教学特集

(1)基礎教学1

基礎教学1学生部 夏季教学研鑚のために2013 (1)

 「基礎教学1」では、法華経で説かれた万人成仏の法理を説明した「一念三千」の法門や、日蓮大聖人が説いた教判の一つである「五重の相対」について研鑽し、さらに、大聖人が顕された御本尊の意義などを学ぶ。

挿絵

十界

 「十界」とは、生命の状態、境涯を10種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものである。
 十界の法理を学ぶことによって、境涯変革の指針を得ることができる。
 「十界」は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界である。
 このうち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖」という。「四聖」は仏道修行によって得られる境涯である。
 日蓮大聖人は、私たちの生命に具わる六道について、観心本尊抄で次のように述べられている。
 「数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(御書241㌻)
 この御文に基づき、六道の一つ一つについて述べていく。
 【参考書籍】『法華経の智慧[中]』(普及版)

◆地獄界

 地獄は、もとは「地下の牢獄」という意味で、地獄界は苦しみに縛られた最低の境涯をいう。「地」は最低を意味し、「獄」は拘束され、縛られた不自由さを表す。
 大聖人は、観心本尊抄で「瞋るは地獄」(御書241㌻)と仰せである。「瞋り」とは、思い通りにいかない自分自身や、苦しみを感じさせる周りの世界に対して抱く、やり場のない恨みの心である。いわば「生きていること自体が苦しい」「何を見ても不幸に感じる」生命状態が地獄界である。

◆餓鬼界

 餓鬼界とは、欲望が満たされずに苦しむ境涯である。
 餓鬼とは、古代インドではもともと「死者」を意味し、常に飢えて食物を欲しているとされていた。
 大聖人は「貪るは餓鬼」(御書241㌻)と仰せである。際限のない欲望にふりまわされ、そのために心が自由にならず、苦しみを生じる境涯のことである。
 もちろん、欲望そのものには善悪の両面がある。人間は、食欲などの欲望がないと生きていけないし、欲望が人間を向上させるエネルギーとなる場合もある。しかし、欲望を創造の方向に使えず、欲望の奴隷となって苦しむのが餓鬼界である。

◆畜生界

 畜生という言葉は、元来は獣や鳥などの動物を指す。畜生界の特徴は、目先の利害にとれわれ、理性が働かない「愚かさ」である。
 大聖人は「癡は畜生」(御書241㌻)と説かれている。因果の道理が分からず、善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動してしまう境涯である。
 また、「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」(同957㌻)といわれるように、畜生界の生命は、理性や良心を忘れ、自分が生きるためには他者をも害する弱肉強食の生存競争に終始する境涯である。目先のことしか見えず、未来を思考できない愚かさの故に、結局は自己を破滅させ、苦しむのである。

 ※地獄界・餓鬼界・畜生界の三つは、いずれも苦悩の境涯なので「三悪道」という。

◆修羅界

 修羅とは阿修羅、すなわち争いを好む古代インドの神の名である。
 自分と他者を比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強く持つのが修羅界の特徴である。
 他人と比べて、自分が優れて他人が劣っていると思う場合は、慢心を起こして他を軽んじる。そして、他者の方が優れていると思う場合でも、他者を尊敬する心を起こすことができない。また、本当に自分よりも強いものと出会ったときには、卑屈になって諂う。
 自分を優れたものに見せようと虚像をつくるために、表面上は人格者や善人をよそおい、謙虚なそぶりすら見せることもあるが、内面では自分より優れたものに対する嫉妬と悔しさに満ちている。このように内面と外面が異なり、心に裏表がある。
 故に、大聖人は「諂曲なるは修羅」(御書241㌻)と説かれている。「諂曲」とは自身の本音を隠して相手に迎合していくことである。「諂」は「へつらう、あざむく」という意味で、「曲」は「道理を曲げて従う」ということである。

 ※この修羅界は、貪瞋癡の三毒(貪り、瞋り、癡という三つの根本的な煩悩)にふりまわされる地獄・餓鬼・畜生の三悪道と異なり、自分の意思で行動を決めている分だけ三悪道を超えているといえる。しかし、根本は苦しみを伴う不幸な境涯なので、三悪道に修羅界を加えて「四悪趣」ともいう。

