創価の思想を学ぶ

第7回 平和への対話㊦

第7回 平和への対話㊦創価三代が築いた人間主義の大潮流(7)

正義の旗高く全人類に平和の種を
地球民族主義の構想実現へSGIが発足

 あの日、私は同志に語った。
 「地平線の彼方に、大聖人の仏法の太陽が昇り始めました。
 皆さん方はどうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種をまいて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」
  
 1975年(昭和50年)1月26日。米・グアム島に51カ国・地域の同志の代表が集い、SGI(創価学会インタナショナル)が結成された。
 前年、中ソの首脳と相次いで会見した池田名誉会長。年が明けた1月、米国で国連事務総長やキッシンジャー米国務長官と会見し、世界広布の原点の地・ハワイでの諸行事を終えてのグアム入りだった。
 対話の心、信義の心で、分断された世界を結びたい。恩師の語った「地球民族主義」の構想を実現したい――。師の遺命を果たさんとの間断なき行動の中で、SGIは誕生したのである。
 この年、3月にはトインビー博士との対談集『21世紀への対話』が刊行。4月には第3次訪中に出発し、鄧小平副首相や、北京に亡命中だったカンボジアのシアヌーク殿下と会見した。
 5月、ヨーロッパに飛んでローマクラブ創立者ペッチェイ博士やマルロー氏らと対談。そこからソ連(当時)に入ると、コスイギン首相と2度目の会見に臨んだ。また、名門モスクワ大学で「東西文化交流の新しい道」と題して講演を行う。
 その際、対話をもって世界に平和・文化・教育の橋を架ける名誉会長の思想と行動を高く評価していた同大学から、名誉博士号の称号が授与された。
 これが今日の338に及ぶ世界の最高学府から贈られた、名誉学術称号の第1号である。

挿絵

師弟の絆を結ぶ愛唱歌が方面・県などに次々と誕生

 一閻浮提広宣流布という御本仏の御遺命を実現せんと、死身弘法の精神で世界へ行動する名誉会長。
 その前進に立ちふさがるように、76年(同51年)頃から、一部マスコミによる悪質な学会攻撃が始まった。
 同年7月18日、名誉会長は自ら作詞・作曲した「人間革命の歌」を発表。
 師弟の魂が脈打つその歌詞に、全同志は勇気づけられ、広宣流布の誓いを新たにしたのである。
 その後、名誉会長と学会員を離間させ、会員の支配を企てた宗門の坊主らが、衣の権威を振りかざし、各地で公然と名誉会長と学会の批判を始めた。
 僧俗和合を願って赤誠の外護を尽くす学会員を、傲慢な坊主らは陰湿にいじめた。
 背後には、陰で坊主らを扇動し、彼らと結託して学会を牛耳ろうとする反逆者の謀略があった。
  
 恩師は、「創価学会の組織は、戸田の命よりも大事である!」と師子吼された。
 この至高の師弟の結合を、下劣な悪党どもに踏みにじられてなるものか!
 この渦中にあって、私は関西の歌「常勝の空」をはじめ、次々に方面・県などの愛唱歌を作っていった。(『随筆 栄光の朝』〈わが尊き同志に贈る歌㊤〉)
  
 反逆者と悪侶は、愚劣な週刊誌メディアと共謀して名誉会長を集中攻撃してきた。
 戸田会長は「第3代会長を守れば、広宣流布は必ずできる」と厳命した。だが、当時の学会首脳の中には、反逆者の謀略に乗せられて、宗門の権威に屈する惰弱な空気があった。
  
 ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。「私が会長を辞めれば、事態は収まるんだな」。
 沈痛な空気が流れた。やがて、だれかが口を開いた。
 「時の流れは逆らえません」
 沈黙が凍りついた。
 わが胸に、痛みが走った。
 (中略)
 しかし、時流とはなんだ! 問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。
 そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。(「随筆 新・人間革命」〈嵐の「4・24」〉、『池田大作全集』第129巻所収)
  
 79年(同54年)4月24日、名誉会長は第3代会長を辞任したのである。

挿絵

真実の同志と共に世界広布へ壮大な闘争を開始

 本来なら「七つの鐘」の総仕上げとなるはずだった同年5月3日。名誉会長は記念の本部総会に出席した。壇上には坊主らが並び、名誉会長を「先生」と呼ぶことも拍手することも禁じられた――。
 しかし師弟の絆は、いかなる謀略にも断たれることはなかった。
 終了後、会場となった創価大学の渡り廊下を歩く名誉会長のもとへ、幼子を抱えた婦人たちが「先生! 先生!」と大きな声をあげながら、駆け寄ってきた。
 「ありがとう、お元気で!」――名誉会長は大きく手を振って全力で励ましを送った。その胸中に、〝こういう尊い方々を、一体、誰が守っていくのか!〟との叫びがこだました。
 その後、名誉会長は創価大学から海が見える神奈川文化会館へ。その晩「共戦」の揮毫を認め、脇書には「真実の同志あるを信じつつ」と記した。そこから「世界広宣流布」への壮大な戦いを開始したのであった。
  
 第三代会長を辞任した直後の昭和五十四年五月五日。
 吹き荒れる迫害の烈風のなか、私は、ここ神奈川文化会館で筆を執り、「正義」の文字を認めた。そして、その脇に「われ一人正義の旗持つ也」と記したのである。
 何があろうと、正義は正義である。ゆえに、絶対に勝つのだ。愛する同志とともに、世界広布を断じて成し遂げるのだ――これが私の決意であった。(神奈川・静岡合同協議会でのスピーチ、『池田大作全集』第100巻所収)

(創価新報2012年7月4日付12面から転載)