青年部年間拝読御書

第1章 法華経は仏法の真髄(御書1079ページ1行目~6行目)<br />信心の実践に難は必然 歓喜を胸に乗り越えよ

青年部拝読御書「兄弟抄」研さんのために①第1章 法華経は仏法の真髄(御書1079ページ1行目~6行目)
信心の実践に難は必然 歓喜を胸に乗り越えよ

 「生死一大事血脈抄」に続く青年部拝読御書として、難を乗り越える信心について示された「兄弟抄」を、今号より連載していく。第1回は背景と大意、第1章を解説する。

御文

   夫れ法華経と申すは八万法蔵の肝心十二部経の骨髄なり(御書1079ページ)

第1章の通解

  法華経という経典は、八万法蔵の肝心、十二部経の骨髄である。三世の諸仏は、この法華経の教えを師として正覚(真の悟り)を開き、十方の仏陀は、この一仏乗の教え(法華経)を眼として人々を成仏へ導くのである。今、実際に、経蔵に入ってこの点について考えてみると、後漢時代の永平年間から唐代の終わりに至るまで、(インドから)中国に渡ってきた経典や論に二通りある。いわゆる旧訳の経典が五千四十八巻、新訳の経典が七千三百九十九巻である。これらの経典は、いずれもそれぞれの立場から「我こそ第一なり」と主張している。しかしながら、法華経とこれらの経典とを比べてみると、勝劣は天と地ほどの差があり、高低には雲泥の差がある。これらの経典を星々とすれば、法華経は月である。また、一切経をともしびやたいまつ、星や月とすれば、法華経は太陽である。これは、法華経と諸教を総体的に比較したものである。

挿絵

背景と大意

  「兄弟抄」は、日蓮大聖人が、武蔵国の池上(現在の東京都大田区池上)の門下である池上兄弟と、その夫人たちに送られたお手紙である。
 池上家は有力な工匠として鎌倉幕府に仕えており、兄・右衛門大夫(宗仲)と弟・兵衛志(宗長)の兄弟は、武蔵国の門下の中心として活躍していた。しかし、兄弟の父・左衛門大夫(康光)は、兄弟の信心に反対し、兄を勘当。その報告に対し、大聖人が認められたお手紙が本抄であり、最近の研究では建治2年(1276年)の御執筆と考えられている。
 本抄ではまず、法華経こそが最勝の経典であることを示され、法華経を捨てる罪の重さを述べられる。そして、法華経を説く人には巡り合い難いことを教えられ、法華経を信ずる人が恐れるべきものは、信仰を妨げる存在であり、難に遭うのは、第六天の魔王が取り付いた悪知識が、信心を妨害するゆえであることを明示されている。
 続いて、信心に励む者に難が競い起こる理由を述べられる。難に遭うのは、その人自身が、過去世の謗法の報いを現世に軽く受けて消滅させるためであるとの「転重軽受」の法門が説かれ、難は諸天善神が兄弟の信心を試すために与えた試練であると教えられる。さらに「三障四魔」が競い起こるのは、兄弟が妙法を実践し、信心を深めてきた証しであり、兄弟と夫人たちが団結して、信心根本に難を乗り越えていくよう励まされている。
 本抄を頂いた後、兄は2度目の勘当に遭うが、兄弟は大聖人の御指導通りに実践を貫き、父を入信に導いている。