挿絵

◆人界

 人界は、穏やかで平静な生命状態にあり、人間らしさを保っている境涯をいう。大聖人は「平かなるは人」(御書241㌻)と述べられている。
 また、大聖人は「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(同1174㌻)と仰せである。因果の道理を知り、物事の善悪を判断する理性の力を持ち、自己のコントロールが可能になった境涯である。いわば、人界は「自分に勝つ」境涯の第一歩といえる。

◆天界

 天界の天とは、古代インドにおいては、地上の人間を超えた力を持つ神々のこと、また、それらが住む世界を意味する。古代インドでは、今世で善い行いをした者は来世に天に生まれると考えられていた。
 仏法では、天界を生命の境涯の一つとして、欲望を満たした時に感じる喜びの境涯として位置づけている。大聖人は、「喜ぶは天」(御書241㌻)と仰せである。

 欲望には、睡眠欲や食欲などの本能的欲望、新しい車や家が欲しいというような物質的欲望、社会で地位や名誉を得たいという社会的欲望、未知の世界を知ったり、新たな芸術を創造したいという精神的欲望などがある。それら、さまざまな欲望が満たされ、喜びに浸っている境地が天界である。
 しかし、天界の喜びは永続的ではないため、目指すべき真実の幸福境涯とはいえない。

◆六道から四聖へ

 以上の地獄界から天界までの六道は結局、自身の外の条件に左右されている。その意味で、六道の境涯は、本当に自由で主体的な境涯とはいえない。
 これに対して、六道の境涯を超え、環境に支配されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行である。
 そして仏道修行によって得られる境涯が声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の境涯である。

◆声聞界・縁覚界

 声聞界と縁覚界は、仏教のなかでも小乗教の修行で得られる境涯とされ、この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼ぶ。
 声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な悟りを獲得した境涯をいう。
 これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、自らの力で仏法の部分的な悟りを得た境涯である。
 二乗の部分的な悟りとは「無常」を悟ることである。「無常」とは万物が時とともに変化・消滅することであり、この真理を自覚し、無常のものに執着する心を乗り越えていくのが二乗の境涯である。
 私たちも日々の生活の中で、自身を含めて万物が無常の存在であることを強く感ずることがある。ゆえに大聖人は「世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや」(御書241㌻)と言われ、人界に二乗界が具わっているとされたのである。
 二乗の境涯を得た聖者は、無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因であるとして、煩悩を滅しようとした。しかし、そのために自分自身の心身の全てを消滅させるという誤った道に入ってしまう。
 

 二乗が得た悟りは、あくまでも部分的なものであり、完全なものではない。しかし、二乗はその低い悟りに安住し、仏の真実の悟りを求めようとしない。師匠である仏の境涯の偉大さは認めていても、自分たちはそこまで到達できるとは考えないのである。また、二乗は自らの悟りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っている。このように「自分中心」の心があるところに二乗の限界がある。

◆菩薩界

 菩薩とは、仏の悟りを得ようとして不断の努力をする衆生という意味である。
 また、仏の教えを人々に伝え弘めて人々を救済しようとする。
 すなわち、菩薩の境涯の特徴は、仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行の途上で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることである。
 現実の世間のなかで、人々の苦しみと悲しみに同苦し、抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)の実践をして、自他ともの幸福を願うのが菩薩の心である。
 二乗が「自分中心」の心にとらわれていたのに対して、菩薩界は「人のため」「法のため」という使命感をもち、行動していく境涯である。
 この菩薩界の境涯の根本は「慈悲」である。大聖人は「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」(御書241㌻)と仰せである。この慈悲の心を万人に向け、生き方の根本にすえるのが菩薩界である。

