教学特集

学生部部長講義のために 開目抄に学ぶ④

学生部部長講義のために開目抄に学ぶ④ テーマ「我日本の柱とならむ」「宿命転換」
「誓願」こそ絶対勝利の力

 これまでの範囲で日蓮大聖人は、法華経を経文通りに実践し、法華経の行者を迫害する三類の強敵を呼び起こして戦ってきたのは、大聖人御自身しかいないことを証明されてきた。今回の範囲では、「我日本の柱とならむ」と師子吼された大聖人の御心境を拝するとともに「宿命転換」の法理について研鑽する。

御文

 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず(御書232㌻1行目~6行目)

通解

 結局のところは、天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟である。
 舎利弗が過去世に六十劫の菩薩行を積み重ねたのに途中で退転してしまったのは、眼を乞い求めたバラモンの責めに堪えられなかったからである。久遠の昔に下種を受けた者、あるいは大通智勝仏の昔に法華経に結縁した者が退転して五百塵点劫、三千塵点劫という長遠の時間を経なければならなかったのも、悪知識に会って惑わされたからである。善につけ、悪につけ、法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業なのである。
 「大願を立てよう。『法華経を捨てて観無量寿経などを信じて後生を期するのならば、日本国の国主の位を譲ろう』『念仏を称えなければ、父母の首をはねるぞ』などと種々の大難が起こってこようとも、智者に私の正義が破られるのでない限り、そのような言い分に決して動かされることはない。その他のどんな大難も風の前の塵に過ぎない。私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」と誓った誓願は断じて破るまい。

挿絵

迷いを破るのは広布への熱情

 果たして、日蓮大聖人は法華経の行者なのだろうか。であれば、なぜ諸天善神の加護の働きがないのだろうか――。
 こうした世間・門下の「疑問」に対し、前段までは、経文と道理を用いた説明が続けられてきた。すでに、大聖人が法華経の行者であることの理論的な証明は、完璧になされたといえる。
 しかし、本段にあって大聖人は、人々の迷いの心を根本的に打ち破るために、「誓願」という法華経の行者の魂を示されていく。
 まず、冒頭の「詮ずるところは」の一節には、〝これまでいろいろ説明してきたが、これから最も大事なことを述べよう〟との意味が込められている。
 そして、〝諸天善神が私を捨てるのであれば捨てるがよい。多くの難に遭わなければならないのであれば遭ってもかまわない。わが身命をなげうって戦うのみである〟と言い切られるのである。
 そもそも「諸天善神の守護がないのはなぜか」という周囲の疑問の根底には、環境からの助けを待ち焦がれ、頼みとする惰弱な心が潜んでいる。
 一方、大聖人の誓願には、自らの広宣流布の闘争によって、諸天善神の働きを呼び起こし、理想の社会を目指す「戦う人間の魂」が躍動している。断じて信念を貫かんとの御精神が伝わってくる。
 かつて池田名誉会長は長編詩「青は藍よりも青し」を青年部に贈られた。
 「広布の大河の流れが/歴史の必然であるか否かを/君よ問うなかれ/汝自身の胸中に/自らの汗と労苦により/広布を必然たらしめんとする/熱情のありや無しやを 常に問え」(『池田大作全集』第42巻所収)
 〝いずれ広宣流布は実現するのだろうか〟。こうした疑問そのものに垣間見える受け身の心を喝破し、〝環境がどうあれ、自分が断じて広布を成し遂げてみせる〟との強き誓願を促すかのような一節である。
 まさに、広布一筋に生き抜く熱情こそ、信仰者としての疑いを打ち破る原動力なのだ。
 続いて、人々を救う修行を投げ出した舎利弗など、法華経への不信を起こして苦しみの底に陥った退転者たちが挙げられ、「法華経をすつるは地獄の業なるべし」と結論される。
 なぜ、法華経への違背が、恐るべき地獄の人生を招き寄せてしまうのか。
 それは、法華経への誹謗が、万人に内在する仏性の否定に直結するものであり、この不信の根源である「元品の無明」にとらわれた人は、地獄・餓鬼・畜生といった苦しみの生命状態を流転するほかないからである。
 法華経の行者への迫害も、この無明から必然的に起こる働きである。
 次に大聖人は、「日本国の位を譲ろう」との誘惑や「父母の頸を刎ねる」との脅迫などにも、御自身の正義が破られるのでない限り、屈することはないと仰せである。どのような大難も、風の前の塵のように吹き払っていける、と。
 そして大聖人が立宗以来、決然と貫かれてきた誓願が示される。
 「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ」。この〝倒壊した国の精神の柱になろう〟〝混迷した思想の正邪を見分ける眼目になろう〟〝漂流した民衆を救う大船になろう〟との誓いは、未来永遠に破ることはないと断言され、本段を結ばれている。
 絶体絶命の流罪の地で、全人類の幸福を開く宣言をされた大聖人。その民衆救済の「誓願」こそ、法華経の行者の魂であり、日蓮仏法、また学会精神の根幹である。そして、人生の〝悩み〟や〝嘆き〟を突き抜け、自他共の幸福を勝ち開く究極の力なのである。

