教学特集

学生部部長講義のために 開目抄に学ぶ⑤

学生部部長講義のために開目抄に学ぶ⑤ テーマ 「不退の信心」「折伏」
民衆の幸福を実現する精神闘争

 前回の範囲で、日蓮大聖人の民衆救済の大誓願を拝し、「宿命転換」の法理について学んだ。今回は、「不退の信心」こそ、成仏の大境涯を勝ち開く要諦であること、そして、大聖人が生涯をかけて貫かれた「折伏」の実践と意義について研鑽する。

御文

 我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし、妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし(御書234㌻7行目~11行目)

通解

 私も、そして私の弟子も、いかなる難があっても疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである。
 天の加護がないからと信仰を疑ってはならない。現世が安穏ではないからと嘆いてはならない。
 私の弟子に朝に夕に教えてきたけれども、疑いを起こして、皆、法華経を捨ててしまったようだ。弱い者の常として、約束したことを大事な時に忘れてしまうものである。妻子をかわいそうだと思うから、現世における別れを嘆くのであろう。生死を多く繰り返すなかで、そのつど親しんだ妻子と、自らすすんで嘆かずに離れたことがあっただろうか。仏道のために離れたことがあっただろうか。どの時も同じ嘆きの別れなのである。
 まず、自ら法華経の信心を破ることなく霊山へゆき、そこから妻子を導きなさい。

挿絵

妙法受持が成仏の要諦

 最初の研鑽範囲は、成仏という大利益が、求めずして自ずから得られること(不求自得)を示された段(御書233㌻6行目~234㌻11行目)の結論部分である。
 この段の初めに日蓮大聖人は涅槃経の「貧女の譬」を引用されている。
 「貧女の譬」とは、わが身を顧みずに子どもを守り抜いた貧女が、子を思う慈愛の功徳によって、死後、求めずして梵天に生まれたという物語である。
 「貧女」とは、一分の慈悲のある「凡夫」を表し、「子ども」は「法華経の信心」を表す。また、「梵天」とは「仏界」を表している。
 大聖人は、貧女が梵天に生まれることができた理由を「詮ずるところは子を念う慈念より外の事なし」と仰せになり、子をいちずに思う慈悲によって、貧女は梵天に生まれたと結論されている。この譬えを通して、大難に屈せず、正法を護持する精神を教えられているのである。
 続いて、大聖人は天台が説いた「一念三千」こそが、成仏の道であると述べられる。一念三千が説かれているのは、法華経のみであり、ゆえに法華経の受持によってこそ、成仏ができるのだ。
 これらを通して、貧女が子を慈しみ、守り抜いたように、どんな状況にあっても法華経を受持し抜くならば、自然に仏界の生命が涌現することを御教示されている。
 続いて「我並びに我が弟子」から始まる、今回の研鑽範囲の一節を述べられる。
 極寒の流刑地にあられながら、苦闘する門下を思いやられ、いかなる苦難に直面しようと、疑わず、嘆かず、不退の信心を貫くならば、必ず仏界に至ることができると励まされている。
 「我並びに我が弟子」との呼び掛けに、〝日蓮に続け!〟〝弟子よ勝て!〟との渾身の叫びが込められていると拝されてならない。
 次に「我が弟子に朝夕教えしかども」とあるように、大聖人は、不惜身命の信心の心構えを、門下に対して常日頃から繰り返し指導してこられた。しかし凡夫は、苦難に直面した「まことの時」には、その心構えを忘れてしまうと仰せである。
 続いて、妻子との別れを例に挙げられ、どのような形であっても妻子との別れは必ず来るものであるから、まず自身が成仏し、妻子を導きなさいと示される。
 目の前のことにとらわれて信心を破られてはいけないと、信心を貫くことの大切さを重ねてご教示されているのである。
 ともあれ、今回の御文で大聖人が妙法への「信」を強調されていることは明確である。
 しかし、強き「信」を貫くべき「まことの時」に限って、疑いを起こしてしまうのが、「つたなき者のならひ」でもある。不信の根源にある「元品の無明」の闇は、それだけ深い。
 前回学んだ「転重軽受」の法理に照らすならば、難が起こったということは、過去世の謗法の罪を軽く受けて消している証しである。その時こそ自身の境涯革命の好機と捉え、強盛な信心を起こしていくべきなのである。
 では私たち学生部員にとっての「まことの時」とは、いつなのであろうか。
 池田名誉会長は、かつて学生部に次のようなメッセージを贈った。
 「まことの時とは、自らが決めて戦うことに帰着する。誰人が決めるものでもない。座して瞑想にふけるよりも、祈って、動いて、書いて、話して、生涯、人々の心の扉を開き、心に崩れぬ平和と幸せの砦を、構築しゆくのである。この現実のなかにのみ、正義があろう」と。
 「朝夕」と常に学んできたことを、いざという時に忘れてしまうかどうか。それは、日々、一瞬一瞬を、どのような姿勢で生きているかに左右されるといえまいか。
 「今この瞬間」こそが「まことの時」であると定め、日々、「行学の二道」に励み抜く。師の呼び掛けに応え、どこまでも広布にまい進する。その連続闘争の中でこそ、いかなる苦難にも微動だにしない、成仏の大境涯が開かれていくことを銘記したい。