◆仏界

 仏界は、仏が体現した尊極の境涯である。仏(仏陀)とは覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法である妙法を覚った人のことである。具体的にはインドで生まれた釈尊などである。
 大聖人は、末法の一切衆生を救うために、一個の人間として御自身の生命に仏界の境涯を開き、一切衆生の成仏の道を確立された末法の御本仏である。
 仏界とは、自身の生命の根源が妙法であると悟ることによって開かれる、広大で福徳豊かな境涯である。この境涯を開いた仏は、無上の慈悲と智慧を体現し、その力で一切衆生に自分と等しい仏界の境涯を得させるために戦い続ける。
 仏界は、私たちの生命に本来、厳然と具わっている。大聖人は悩み多き現実生活の中で、人々が仏界の生命を湧現していくための方途として、御本尊を顕された。
 仏界の生命と信心との深い関係について大聖人は、観心本尊抄で「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(御書241㌻)と仰せである。法華経は万人が成仏できることを説く教えだが、その法華経を信じることができるのは、人間としての自分の生命の中に本来、仏界が具わっているからである。
 また、この大聖人の仰せを受けて日寛上人は「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」と述べている。ここでいう法華経とは末法の法華経である御本尊のことで、御本尊を信じて生き抜く「強い信心」そのものが仏界にほかならない。

挿絵

一念三千と十界互具

 ここでは、日蓮大聖人が、末法における万人成仏のために、南無妙法蓮華経の御本尊を御図顕された、理論的支柱の一つである「一念三千の法理」を学ぶ。

◆一念三千の構成

 一念三千とは、法華経に説かれている一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が『摩訶止観』のなかで、体系化して説明したものである。
 「一念」とは、私たちの瞬間瞬間の生命のこと。この一念に、すべての現象、働きを意味する三千の諸法が具わっていることを説いたのが一念三千の法理である。
 「三千」とは、十界互具と十如是、そして三世間を合わせて総合したもの(百界×十如是×三世間=三千)。
 十界と十如是と三世間という、それぞれ異なった角度から生命をとらえた法理を総合し、私たちの生命の全体観を示したものである。

◆十界互具

 まず、十界(「十界」の項を参照)の10種の生命境涯は、十界のいずれの衆生にも欠けることなく具わっている。例えば、人界の衆生にも、地獄界の衆生にも、それぞれ十界の生命が具わっている。このように、十界のおのおのの生命に十界が具していることを「十界互具」という。
 法華経以外の諸経では、十界は相互に隔てられた全く別々の世界として固定化されて捉えられていた。その考え方を根本的に乗り越え、十界のいかなる衆生も仏界を顕し、成仏する可能性をもっているとの変革の原理を説いたのが、法華経の十界互具である。
 「三千」の数量を構成する要素として見れば、十界互具は、十界のおのおのに十界が具わるので「百界」と示される。

◆十如是

 十如是とは、十界の衆生に共通して具わる、生命の10種類の側面を示したものである。十界のいかなる衆生・環境も等しく十如是を具えている。
 私たちが、日々読誦している法華経方便品第2に、次のように示されている。
 「唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂る諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」(法華経108㌻)
 個々に説明すると、如是相の「相」とは、表面に現れた姿、形である。
 「性」とは、内にある性質・性分である。
 「体」とは、主体または本体。
 この相・性・体の三如是は、現象の本体部分である。そして、以下の各如是が、機能面を表している。
 「力」とは、内在している力、潜在的な能力。
 「作」とは、内在している力が外界に現れた作用。
 いわば「力」と「作」は、潜在と顕在の関係である。次の因縁果報は、生命が変化していく因果の法則を示している。
 「因」とは、結果を招く、変化の直接的原因。
 「縁」とは、結果を招く、変化の補助的原因。
 「果」とは、因と縁が和合(結合)して生じた直接的な結果で、生命に刻まれた結果をいう。
 「報」とは、その結果が目に見える形となって現れたもの。
 そして、「本末究竟等」とは、相から報までの九如是が十界のいずれかとして一貫性を保っていること。
 この十如是のそれぞれの在り方は、十界それぞれの生命境涯に応じて異なる。
 例えば、地獄界なら地獄界の十如是として、仏界なら仏界の十如是として、それぞれの異なった働きをあらわす。