御文

 我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせしこと・かずしらず、当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頸を刎こと其の数をしらず此等の重罪はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、果すも余残いまだ・つきず生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり、権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し木をもって急流をかけば波山のごとし睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ(御書232㌻16行目~233㌻5行目)

通解

 私は計り知れない昔からこれまでの間、悪王に生まれて法華経の行者の衣服や食物、田畑などを奪いとってきたことは数えきれない。今の日本国の人々が法華経の諸寺を壊滅させているようなものである。また、法華経の行者の首をはねたことも数しれない。これらの重罪には、報いを受け終わったものもあれば、まだ、終わっていないものもあるだろう。終わったようでも残りの罪がまだ尽きていない。生死の苦悩から離れる時には、必ずこの重罪を消し終わってこそ離れることができる。
 今まで積んできた功徳は浅く軽く、これらの罪は深く重い。爾前経の修行をしていた時には、この重罪はまだ現れなかった。鉄を焼く時に、強く鍛えなければ中の傷は隠れたまま見えない。何度も強く鍛えれば傷が現れる。また、麻の種子を搾る時に、強く搾らなければ採れる油が少ないようなものである。
 今、日蓮が強盛に国中の謗法を責めたので、この大難が起こった。それは、過去の重罪を今世の護法の実践によって招き出したものである。鉄は火にあわなければ黒い。火にあえば赤くなる。木を急流に差し入れて水をかけば、山のような波が起こる。眠っている獅子に手を触れれば大いに吼える。

