法華経には、仏を「開道者(道を開く者)」と説かれている。幸福の大道、友情の大道、平和の大道を開いてこそ真の仏法者である。この道を開く力は、誠実にして真剣な行動しかない。(「随筆 新・人間革命」〈わが師と地球民族主義〉、『池田大作全集』第133巻所収)
1985年(昭和60年)春、池田名誉会長は青年代表団の団長として来日した42歳の胡錦濤国家主席(当時、中華全国青年連合会主席)と聖教新聞社で会見。 秋には41歳のインドのラジブ・ガンジー首相と東京・元赤坂の迎賓館で会談した。 戸田先生は、ご逝去の半年前、インドのネルー首相が来日した時には、〝一度、会って話してみたいものだ〟と言われていた。 そして、「どんどん一流の人に会っていけ!」と、私に指導してくださった。(同) 胡錦濤主席とは、その後も2度の友誼の出会いを重ね、インドのネルー初代首相の孫にあたるラジブ・ガンジー首相の一家とは、家族ぐるみの親交を深めている。 80年代後半、世界は冷戦構造の崩壊に向かって激動していた。来るべき21世紀を、断固として「平和の世紀」「生命の世紀」にすべく、名誉会長は対話の戦いを加速させた。 86年(同61年)には、アメリカのキッシンジャー元国務長官を聖教新聞社に迎え、度重なる両者の語らいは、その後、対談集として出版された。 以降も、ソ連のルイシコフ首相、イギリスのサッチャー首相、フランスのミッテラン大統領らと相次いで会見。 アジアでは、タイ王国のプーミポン国王、マレーシアのマハティール首相、シンガポールのリー・クアンユー首相とも会見し、友情を結んできた。
横浜・三ツ沢の競技場で、戸田先生は「原水爆禁止宣言」を発表され、これが現代世界における「立正安国」の遺訓となった。
あの大宣言から半世紀――私は世界を駆けめぐった。
世界と対話を続けてきた。
恩師が遺命された通りに、人類の生存を脅かす魔性の爪を、もぎ取るために!(「随筆 人間世紀の光」〈正義の東海道を讃う㊥〉)
85年(同60年)7月、その11年前から取り組んできた青年部の反戦出版『戦争を知らない世代へ』シリーズ全80巻が完結した。これは戦争の悲惨な記憶を語り継ぐ民衆の記録として、歴史的な重みを持つものである。
86年(同61年)10月、北京で〝核の脅威展〟が開かれ、翌年5月にはモスクワで開催された。まだ冷戦下であった時代に、異なる政治体制の核大国の首都で、民衆に核兵器廃絶を訴える展示が開催されたのである。
89年(平成元年)10月、ラッセル・アインシュタイン宣言に署名した、パグウォッシュ会議会長のロートブラット博士と会見。核廃絶こそ人類の喫緊の課題であると語り合った。
翌月には、かつて東西冷戦の象徴であった「ベルリンの壁」がついに民衆の手で崩壊した。壁が建設された61年(昭和36年)、ブランデンブルク門の前に立った名誉会長は、深い決意を込めて「30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう」と展望していた。
名誉会長が、世界に平和の潮流を広げる中、時代は、冷戦の終結へと向かっていった。
平和学の父・ガルトゥング博士は「池田会長と創価学会が『冷戦の終結』に大きな影響を与えたのです」と讃えている。
88年(同63年)の開幕を飾る第1回全国青年部幹部会で、名誉会長は語った。
いよいよ、諸君との対話が重要であり、青年たちに、ありのままの一切を語り、託していく時代が到来したと、私は思っている。広宣流布の未来も、すべて諸君にお願いする以外にない。(第1回全国青年部幹部会でのスピーチ、『池田大作全集』第70巻所収)
第3代会長就任以来、通算339回を数えていた本部幹部会も、同年1月から「第1回」とされた。
〝今再び〟の深い決意が学会全体にみなぎっていた。名誉会長は毎月の本部幹部会でスピーチし、創価の正義と信心の精髄を全同志に、なかんずく後継の青年たちに打ち込んでいった。
さらに89年の8月24日に行われた「第1回東京総会」からは衛星通信システムの運用が始まり、全同志が師のもとで呼吸を合わせて出発できる時代が始まったのである。
数百万の同志が、全国津々浦々の会館に集い、広宣流布を誓い合う「本幹」の衛星中継は、六万恒河沙の地涌の菩薩が雲集した、あの荘厳なる虚空会の儀式にも通じようか。
(中略)
今月も、また、来月も、「本幹」を節に、ともどもに、楽しき使命の歩みを続けよう。
二十一世紀の、広布の希望の山をめざして。(「随筆 新・人間革命」〈本部幹部会とともに〉、『池田大作全集』第129巻所収)