◆三世間

 三世間とは、五陰世間、衆生世間、国土世間の三つをいう。「世間」とは差異・差別のことで、十界の差異は、この三つの次元に現れる。
 五陰世間の五陰とは、色陰・受陰・想陰・行陰・識陰のことで衆生の生命を構成する五つの要素をいう。五陰の「陰」とは、〝集まり〟の意味。一切衆生はこの五陰が集まって成立しているとされる。
 「色陰」とは、生命体を構成する物質的側面。
 「受陰」とは、知覚器官である六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)を通して外界を受け入れる心的作用。
 「想陰」とは、受け入れたものを心に想い浮かべる働き。
 「行陰」とは、想陰に基づいて想い浮かべたものを行為へと結びつける心の作用、すなわち意思や欲求の働き。
 「識陰」とは、色陰・受陰・想陰・行陰の作用を統括する根本の心的活動、すなわち認識・識別する心。
 要するに、衆生の心身が五陰であり、五陰の働きが十界によって異なることを「五陰世間」という。
 この五陰が一体となっているのが、それぞれの衆生であり、「衆生世間」とは衆生にも十界の差異があることをいう。
 そして、衆生の住する国土・環境にも、衆生の生命境涯に応じて十界の差異が現れることを「国土世間」という。
     ◇ 
 以上の一念三千の法門によって生命が総合的に把握され、全ての衆生が等しく成仏できることが明らかになった。

◆一念と三千の関係

 日蓮大聖人は観心本尊抄で、一念三千について示した天台大師の『摩訶止観』を引用されている。
 「一心には十法界が具わっている。それぞれの一法界にまた十法界が具わっているので、(一心に)百法界が具することとなる。(この百法界の)各一界には三十種の世間が具わっているので、すなわち百法界に三千の世間が具わっていることになる。この三千世間は一念の心にある。もし心がなければ、三千を具することはない。わずかでも心があれば即ち三千が具わるのである」(御書238㌻、通解)
 「三千の諸法」とは、先ほどの三千の構成で示された、全宇宙に起こりうる、あらゆる現象である。
 一念三千の法理には、二つの側面が示されている。
 すなわち、私たちの一瞬一瞬の生命に、この全宇宙がおさまるという面と、反対に、自身の一念は、三千の諸法に〝あまねく、広くいきわたる〟という面である。
 要するに、瞬間瞬間のわが生命に〝無限の可能性〟が秘められている、という希望の原理が一念三千の法理なのである。

挿絵

五重の相対

 「五重の相対」とは、内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、種脱相対の五つの相対(比較)のことをいう。
 これは、日蓮大聖人御在世当時の日本で知られていた一切の思想、宗教、なかでも仏教の種々の教えを比較検討して、それらの浅深、高低を判定する教判の一つ。現実の苦悩を解決し、人々を絶対的幸福境涯に導く究極の正法を明らかにしていくものである。
 【参考書籍】『開目抄講義』上巻

◆内外相対  因果観に着目

 内外相対とは、内道と呼ばれる仏教と、仏教以外の教えとの相対。大聖人御在世当時に知られていた仏教以外の教えとは、中国の伝統思想である外典(儒教・道教など)と、古代インドの諸宗教である外道(伝統的なバラモン教や、釈尊と同時代に生まれた六師外道と呼ばれる諸思想など)である。
 ここでは、「因果」(原因と結果)という点に着目し、内道である仏教を選び取る。
 仏教は、人間の幸・不幸に視点を当てた因果を的確に説いている。一方で、仏教以外の諸宗教はその因果を説かないか、説いても偏った因果観にとどまっている。
 大聖人は開目抄で、古代インド・中国における仏教以外の諸宗教の祖師たちについて、「因果を知らないことは赤ん坊のようなものである」(御書188㌻、通解)と述べられている。
 仏教では、三世(過去世・現在世・未来世)にわたる因果の全体像を明らかにしている。さらに人間の内面に変革の可能性があり、その変革を実現する力があることを洞察する。今世の自身の行いによって、苦悩を安心へ、不幸を幸福へと転換できることを説く。人間がもつ無限の可能性を開き、何ものにも揺るがない絶対的幸福を確立していく教えである。