御文

 夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし(御書235㌻9行目~11行目)

通解

 摂受・折伏という法門は、水と火のようである。火は水を嫌い、水は火を憎む。摂受を行ずる者は折伏を笑い、折伏を行ずる者は摂受を悲しむ。無智の者、悪人が国土に充満している時は摂受を第一とする。安楽行品に説かれる通りである。邪智の者、謗法の者が多い時は、折伏を第一とする。常不軽品に説かれる通りである。

挿絵

慈悲の対話で無明を打ち破る

 大聖人は、門下に対して、御自身と同じく、いかなる大難にあっても決定した信心を貫くことの重要性を示された後、折伏について論及されていく(御書234㌻12行目から)。
 その冒頭、世間の人々からの批判を挙げられている。
 一つは、念仏や禅を責めるのは大聖人に「争う心」があり、「修羅道」に堕ちるのではないか、という点。
 もう一つは、大聖人は、法華経安楽行品第14の「好んで人や経典の欠点を説いてはならない。ほかの法師たちを軽んじてはならない」との経文に反しているから、諸天善神が大聖人を見捨てたのではないか、との非難である。
 またこれらの批判は世間の人々のみならず、一部の門下にも共通した思いであった。
 こうした中、大聖人は、仏説に摂受と折伏の両方の修行が説かれていることを論じられる。
 摂受とは、相手の見解を認めつつ次第に正法へと導いていくこと。折伏とは、相手の誤った教義・思想を打ち破り、正法に目覚めさせることをいう。摂受と折伏は水と火のように相反するものであり、摂受を実践する者は折伏を笑い、折伏を実践する者は摂受を悲しむと仰せになっている。
 摂受と折伏は、いずれも仏法を教え人を導いていく化導法であるが、大聖人は、「時に適う而已」(同235㌻)や、「取捨宜きを得て一向にす可からず」(同㌻)との注釈を引かれて、摂受・折伏のいずれを用いるかは「時による」のだと結論づけられている。
 この「時」を選ぶ基準として、「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(同235㌻)と述べられる。すなわち、摂受は「無智・悪人」が国土に充満している時の実践であり、反対に「邪智・謗法の者」が多い時は、折伏を第一としなくてはならないということだ。
 大聖人が御在世当時の日本は、法華経に敵対する諸宗の僧たちや、彼らと結託する権力者や信者たち、そして法華経の敵を見ておきながら放置して戦わない天台宗の僧ら「邪智・謗法」の者たちが充満する破法の国であった。
 このような時においては、不軽菩薩が杖木瓦石の迫害の中でも礼拝行を貫いたように、「折伏」を実践すべきであることを示されている。
 謗法とは、万人成仏を説く法華経を誹謗することであり、それは生命の尊厳を否定する無明の働きともいえる。
 大聖人の御生涯は、このような人間をさげすむ思想との間断なき連続闘争であった。
 現代においても、無明の働きは、さまざまな形で現れている。ネット上での言葉の暴力、教育現場でのいじめ、果ては戦争や環境破壊……。さまざまな形での〝暴力〟が渦巻く世界。規模や形は違えど、いずれも生命の尊厳性を否定し、傷つける行為に変わりはない。
 誰しもの生命に潜む無明を打ち破り、真に平和な社会を築きゆく方途――それこそ、一対一の「折伏」なのである。友を尊敬し、幸福を願うゆえの、慈悲の発露が「折伏」なのだ。
 さらに、今回研鑽する範囲のあとで、大聖人は「法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」「慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり」(同236㌻)と涅槃経などを引用し、破邪顕正の戦いの重要性を強調されている。謗法を知りながら放置してしまえば、自身も「仏法中の怨」になってしまう。牧口初代会長もまた、〝悪を放置するのは、結果として悪と同じである〟と喝破した。
 日本においては、物事の白黒をはっきりつけることが好まれず、これまで宗教の正邪が明確にされてこなかった。この日本人の精神的土壌を変革する戦いを貫かれたのが、大聖人であり、創価三代の会長であるといえよう。
 池田名誉会長は、『開目抄講義』の中で、次のように述べている。
 「慈悲の折伏は、人々の心に善を蘇生させ、社会に活力と創造力を広げていくための師子吼にほかなりません。それは、魔を破り、無明を断破し、どこまでも民衆の幸福を実現していく高貴な精神闘争である」
 創価学会はどこまでも「折伏の団体」だ。今こそ、私たち先駆の学生部が、創価の正義を堂々と語り抜き、師匠が開いた世界広宣流布新時代の大道を歩んでいこう。

挿絵

池田名誉会長の講義から

 池田名誉会長は、日蓮仏法の根幹である「信」について『開目抄講義』の中で、次のように述べている。
 「苦難は、人間を強くします。大難は、信心を鍛えます。
 難に挑戦して信心を鍛えぬけば、わが己心に『仏界』を現していくことができる。
 大難が襲ってきても『師子王の心』で戦い続ける人は、必ず『仏』になれる。
 日蓮大聖人の仏法の真髄は『信』即『成仏』です。
 その『信』は、自身と万人の仏性を信ずる『深き信』であることが肝要です。また、何があっても貫いていく『持続する信』でなければなりません。そして、いかなる魔性にも負けない『強靱な信』であることこそが成仏を決定づける」

(創価新報2014年8月20日号)