創価の思想を学ぶ

第3回 師弟の薫陶㊤

第3回 師弟の薫陶㊤創価三代が築いた人間主義の大潮流(3)

不二の誓願で拡大の歴史を開け!
阿修羅のごとき闘争で恩師の苦境を一人支える

戸田先生が、事業の敗北、そして苦境のゆえに、創価学会理事長の辞任を余儀なくされたのは、昭和二十五年(一九五〇年)の八月のことである。
ひとたび進退窮まった姿を見るや、皆、恐れおののき、多くの幹部が浅ましく遁走していった。(中略)
私は誰も頼らず、ただ一人、固く固く心に決めた。
――この試練を何としても打開してみせる。一切を変毒為薬して、戸田先生に、必ず会長になっていただくのだ。(『随筆 師弟の光』〈永遠なれ 栄光の5月3日㊤〉)

挿絵

戸田第2代会長は当時、理事長として学会再建の指揮を執りながら、その経済的基盤も自身の事業で支えていた。
だが戦後の混乱の中で、1950年(昭和25年)には、経営する事業が破綻に至る。
一人また一人と社員も去っていき、学会内部では、この機に乗じて実権を握ろうとする邪悪な者も出てきた。
社員への給料も遅配が続き、冬になってもコートも買えない窮乏の中、若き池田名誉会長は一人、師を守った。
夜学も断念し、阿修羅のごとく戦い、働きに働いた。断固として師の活路を開くため、1日1万遍の唱題と丑寅勤行も実践していた。
一方、師は弟子の未来のために、早朝の個人授業を開始した。この鍛錬の日々を、感謝をもって「戸田大学」と呼び、全てを師に捧げたことを無上の誇りとした名誉会長に対し、後年、全世界の320を超す名門大学等から最高の栄誉が贈られるのである。
苦境の秋、名誉会長は日記に綴った。

仏法真実ならば、因果の理法また、厳しきことである。
十年後の、学会を、吾れを、見よ。(『若き日の日記』)

戸田第2代会長が誕生 広布の構想を弟子に託す

烈風の日々にあって、師弟は悠然と未来の構想をめぐらせた。聖教新聞の創刊も、創価大学の創立も、会館建設も、全てこの苦難の渦中に、師弟で語り合われたものである。
51年(同26年)2月、名誉会長の奮闘により、戸田会長は絶体絶命だった、信用組合の事業の窮地を脱した。
そして名誉会長を中心に会長推戴の声が広がり、5月3日、晴れ晴れと戸田第2代会長が誕生した。就任式の席上、戸田会長は、生涯の願業として会員75万世帯の達成を掲げた。
当時、まだ3000人ほどの小さな創価学会である。誰もが夢物語のようにこれを聞く中で、名誉会長だけは、自身の責務として、師と共に立ち上がった。孤立無援の苦境の中を戦い抜いた師弟にとって、師の大願は、そのまま弟子の誓願となった。
会長就任から2カ月を経た7月11日、東京・西神田にあった旧学会本部に約180人の青年が集い、男子部が結成される。名誉会長も、その一人としてその場の一隅にいた。
戸田会長は語った。

「今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。その方に、私は深く最敬礼をしてお祝い申し上げたい」(「随筆 我らの勝利の大道」〈若獅子よ 勝ちまくれ〉)

挿絵

一念のギアがかみ合えば勝利の大回転が始まる

師が会長に就任したあとも、その事業を完全に軌道に乗せ、師が自在に指揮を執れるよう、名誉会長は人知れず尽力を重ねた。
広布の舞台にあって、75万世帯という恩師の悲願の成就へ、その突破口を開いたのもまた名誉会長であった。
52年(同27年)2月には、蒲田支部の支部幹事として201世帯の弘教という拡大の金字塔を打ち立てた。これに触発され、以後、全国で折伏弘教の波が広がっていった。
25歳となった53年(同28年)には、男子第1部隊長に就任。1年間で部隊の陣容を4倍に迫るまでに拡大した。さらに文京支部長代理となって、低迷していた同支部を第一級の支部へと押し上げた。
54年(同29年)には、青年部の室長となり、初代の渉外部長としても、一切の外交戦・攻防戦の指揮にあたった。早朝も深夜も、名誉会長は、師に呼ばれれば隼のごとく駆けつけた。誰もが不可能と思う壁を、一人の青年が師のために命を賭して戦い、一つまた一つと打ち破っていったのである。

いかなる立場にあっても、若き私は、決然と勝利への固き決意を持っていた。
戸田先生は「大法弘通」そして「慈折広宣流布」の大指導者であられる。
その師の大願に応えることが弟子であると、私は明確に確信していた。
「華果成就御書」にいわく、「師弟相違せばなに事も成べからず」(御書900㌻) 
師弟の「一念のギア」がかみ合えば、無量無辺の力が生まれ、勝利の大回転が始まるのだ。
私は祈り抜き、祈り切った。戦い抜き、戦い切った。(『随筆 人間世紀の光』〈若き正義の英雄・男子部㊥〉)

(創価新報2012年3月7日付12面から転載)