◆大小相対  自他共の幸福へ

 大小相対は、仏教の中で小乗教と大乗教を比較相対し、大乗教が小乗教よりも勝っていることを明かす。「乗」とは乗り物の意味である。
 小乗教は、出家して修行し、自分だけが悟ることを目指す二乗(声聞、縁覚)のための教えである。小さな範囲の人々しか救えないという意味で、大乗教からみて小乗教は小さな乗り物に譬えられる。
 苦悩の原因は自分自身の煩悩にあると説く小乗教では、煩悩を完全になくした境地として、心身を滅することを目指す生き方となり、結局、真実の救いにはならない。
 ゆえに大乗教の側から、灰身滅智(身を焼いて灰にし、智慧を断滅していく)の教えであると批判された。
 一方、大乗教は自分も他人も共に幸福になろうとする菩薩のための教えである。自分の救いを求めるだけでなく、他の多くの人々を救うことを目指すので大きな乗り物に譬えられる。
 大乗教では、小乗教のように煩悩とともに生命そのものを排除するのではなく、煩悩に覆われていたとしても、生命に菩提(悟り)の智慧を現して、その智慧によって、清浄で力強い生命の境涯(仏界)を確立することを教えている。この法理を煩悩即菩提という。

◆権実相対  万人成仏を説く

 権実相対とは、大乗教を仏の真実の悟りを明かした実大乗教(法華経)と、真実を明かすための準備、方便として説かれた権大乗教に立て分け、権大乗教よりも実大乗教が勝ることを示す。権とは仮の意、実とは真実の意である。
 大乗経典の中でも華厳経・般若経・阿弥陀経・大日経などの法華経以外の諸経では、二乗の成仏や悪人・女人の成仏を否定しており、これは結局、九界と仏界の断絶を説いていることになる。
 これらの教えは、仏の悟りを理解させるための手段(方便)として、当時のインドの人々のさまざまな考え方(人間観・救済者観・宗教観)にそれぞれ合わせた説き方をしたもので、仏の境涯、または悟りの法の一側面を説いたにすぎない。
 権大乗教では、九界と仏界の断絶を説くため、九界の衆生が成仏するには、何度も生まれ変わって、仏の悟りの境地を順次に身につけるという、非常に長い時間にわたっての修行が求められた。
 それに対して、実教である法華経は、一切衆生に仏としての境地(仏界)が本来的に可能性として具わっており、平等に成仏できるという究極の真実のすがた(諸法実相)を強調する。それに基づき、二乗作仏や悪人・女人成仏を説いて「十界互具」が明かされ、九界と仏界の断絶がなくなるのである。 

◆本迹相対  久遠実成の釈尊

 本迹相対では、28品(章)からなる法華経の前半14品である「迹門」と、後半14品である「本門」を比較相対し、本門の教えが勝っていることを示している。
 前半14品は、教えを説く釈尊が権教と同じく衆生を教化するために現した姿(垂迹)のままなので迹門といい、後半14品は、釈尊が仏としての本来の真実の境地(本地)を現したので本門という。
 迹門では、二乗作仏、諸法実相を説いて一切衆生の成仏の法理を明かしたが、教えを説く釈尊は、今世でインドの伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟り(正覚)を得た仏であるとしている。この仏の立場を「始成正覚」という。
 しかし、本門寿量品の説法に至って、これは釈尊の仏としての仮の姿にすぎず、真実の姿ではないことを明らかにする。釈尊は、実は想像を絶するはるか久遠の昔に成仏して以来、種々の姿を現して衆生を教化している永遠の仏であると、真実の姿が明かされた。この仏の立場を「久遠実成」という。
 これによって、仏の生命の常住(過去・現在・未来の三世にわたって存在すること)が明かされ、初めて、迷いの境地にある一切衆生の生命にも仏の境地が常に内在することが示された。
 自身に具わる仏界の生命を覚知して開き現すという、真実の成仏観が明らかになったのである。

