教学特集

(2)基礎教学2

基礎教学2学生部 夏季教学研鑚のために2013 (2)

 「基礎教学2」では、日蓮仏法の修行の基本である「信・行・学」と、宗教の正しさを検証する基準である「三証」、また、仏法の法理を通して「難を乗り越える信心」について学んでいく。

挿絵

信・行・学

 日蓮大聖人の仏法は、自らの生命の変革と、そこを出発点として安穏な社会の構築を目指すものである。その修行の基本が「信・行・学」の三つである。このうち、どれが欠けても正しい仏道修行にはならない。
 「信・行・学」の在り方について大聖人は、「よくよく心して、信心を強く持ち、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の守護を得ていきなさい。行学の両面の修行に励んでいきなさい。行学が絶えたところに仏法はありません。自分も実践し、人にも教え、導いていきなさい。行学は信心から起こるのです」(御書1361㌻、通解)と仰せである。
 ここでは「信・行・学」のそれぞれについて学ぶ。

◆信

 「信」は信受ともいい、仏の教えを信じて受け入れることである。
 法華経には、釈尊の弟子の中で「智慧第一」といわれた舎利弗も、ただ信受することによってのみ、法華経の法理を体得できたと説かれている。譬喩品に「汝舎利弗すら 尚お此の経に於いては 信を以て入ることを得たり」(法華経197㌻)とあり、これを「以信得入」という。
 日蓮大聖人は、御自身が悟られた宇宙根源の法である南無妙法蓮華経を、御本尊として顕された。私たちにとって、この御本尊を唯一の縁(信仰の対象)として深く信じることが、大聖人の仏法を修行する根本となる。御本尊を信受して唱題に励むことで、自身に内在する仏の生命、無限の可能性を開くことができるのである。

◆行

 「行」とは、御本尊を信受した上での具体的実践のことで、「自行」と「化他」がある。
 「自行」とは、自分が法の功徳を得るための修行、つまり勤行のことである。
 「化他」とは、他者に功徳を受けさせるために、仏法を教え弘めていく実践、つまり弘教のことである。広宣流布のためのさまざまな実践も「化他」になる。
 大聖人は、「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1022㌻)と仰せである。自行化他にわたる実践が、正しい仏道修行なのである。
        ◇ 
 「勤行」とは、御本尊を信じて読経・唱題することをいう。曇った鏡を磨くように、日々の勤行が、生命変革のための具体的実践の一つである。
 また「弘教」について大聖人は、諸法実相抄で「我もいたし人をも教化候へ」「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(同1361㌻)と仰せである。
 自他共の幸福を目指し、日々の勤行の実践とともに、仏法のことを一文一句でも語っていくことが大切なのである。

◆学

 「学」とは、教学の研鑽のことであり、日蓮大聖人が教え遺された「御書」の拝読を根本に、正しい仏法の法理を学ぶことをいう。
 正しい法理を学ぶことによって、より深く完全な「信」に立つことができ、正しい「行」を実践することができる。
 もし教学がなければ、自分勝手な解釈に陥ったり、誤った教えを説く者にだまされたりしてしまう危険性がある。
 大聖人は、「返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし」(同1444㌻)等と、大聖人が認められた御書を繰り返し学んでいくよう仰せになっている。また大聖人の直弟子である日興上人も、「当門流に於ては御書を心肝に染め」(同1618㌻)と御書根本の姿勢を示されている。
 では、どのような心構えで御書を学ぶべきか。池田名誉会長は「御書を拝読する場合は、まず〝真実、真実、全くその通りでございます〟との深い思いで、すなわち、信心で拝し、信心で求め、信心で受けとめていこうとすることが大事です」とつづっている(『新・人間革命』第6巻「若鷲」の章)。
 御書は、どこまでも「信」をもって拝読すべきなのである。

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三証

◆文証・理証・現証

 三証とは宗教の正しさを検証する基準で、「文証」「理証」「現証」の三つをいう。
 「文証」とは、その宗教の教義の拠りどころとなる経文、聖典の裏づけをもっているかどうかということ。日蓮大聖人は、「経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり」(御書482㌻)と、経文上の明確な根拠のある教義を用いるべきであり、経典によらない教えを用いてはならないと戒められている。
 仏教であれば釈尊の教え、つまり経文が基準となる。私たちの場合でいえば、大聖人の「御書」に基づいているかどうかである。
 「理証」とは、その宗教の主張が道理にかなっているかどうかということである。「仏法と申すは道理なり」(同1169㌻)と仰せのように、仏法では道理を重んじる。
 「現証」とは、宗教の教義を実践した結果が具体的にどのように現れるか、ということ。宗教は、人々の生活や人生に大きな影響を及ぼすものであり、その現実の結果が、宗教の勝劣浅深を判断していく基準となる。大聖人は次のように仰せになっている。
 「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(同1468㌻)
 道理とは理証、証文とは文証のことで、御文の通り、大聖人が最も重視されたのが現証である。それは、仏法の目的が、現実に生きる人間を救うことにあるからにほかならない。
 また、この三証のどれか一つでも欠けていれば正しい宗教とはいえない。大聖人の仏法は、理論のうえでも、現実のうえでも、万人が納得できる客観的、普遍的な根拠を持つ宗教なのである。

