青年部年間拝読御書

第8章 信心の血脈がなければ法華経も無益<br />創価の人間主義の前進を世界が待望

青年部拝読御書「生死一大事血脈抄」研鑽のために⑧=完第8章 信心の血脈がなければ法華経も無益
創価の人間主義の前進を世界が待望

 青年部拝読御書「生死一大事血脈抄」を研さんする連載の最終回は、第8章を解説する。

御文

  相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。
  文永九年壬申二月十一日
 桑門 日蓮 花押
   最蓮房上人御返事(御書1338㌻8行目~終わり)

通解

  よくよく心して強盛な大信力を起こして、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念しなさい。生死一大事の血脈をこれよりほかに決して求めてはならない。煩悩即菩提・生死即涅槃とは、このことである。
 信心の血脈がなければ、法華経を持っても無益である。詳しくは、また申し上げましょう。恐恐謹言。
  文永9年壬申2月11日
 桑門 日蓮 花押
   最蓮房上人御返事

挿絵

 生死一大事の血脈を受け継ぐ「正しき信心の要諦」を明かされている。
 生死一大事血脈といっても、「強盛の大信力」を奮い起こして、「臨終正念」を目指して南無妙法蓮華経と自行化他にわたって唱えること以外にないことを重ねて強調して、本抄を結ばれている。

「臨終正念」の姿勢

  「強盛の大信力を致して」と仰せのように、生死一大事血脈を受け継いでいくには、〝御本尊への祈りがかなわないわけがない〟と強く信ずる心を、自ら起こして、題目を唱え抜いていくことが大切である。
 「臨終正念」とは、臨終(死)に際しても、心を乱さず、正しい念慮(思い・考え)を保っていることで、特に臨終において信心の一念が乱れないことをいう。そのように信心を最後まで貫く姿自体が一生成仏なのである。
 信心の一念が揺るぎなく、妙法を信受できたことを無上の喜びとし、わが人生に悔いなしという満足し切った心境で、一生を終わる姿こそ「臨終正念」であるといえよう。
 ある意味では、人生の最後を臨終正念という見事な勝利の姿で飾ることが信心の目的であるともいえる。そのためにも「臨終只今にあり」(御書1337㌻)との覚悟で、日々の信心を深めていくことが大切になる。その信心の帰結として臨終正念がある。
 人生の最後の時まで信心を貫いていく決意で、また今、臨終を迎えても悔いがないという真剣な一念で戦っていくこと以外に、生死一大事血脈はないのである。

煩悩即菩提・生死即涅槃

  強盛な信心に立った時に、凡夫のわが身がそのまま妙法蓮華経の当体とあらわれ、あらゆる苦悩を悟りへと転じていくことができる。ゆえに「煩悩即菩提・生死即涅槃」とされているのである。
 「煩悩即菩提」とは、煩悩に支配されている衆生の生命に、成仏のための悟りの智慧(菩提)が現れることをいう。「生死即涅槃」とは、生死の苦しみに苛まれている衆生の身に、仏が成就した真の安楽の境地(涅槃)が顕現することを示している。
 「即」とあるが、「煩悩」と「菩提」は正反対のはたらきである。しかし、そのはたらきを示す生命そのものは同一である。「生死」と「涅槃」についても同様のことがいえる。
 では、なぜ同じ生命が一方で「煩悩」や「生死」を示し、他方で「菩提」や「涅槃」を示すのか。それは自身が本来、妙法の当体であると説く法華経を信じるか否かによる。御本尊への強い信心をもって題目を真剣に唱え、悩みに正面から挑戦していけば、希望と確信が生まれ、智慧が湧き、勇気の行動を起こすことができる。そうして悩みを乗り越え、わが身に大きな境涯を開いていくことが可能となるのである。
 池田SGI会長は述べている。
 「私たちは、悩みがあることで真剣に御本尊に祈っていくことができます。悩みに真剣に立ち向かっていこうとする一念が、自身の生命に内在する本源的な力をより強く涌現させていく。(中略)これを可能にするのが『因果■〈にんべんに具〉時の妙法』たる南無妙法蓮華経の力用です」

師弟に連なり広布を継承

  最後に「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」と戒められて、本抄を結ばれている。
 「信心の血脈」とは、法華経を身をもって読み、生死一大事血脈の法である南無妙法蓮華経を顕し、弘めてくださった御本仏・日蓮大聖人と直結することで流れ通うものである。信心によって、我ら衆生に御本仏と同じ仏界の生命が厳然と現れる。これ以外に末法の衆生が成仏する道はない。ゆえに信心の血脈がなければ「法華経を持つとも無益なり」と仰せなのである。
 大聖人は末法で法華経を持つ道として、題目と御本尊を弘められた。この題目も御本尊も信心の血脈がなければ全く無益になってしまう。
 題目については「一生成仏抄」に、「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり」(御書383㌻)とある通りである。
 御本尊の仏力・法力もまた、信心の中にこそあらわれるのであり、大聖人が仰せの信心がなければ無益になってしまう。「日女御前御返事」にも、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(中略)此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(同1244㌻)と記されている。
 創価の師弟は、日蓮仏法を現代社会に広宣流布しゆく実践を貫いてきた。そして、草創以来の学会員もまた、師と共に、この法華経の人間主義の系譜を継承してきた。
 SGI会長は学会員の使命と誇りをこう語り示している。
 「いよいよ世界広宣流布の燦然たる第二幕が開かれました。世界中に生死一大事の大法の血脈が流れ通う時代が到来しました。一切はこれからです。生死一大事の血脈を地球上に流れ通わし、誰もが『生も歓喜、死も歓喜』の境地に遊楽しゆく世界を目指していく。これ以上の『正しい人生』はありません。人類の境涯を常楽我浄へ高めていく創価の人間主義の前進を、世界が待望しています。創価の師弟の勝利を世界が見つめています」

挿絵

池田SGI会長の講義から

 日蓮大聖人が弘められた本因妙の仏法は、現実の人間において成仏の因果を成就するための教法です。どこまでも「目の前の一人」が根幹であり、「現実の一人」が大切なのです。その実践がなければ、どんなに立派な「血脈の法理」を論じても、それは無益な観念論にすぎないからです。
 それは同時に、日蓮仏法を実践する人自身にとっても、「自分の生命が必ず変わる」という自覚と確信が不可欠であることを意味しております。「生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」と仰せられているのは、どこまでも一人一人が唱題を根本に、現実に境涯を変革して、一生成仏を実現する本因妙の信心以外に、生死一大事血脈は存在しないからです。(『生死一大事血脈抄講義』207~208㌻)
                                 ◇
 妙法は絶対の人生勝利への宝の法です。一人一人が妙法を根幹に「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の凱歌の人生を歩む。その栄光が広がる中に、生死一大事の血脈が万人に流れ通う日蓮仏法の勝利の姿があるのです。(同219㌻) (創価新報2016年6月1日号)