◆種脱相対  下種仏法の確立

 種脱相対とは、久遠実成を明かす法華経文上の本門(脱益)と、南無妙法蓮華経を明かす大聖人の文底独一本門(下種益)を比較相対している。
 文底独一本門とは、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている成仏の根本の法を明らかにした大聖人の仏法のこと。
 種脱相対では、末法の衆生は、大聖人の仏法によって成仏できることが明かされる。
 「種脱相対」の「種脱」とは、「下種益」と「脱益」のこと。「下種」は、仏が衆生に初めて成仏の根本の因となる法を教えることをいい、田畑に種を下ろすことに譬えている。衆生は、その法を聞くことによって自身の生命に具わる成仏の因が触発されていく(この利益が「下種益」)。仏となる種であるので仏種という。
 また、仏の教化によって、次第に衆生の生命を整え、成熟させていくことを「調熟」という(この利益を「熟益」という)。そして、最終的に成仏することを「得脱」という(この利益が「脱益」)。
 法華経文上の本門は、他の諸経や迹門の教えによって調熟されてきた衆生を、仏の悟りに至らせる脱益の働きがあり、この教えを聞いた釈尊在世の衆生は得脱することができた。それは、仏から長遠な期間にわたり教化されたことを教えられ、久遠の過去に下種を受けたことを思い起こし、下種の法を覚知したからだ。
 しかし、末法の衆生は、久遠以来、成仏の根本法を信受せず、下種を受けていない。下種すらないので、調熟もなく、釈尊の教えでは成仏することができない。
 大聖人は、成仏の真実の原因となる法が本門寿量品の文底に秘沈されていると仰せである。その法は、釈尊を成仏させ、また、あらゆる仏を成仏させる根本の因となる法である。大聖人は、この「仏種」である根源の法を、南無妙法蓮華経として顕し弘められた。
 末法の衆生は、この南無妙法蓮華経を信受し、自ら唱え、他人にも教え、勧めることで、自身の生命に仏界が湧現し、即身成仏することができるのである。

挿絵

広宣流布

 仏法の目的は、仏の悟りである正法を人々に流布し、万人を最高の幸福境涯、仏の境涯に導くことにある。
 法華経には、「私(釈尊)が入滅した後、末法において、全世界に正法を広宣流布して断絶せず、決して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼などの魔物につけ入らせてはならない」(法華経601㌻、通解)と説かれており、末法に妙法を全世界に流布していくべきことを示している。法華経では、この大事な使命を「地涌の菩薩」に託している。
 日蓮大聖人は、「大願とは法華弘通なり」(御書736㌻)と宣言された。法華経の経文の通りに身命を賭して、いかなる大難も忍び、南無妙法蓮華経の大法を弘められた。まさに、広宣流布こそ日蓮大聖人の根本精神である。
 さらに大聖人は、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(同1360㌻)と仰せである。大聖人のお心のままに世界に妙法を弘通してきた創価学会こそ、広宣流布の使命を担う地涌の菩薩の団体である。
 【参考書籍】『青春対話1』(普及版)、『法華経の智慧[下]』(同)

挿絵

御本尊と受持即観心

 日蓮大聖人は御本尊を御図顕され、各人が自身の胸中の仏界を開いて現し、現実の生活と人生に勝利していく道を確立された。

◆御本尊の意義

 「本尊」とは、「根本として尊敬(尊崇)する」の意で、信仰の根本対象をいう。
 私たちが拝する御本尊は、あらゆる仏を成仏させる「根源の法」であり、一切衆生の胸中にある「仏種」である南無妙法蓮華経を顕された御本尊である。
 日蓮大聖人は「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(御書1124㌻)と仰せである。根源の妙法である南無妙法蓮華経を体得された大聖人の御生命を現されたのが、御本尊なのである。
 私たちは、この御本尊を対境と定め、信を立てることができる。この確たる信を立てて南無妙法蓮華経を唱えていけば、私たち自身が南無妙法蓮華経の大法と一体となり、仏界を現していくことができる。
 また大聖人は御本尊について、「法華弘通のはたじるし」(同1243㌻)と仰せである。つまり、御本尊への信を広げていくことが、広宣流布の指標になるのである。