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難を乗り越える信心

◆三障四魔

 正法への信心が深まり、実践が進むと、それを阻もうとする働きに「三障四魔」がある。
 御書には次のように仰せである。
 「第五の巻に云く『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(1087㌻)
 「三障」とは、煩悩障、業障、報障の三つをいう。「障」とは、障りということで、仏道修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げる働きである。
 「煩悩障」とは、貪り(飽くなき欲望)、瞋り(怒り、恨み)、癡(物事の道理に暗く迷う心)などの自身の煩悩が、信心を妨げることである。
 「業障」とは、自身の生命に刻まれた悪業(悪い行い。仏法では五逆罪や十悪業などが挙げられる)によって生じる仏道修行への妨げであり、兄弟抄では、具体的に妻子等の身近な存在の姿を通して起こる妨げが挙げられている。
 「報障」とは、過去世の悪業の報いとして現世に受けた悪い境涯が、仏道修行の妨げとなることをいう。兄弟抄では、国主・父母等、自身が従わなければならない存在によって起こる妨げが挙げられている。
 次に「四魔」とは、「陰魔」「煩悩魔」「死魔」「天子魔」の四つをいう。「魔」とは、信心修行者の生命から、妙法の当体としての生命の輝きを奪う働きである。
 「陰魔」とは、五陰(肉体や心の働き)の活動が不調となって信心を妨げることである。
 「煩悩魔」とは、貪り・瞋り・癡などの煩悩が信心を破壊すること。
 「死魔」とは、修行者の生命を絶つことによって修行を妨げようとする魔である。また、他の修行者の死によって信心への疑いを生ずることも死魔に負けた姿といえる。
 「天子魔」とは、他化自在天子魔の略で、他化自在天王(第六天の魔王)による働きであり、最も本源的な魔である。
 御書には「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997㌻)とある。
 すなわち、この魔は生命の根本的な迷いから起こるものであり、権力者等の生命にあらわれるなど、いろいろな形をとり、あらゆる力をもって正しい修行者に迫害を加えてくる。
 ここで留意すべきことは、貪瞋癡などの煩悩や、妻子、父母、五陰、死といっても、それ自体が障魔なのではなく、これらに引きずられる信心修行者の弱い生命にとって、三障四魔の働きとなってしまうという点である。
 日蓮大聖人は「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(御書1091㌻)と仰せである。
 三障四魔が競い起こった時こそ、これを成仏への直道と確信し、喜び勇んで乗り越えようとする「賢者の信心」を貫くことが大切である。

◆三類の強敵

 法華経勧持品第13の二十行の偈(詩の形の経文)には、末法に法華経を弘通する者に対して3種類の強い迫害者、すなわち「三類の強敵」が出現すると説かれている。この強敵はそれぞれ第1に「俗衆増上慢」、第2に「道門増上慢」、第3に「僭聖増上慢」と名づけられている。
 「増上慢」とは、種々の慢心を起こし、自分は他人よりも勝れていると思っている者のことをいう。
 第1の「俗衆増上慢」は、法華経の行者を迫害する仏法に無智な衆生をいう。悪口罵詈(悪口や罵ること)などを浴びせ、刀や杖で危害を加えることもあると説かれている。
 第2の「道門増上慢」とは、法華経の行者を迫害する邪智で心がねじ曲がっている比丘(僧侶)である。真実の仏法を究めていないのに、自己の考えに執着し、自分が勝れていると慢心を起こす。そして正法を持った人を迫害してくるのである。
 第3の「僭聖増上慢」とは、表面的には人々から聖者のように仰がれている存在だが、内心は自分の利益のみを貪り、法華経の行者を陥れようとする高僧である。その手口は、国王や大臣等の権力者に、法華経の行者を邪見の者であるなどと讒言し、弾圧を加えるように仕向けるのである。
 これらの迫害者たちによって、末法に法華経を持つ人は、何回も所を追われたりすると説かれている。
 この「三類の強敵」のうち、第1と第2は耐え忍ぶことができても、第3の僭聖増上慢は、最も悪質であるとされる。それは、僭聖増上慢の正体は見破りがたいからである。
 この三類の強敵は、末法に法華経を弘通する時、それを妨げようとして必ず現れてくる。
 日蓮大聖人は、現実に三類の強敵の出現を引き起こしたことをもって、御自身が法華経の行者であることの証明とされている。
 【参考書籍】『開目抄講義』下巻