挿絵

解説

  本抄を述作されたと考えられる建治2年(1276年)、大聖人は「今年は殊に仏法の邪正たださるべき年か」(御書893ページ)と記されている。正邪の決着をつけ、立正安国の道を確立しようとされる御決意を拝することができる。身延に入山された大聖人は、本門の弟子の育成と、末法万年にわたる民衆救済の大法を確立される戦いを開始されていた。
 文永11年(1274年)4月、佐渡流罪が赦免され、鎌倉に戻られた大聖人は、平左衛門尉頼綱ら幕府の重臣を相手に第3回の国主諫暁を行った。
 蒙古襲来の危機が迫るなか、幕府は真言を中心とする調伏の祈禱を盛んに行わせていた。大聖人は、真言による蒙古調伏の祈禱はかえって他国侵逼難を引き起こし、亡国の因となることを伝え、謗法の諸宗への帰依を止めて正法に帰依するよう訴えられた。
 命懸けの諫暁に対しても聞く耳を持とうとしない権力者に対し、大聖人は「三度いさめても聞かなければ去れ」との故事にならわれ、鎌倉を出て身延に入山される。大聖人の予言通り、この年の10月に蒙古が襲来している。
 当時、蒙古調伏を率先して行っていたのが、真言律宗の極楽寺良観であった。祈雨の勝負(文永8年)で大聖人に敗北して以来、恨みをつのらせていた良観は大聖人を亡き者にしようと幕府の有力者を扇動。竜の口で斬首させようと策謀し、佐渡へ流罪させている。
 国主諫暁を貫かれる大聖人に連なり、弟子たちは各地方で正義の主張を果敢に展開した。これに対し、良観ら大聖人を敵視する勢力は、中心門下の一人一人に迫害を加えることによって、教団の破壊を画策したのである。
                                 ◇
 池上兄弟は、建長8年(1256年)ごろ、四条金吾らと同時期に大聖人の門下になったと伝えられている。池上家は、工匠として幕府に仕えていたが、幕府の土木・建築事業は良観ら真言律宗が掌握していた。真言律宗では、刑期を終えた罪人などを土木工事の労働力として用いた。良観も、そうした人々を統括する活動に従事し、鎌倉の港湾修復や架橋・道路整備など、広範な土木事業を手掛けていたのである。
 兄・宗仲が勘当にあったのは、建長8年の入信からほぼ20年後。「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに」(同1095ページ)と述べられる通り、父・康光は極楽寺良観の信奉者であり、何らかの圧力を受けていた。
 鎌倉時代の武家社会における勘当とは家督相続権の?奪を意味し、単に親子の縁を切るということだけではなく、経済的基盤はもちろん、社会的立場も失うという、大変に厳しい仕打ちであった。
 一方、兄が勘当されるということは、弟にとって、父の意向に従って信心を捨てれば、家督を全て譲り受けられることにつながる。兄への勘当は、兄弟2人の信心を共に破ろうとする陰険なものであった。
 ゆえに大聖人は、特に弟の信心が動揺することを心配され、兄弟が直面する難は法華経を信仰するゆえの必然であり、難と戦うことが成仏への大道となると、さまざまな角度から激励をされるのである。

挿絵

法華経こそ最勝の経典

  勘当の報告を聞かれた大聖人は、即座に激励の筆を執られたのであろう。信心の正念場に立たされた池上兄弟に対し、大聖人は本抄をどう書き出されたのか。
 法華経は「八万法蔵」ともいわれる膨大な仏典の「肝心」であり、あらゆる教えの「骨髄」である。それだけではない。
 三世十方の諸仏は、例外なく、この法華経を師匠として成仏し、法華経の教えを説いて一切衆生を成仏に導いている――2人が受持する法華経の法門が、どれほど偉大な経典であるかを、まず断言されているのである。
 難に動揺すれば、信仰の確信をなくし、やがて信心の目的も見失ってしまう。大難に直面する2人だからこそ、大聖人は法華経を信じる本質的な意義から本抄を説き起こされた。
 法華経を持つことが無上の価値であることを実感させ、歓喜の念を燃え立たせることで、“法華経を実践するゆえに難は必定であり、それは必ず乗り越えられる”との大確信を伝えようとされたのだ。
 全宇宙のあらゆる仏が、妙法を悟って成仏することができた理由――その根本が、法華経である。別の御書には「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072ページ)、「法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり、十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり」(1316ページ)とも説かれる。それゆえ、成仏の根本である法華経を供養することは、あらゆる仏を供養することに等しく、計り知れない功徳があると大聖人は仰せになるのである。
 そして経蔵に入られた結論として、法華経と他の諸経との勝劣を光の大きさに譬えられ、「彼の経経は衆星の如く法華経は月の如し彼の経経は燈炬・星月の如く法華経は大日輪の如し」(1079ページ)と述べられる。
 弟が信心を捨てて家督相続権を受ければ、父に背くことにもならず、池上家も安泰となる。しかし、退転は根本の教えを捨てることであり、以後の御文で、法華経から退転する罪の大きさを論じられていくのである。 (創価新報2016年10月19日号)