を弘める地涌の菩薩の使命

青年部拝読御書「生死一大事血脈抄」研鑽のために⑦第7章 本化地涌の利益を示す
南無妙法蓮華経を弘める地涌の菩薩の使命

 青年部拝読御書「生死一大事血脈抄」を研さんする連載の第7回は、第7章を解説。日蓮大聖人が顕し、弘められた南無妙法蓮華経こそが、生死一大事血脈の法であることを学ぶ。

御文

  殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴貴、此の文に委悉なり能く能く心得させ給へ、只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、火は焼照を以て行と為し・水は垢穢を浄るを以て行と為し・風は塵埃を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し・大地は草木を生ずるを以て行と為し・天は潤すを以て行と為す・妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり、上行菩薩・末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由・経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり(御書1338㌻3行目~8行目)

通解

  ことに、生死一大事の血脈相承についてのお尋ねは、先代未聞のことであり、まことに尊いことである。この手紙に詳しく記した通りである。よくよく心得ていきなさい。ただ、南無妙法蓮華経こそ釈迦・多宝が上行菩薩に血脈相承した法であると心得て修行していきなさい。
 火は物を焼き、かつ照らすことをもってその働きとなし、水は垢や穢れを清めることをもってその働きとなし、風は塵や埃を払うことをもってその働きとなし、また人や動物や草木の魂となることをもってその働きとなし、大地は草木を生ずることをもってその働きとなし、天は万物を潤すことをもってその働きとする。
 妙法蓮華経の五字もまた同じである。本化地涌の菩薩が人々に与える利益とは、これである。
 上行菩薩が末法の今の時に、この法門を弘めるために御出現されると経文に見えているが、どうであろうか。
 上行菩薩は出現されると考えるか、出現されないと考えるか。日蓮はまず、その上行菩薩が弘めるべき妙法をほぼ弘めているのである。

挿絵

 最蓮房が生死一大事血脈について質問したことは前代未聞のことであると賛嘆された上で、本抄の結論として、釈迦・多宝から上行菩薩に血脈相承された南無妙法蓮華経を修行すべきであるとされ、本化地涌の菩薩の利益を明かされている。
 「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」とは、「生死一大事血脈とは何か」という最蓮房の問いに対して、法華経の会座で釈迦・多宝から上行菩薩に血脈相承された法である南無妙法蓮華経を修行することこそ生死一大事血脈であると、実践の観点から結論されているのである。
 一切衆生を成仏せしめる根源の法が南無妙法蓮華経であり、釈迦・多宝も含めて全ての仏も南無妙法蓮華経によって成仏した。その南無妙法蓮華経を末法の人々のために顕し、弘めるのが上行菩薩の使命である。
 ゆえに、上行菩薩が弘める南無妙法蓮華経以外に絶対的幸福への道はないと確信して、実践していきなさいと言われている。
 池田SGI会長は、この御文について、「南無妙法蓮華経の修行といっても、上行菩薩が末法に出現して実践する通りの『師弟不二の修行』、そして、上行菩薩が説くままの『如説修行』でなければならない」と講義している。

慈悲の働きを人格・行動に現す

  次に、宇宙を構成する物質的要素である地水火風空の五大がそれぞれ固有の働き・役割をもっていることを示され、本化地涌の菩薩の利益を明かされている。
 「火は焼照を以て行と為し」とは、火(火大)は物を焼く、あるいは周囲を照らす、それが火の本然的にもつ働きであり、その働きによって一切のものを利益している。
 「水は垢穢を浄るを以て行と為し」とは、水(水大)は垢や穢れを清めるのが、その本然の働きだということである。
 「風は塵埃を払ふを以て行と為し」とは、風(風大)は塵や埃を払うのが、その働きであり、また「人畜草木の為に魂となる」ことも同様であるとされる。これは、古来、風は宇宙自然の生気、魂を吹き込むと考えられたことに依られたと思われる。
 「大地は草木を生ずるを以て行と為し」とは、大地(地大)は草木を生ずるのが本来もつ働きであることを示す。
 「天は潤すを以て行と為す」は、天は雨を降らし、地上に潤いを与えていくのが行であるということで、ここでいう「天」とは「空大」と同義であると考えられる。
 このように五大それぞれの固有の働きを示された上で、「妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり」と述べられている。
 これは、宇宙それ自体がもっている慈悲の働きこそ妙法蓮華経の働きの本質であり、地涌の菩薩は妙法の本有の力用をもって衆生を利益する菩薩ということである。
 生命に本来具わる慈悲の働きを人格・行動の上に現すのが、地涌の菩薩の利益の本質であるとの仰せと拝せられる。

大聖人こそが「上行」の出現

  次に、妙法にもとづく衆生利益の働きをもつ上行菩薩の末法出現を論じられている。
 すなわち「上行菩薩・末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由・経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり」と仰せである。この御文は、末法の御本仏である大聖人が上行菩薩の役割を担って出現されたことを事実の上に表現されたものである。
 法華経には地涌の菩薩の上首である上行菩薩が末法に出現して妙法を弘めると予言されている。それゆえに、上行菩薩は必ず末法に出現しなければならない。そうでなければ法華経自体が虚妄となってしまうからである。
 「日蓮先ず粗弘め候なり」とは、生死一大事血脈の法である妙法蓮華経を最初に顕し、弘めるという上行の使命を、大聖人がまず先駆を切って果たしたという意味である。大聖人が上行菩薩の戦いを担ったということは、大聖人こそが上行の出現であるということになる。
 このように仰せになることによって、まさに大聖人が顕し、弘められた南無妙法蓮華経こそが、生死一大事血脈の法であることになる。

挿絵

池田SGI会長の講義から

 全人類の成仏の実現――。これこそが生死一大事の血脈の本義です。この一点を外して、いかに法華経を読んでも、それは成仏の血脈を自ら閉ざすことに等しい。万人を仏にする主人公こそが地涌の菩薩です。ゆえに「我、地涌の菩薩なり」と自覚して、その使命の遂行に師と共に立ち上がらなければ、本当に法華経を身読したことにはなりません。(『生死一大事血脈抄講義』172㌻)
                                 ◇
 実践は仏法の生命線です。実践なき宗教は、観念の遊戯となります。血脈相承といっても、詮ずるところ、上行付嘱の法である南無妙法蓮華経を「如説修行」することが不可欠であることを教えられているのです。如説修行なき血脈相承などは絶対にありえません。(同175㌻) (創価新報2016年5月18日号)