挿絵

苦難こそ人間革命の好機

 末法の民衆救済への大誓願を明かされた大聖人は、この後、法華経の行者の実践に具わる功徳を説かれていく。
 その功徳の一つとして大聖人はまず「転重軽受」すなわち宿命転換について述べられている。
 今回研鑽する御文の前の部分で、大聖人は般泥洹経を引用されている。そこで説かれる八種の難が御自身の姿と合致することから、大聖人が今世で受けている迫害は、仏法の鏡に照らすならば、過去世における法華誹謗の故であると述べられる。
 そして、それらの迫害や苦しみは、法華経の実践という護法の功徳力によって、今世で軽く受けているのだと示されている。
 これはどのような意味なのだろうか。
 当時の仏教の罪障消滅観の根底には、過去世の悪業の果報を現世から未来世にわたって一つ一つ受けては消していくという、いわば受動的な因果観があった。
 大聖人はこのような因果観のことを佐渡御書で「常の因果」(御書960㌻)と述べられている。しかし大聖人は、御自身が受けている迫害について「日蓮は此因果にはあらず」(同㌻)と仰せである。
 過去世で積んだあらゆる悪業の報いを、本来であれば、未来世にわたって受けないといけないところを、今世において全て現し、消滅させていけると示されている。
 一生のうちに、必ず絶対的幸福境涯を確立できる。これが、日蓮仏法の宿命転換の法理である。
 では、どうすれば過去世の悪業を今世に現していくことができるのだろうか。大聖人は般泥洹経の「護法の功徳力」という言葉に注目されている。
 あらゆる悪業の根源には、万人成仏の法である法華経に背く謗法がある。この法華経の敵を責める「護法」の実践によってこそ、過去世の罪業を現世に「難」という形で招き出すことができるのだ。
 「護法」の実践とは、より具体的に言えば、折伏の実践にほかならない。
 法華経への不信・謗法とは、本質的には「元品の無明」の生命の発動を指す。万人に仏性が具わり、それを開くことで仏になれることを信じられず、法華経の行者を妬み、敵視するのが無明の生命の本質である。
 だからこそ、人々の生命に内在する仏性を強く信じ抜き、勇気と忍耐を持って語り抜く折伏の実践は、自他の無明を打ち破る戦いなのだ。
 大聖人は御自身の大闘争について、「今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし」と仰せである。強く謗法を責めたからこそ、過去の謗法の報いを現世に現し、苦難という形で呼び出したのだ。
 「強く」と仰せの通り、臆病にとらわれた弱々しい実践では宿命の転換は果たせない。そのことを鉄と、麻の種子の譬えを通して示され、勇気を持って謗法を「責めいだす」強い実践こそ肝要であることを教えられている。
 大聖人は兄弟抄で「あなたがたは、法華経を懸命に信じてきたので、過去世の重罪を責め出しているのである。例えば、鉄を十分に鍛え打てば内部の疵が表面に現れてくるようなものである」(同1083㌻、通解)と仰せである。
 まさに、謗法を責め抜く日蓮仏法の実践は、苦難の意味を一変させる。『開目抄講義』で池田名誉会長が綴っているように、法華経の行者にとって大難は「『苦難』というよりも『生命の鍛錬』の意味を持つ」のである。
 苦難を前進への力に。宿命を使命に。この宿命転換の法理を現実社会で体現しているのが、創価の同志である。
 苦悩に直面したとき、ただ悲嘆に暮れ、宿命を嘆くのではない。現実追従の生き方に甘んじるのでもない。「今こそ、宿命転換の時!」「人間革命の好機!」と雄々しく立ち上がっていく力強い生き方を教えるのが日蓮仏法である。
 無限の希望を創り出す大哲学を胸に、われらは朗らかに対話拡大に進みゆこうではないか。

挿絵

池田名誉会長の講義から

 池田名誉会長は、「詮ずるところは」から始まる一段について、次のように講義している。
 「広宣流布は、常に『一人立つ』勇者から始まります。
 思えば、仏教の歴史も、人間の内なる尊極の生命に目覚めた釈尊が『一人立った』瞬間から始まったと言うことができる。
 そして、御本仏であられる日蓮大聖人が、濁世を生きる人間が尊極の生命に立脚して生きていける道を示され、その実現のために大難を覚悟で『一人立たれた』からこそ、末法万年の広宣流布が開幕したのです。
 この大聖人の御心に連なって、わが創価学会は、先師牧口先生、恩師戸田先生が、現代における宗教革命と人間革命の道に一人立ち上がられた。
 私も不二の弟子として一人立ち上がり、未聞の世界広宣流布の道を、切り開いてきました。
 真正の『一人立つ』闘争には、必ず、『二人』『三人』と、勇者が続きます。学会においても、一人また一人と無名の気高き庶民が立ち上がって、今日、地球を包みこむ善と正義のネットワークが築かれてきたのです」(「開目抄」講義、『池田大作全集』第34巻所収)

(創価新報2014年7月2日号)