◆受持即観心

 大聖人が出現される以前は、法華経の法理をもとに瞑想して自身の心を見つめていくことが成仏するための修行だった。この瞑想を「観心」という。
 天台大師は、自己の内なる心を観ずることによって、一念三千の法理を覚知するという観心の修行を説いた。この観念観法の瞑想などの修行は、現実には極めて困難な修行であった。しかも、仏教を受け入れる能力が衰退した末法の衆生にとって、こうした困難な修行は到底、耐えられるものではない。
 それに対して大聖人は、南無妙法蓮華経の御本尊を受持(信受)して題目を唱えていくことが、すなわち観心であると説かれた。
 観心本尊抄には、次のように仰せである。
 「釈尊が成仏するために積んだ修行(因行)と、それによって得た功徳(果徳)の全てが南無妙法蓮華経の五字に具わっている。それゆえに、末法の衆生は、この妙法を受持することによって、釈尊が修行で積んだ因の功徳と、仏果の功徳の全てを、自身に譲り受けることができるのである」(御書246㌻、通解)
 このように、大聖人の仏法においては、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することが、そのまま成仏の根本の原因の修行、すなわち観心となる。このことを「受持即観心」といい、御本尊を「観心の本尊」という。
 したがって、大聖人の仏法では、成仏への修行は、瞑想の修行ではなく、御本尊を受持(信受)して題目を唱えることになる。末法の観心とは、すなわち御本尊への信心である。その意味では、「観心の本尊」は「信心の本尊」ともいえる。
 私たちにとっての「受持」とは、御本尊を信じ、唱題に励むことである。
 この「唱題」も、自行化他にわたる唱題でなければならないと大聖人は仰せになっている。すなわち、真の受持とは「広宣流布を目指す信心」によるものでなければならない。

挿絵

凡夫即極と一生成仏

 一念三千は凡夫成仏の原理であり、その中核の原理となるのが「十界互具」である。
 日蓮大聖人は「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(御書189㌻)、「一念三千は九界即仏界・仏界即九界と談ず」(同256㌻)と仰せである。
 この十界互具の法理の眼目は、九界の衆生の生命に仏界が具わること、すなわち九界の衆生が全て平等に仏に成ることができることを示すところにある。仏界を具えない九界もないし、九界を離れた仏界だけの仏もない。
 「凡夫」とは普通の人間のことを指す。十界互具であれば、普通の人間の身に仏の境涯を開いていける。これを「凡夫即極」とも、「凡夫即仏」ともいう。
 大聖人は「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり」(同1446㌻)と仰せである。成仏とは、人間に具わる本来の仏の境地を現すことであり、人間からかけ離れた特別な存在になることではない。凡夫そのままの身に最高の人間性を開き現すことが大聖人の成仏観である。
 法華経以外の諸経では、「成仏」が説かれていても、少なくとも二つのことが条件とされていた。
 一つは、衆生が悪人であったならば善人に生まれ変わることが必要であり、女性であったならば男性に生まれ変わることが必要であるということである。つまり、悪人や女性が、その身のままで成仏することはできないとされていた。
 二つには、何度も何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、凡夫(九界)の境涯を脱して仏の境涯に到達するとされたことである。
 結局、法華経以外の諸経では、十界互具が明かされないために、九界と仏界は相いれないものとされていた。
 それに対して、法華経では十界互具が説かれることにより、成仏とは「仏という特別な存在に成る」ことではなく、「仏の生命を開く」ことであると説いた。御書には成仏の「成」について「成は開く義なり」(753㌻)と仰せである。
 信心の根本的な目的は、私たち自身が仏の境涯を得ることである。
 御本尊を信受して、自行化他の実践に励むならば、どのような人でも必ず一生のうちに成仏の境涯を得ることができる。これを「一生成仏」という。

(創価新報2013年8月7日号)