◆宿命転換

 人生で出あう悩みや苦難の中には、今世の自分の行動や判断に原因を見いだせないものもある。仏法では、このような苦難は過去世で自分が行った行為(宿業)の結果が今世に現れたものととらえる。
 仏法では三世の生命、三世の因果を説く。すなわち、生命は現在世だけのものではなく、過去世・現在世・未来世の三世にわたるものであり、過去世の行為が因となって現在世の結果として現れ、現在世の行為が因となって、未来世の果をもたらすととらえる。
 過去世に悪因があれば現在世に苦果(苦悩に満ちた結果)があり、善因があれば楽果(福徳あふれる安楽の結果)があるとするのが仏教一般で説く因果である。しかし、これでは現在の苦しみの原因はわかっても、それを現在世において直ちに克服することはできない。未来世にわたって生死を繰り返しながら、一つ一つの悪業の罪を清算していく以外に成仏への道はないことになってしまう。
 これに対し、「宿命の転換」を説くのが日蓮仏法である。日蓮大聖人は、佐渡御書の中で、御自身が大難を受けているのは、仏教で一般に言われる通常の因果によるものではなく、過去において法華経を誹謗した故であると述べられている(御書960㌻)。
 これは、万人成仏・人間尊敬・自他共の幸福を説ききった正法である法華経を誹謗すること、すなわち謗法(正法を謗ること)こそが根本的な罪業であり、あらゆる悪業を生む根源の悪であることを教えられている。
 この謗法という根本的な悪業を、正法を信じ、守り、弘めていくという実践によって現在世のうちに転換していくのが、「宿命転換」である。そして、その実践の核心が南無妙法蓮華経の題目なのである。
 大聖人は、自身の生命に霜や露のように降り積もった罪障も、南無妙法蓮華経の題目の慧日(智慧の太陽)にあえば、たちまちのうちに消し去ることができると言われている(同786㌻)。

◆転重軽受

 私たちは人生において、信心に励んでいたとしても、苦難にあうことがある。また、私たちが広宣流布のために行動すると、それを妨げようとする障魔が起こり、必ず難にあう。
 日蓮大聖人は、このような難にあって宿命転換できるのは、むしろ「転重軽受」の功徳であると教えられている。
 転重軽受とは、「重きを転じて軽く受く」と読む。過去世の重い罪業によって、今世だけでなく未来世にわたって重い苦しみの報いを受けていかなければならないところを、現世で正法を信じ、弘めていくと、その実践の功徳力によって、重罪の報いを一時に軽く受けて、罪業をすべて消滅させることができるという法理である。
 その功徳について大聖人は、「地獄の苦みぱっときへて」(御書1000㌻)と仰せになっている。
 苦難は宿業を消して生命を鍛錬する重要な機会となる。そのことを大聖人は、「鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし」(同958㌻)と仰せになっている。
 【参考書籍】『開目抄講義』下巻

◆願兼於業

 苦難に直面しても、信心を貫いて宿命転換する人には、その人にとっての人生の意味が大きく変わる。
 法華経には「願兼於業」の法理が説かれている。偉大な福運を積んだ大乗の菩薩が、悪世で苦しむ人々を救うために、自らの清浄な業の報いを捨てて、わざわざ悪世に生まれることを願うのだ。
 この場合、菩薩としての願いの力で悪世に生まれ、業によって悪世に生まれた人と同じように悪世の苦しみを受ける。
 ここから難の意味をとらえ直すと、信心で難を乗り越える人にとっては、悪世に生きて苦難を受けることは決して宿命ではなく、実は人を救う菩薩の誓願のゆえであり、苦難を共有し、それを乗り越える模範を示すためのものとなる。
 池田名誉会長は『御書の世界』第2巻の中で、この願兼於業の生き方を、「宿命を使命に変える」生き方であると、わかりやすく示している。
 「誰しも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見据えて、その本質の意味に立ち返れば、いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。そして、宿命と戦う自分の姿が、万人の人生の鏡となっていく。
 すなわち、宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。
 『宿命を使命に変える』人は、誰人も『願兼於業』の人であるといえるでしょう。
 だから、全てが、自分の使命であると受け止めて、前進し抜く人が、宿命転換のゴールヘと向かっていくことができるのです」

(創価新報2013年8月21日号)