教学特集

学生部部長講義のために 開目抄に学ぶ①

学生部部長講義のために開目抄に学ぶ① テーマ「本因本果」
自己の使命に目を開け!

 世界広布新時代が開幕し、折伏・弘教と人材拡大の好機が到来した。池田名誉会長は昨年11月、「広宣流布大誓堂」で行われた創立記念勤行会へのメッセージで、「我ら創価の師弟は、広宣流布の大誓願とともに永遠なのであります」とつづった。その広布への烈々たる大誓願を日蓮大聖人が認められた御書こそ「開目抄」である。学生部では本年、「開目抄」を年間拝読御書に定め、名誉会長の『開目抄講義』(上・下巻)を通して学び深めていく。第1回は、御執筆の背景と大意、本因本果の法門について研鑽する。

御文

 華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし(御書197㌻10行目~17行目)

通解

 華厳経をはじめ般若経、大日経などの諸経は、二乗作仏を隠すだけでなく、久遠実成をも隠して説かなかった。これら爾前の諸経典には二つの欠点がある。一つには「差別観を残す故に、まだ方便の教えにとどまっている」といわれるように、迹門の一念三千を隠している。二つには、「始成正覚の仏を説くので、まだ仏の仮の姿を取り払っていない」といわれるように、本門の久遠実成を隠している。この二つの偉大な法門は、釈尊一代の大綱・骨格であり、全経典の真髄である。
 迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて、爾前経の二種の欠点のうちの一つを免れた。しかしながら、迹門ではまだ仏が発迹顕本していないので、真の一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらない。水に映った月を見ているようなものであり、根なし草が波の上に浮かんでいるのに似ている。
 本門に至って、始成正覚を破ったので、爾前・迹門における蔵・通・別・円の四教に説かれたすべての仏果が破られた。四教のすべての仏果が破られたので、四教のすべての仏因も破られたことになる。爾前・迹門に説かれた十界の因果を打ち破って、本門の十界の因果を説きあらわしたのである。
 これこそがまさしく本因本果の法門である。九界も無始無終の仏界に具わり、仏界も無始無終の九界にそなわって、真の十界互具、百界千如、一念三千なのである。

挿絵

背景と大意

 「開目抄」は、佐渡流罪中に御執筆され、文永9年(1272年)2月に四条金吾を通して門下一同に与えられた書である。その分量は、400字詰め原稿用紙にして100余枚に相当する。
 文永8年9月、日蓮大聖人は竜の口の法難に遭われ、続いて佐渡に流罪された。念仏信仰が盛んな佐渡には、大聖人の命を狙う者が多くいた。大聖人は、御生涯のうち最大の苦境の中にあられたのだ。さらに、迫害は大聖人のみにとどまらず、門下も所領没収、追放、罰金などの刑に処されたのである。
 「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(御書1224㌻)、「千が九百九十九人は堕ちて候」(同907㌻)と仰せのように、退転者が続出し、大聖人の教団は、壊滅の危機にひんしていた。
 そうした状況の中、弟子の間にも「大聖人が法華経の行者ならば、なぜ諸天善神の守護がないのか」「守護の働きがないのは、大聖人が法華経の行者ではないからではないのか」との疑いが広がっていた。
 それらの疑いを打ち破り、門下に勇気と確信を送るために、本抄の筆を執られたのである。
 本抄の内容は「標」(主題の標示)、「釈」(主題の解釈・展開)、「結」(結論)の三つに分けられる。一切衆生が尊敬すべき「主師親」が主題であることを「標」し、儒家・外道・内道における主師親を「釈」し、大聖人こそが末法の全民衆を救済する主師親であると「結」ばれている。
 本抄の前半では、一代聖教の高低浅深を判じられ、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている一念三千の法門こそが成仏の法であることを示される。そして日本の諸宗が法華経に背いていた当時の状況下で、大聖人が一人、法華経の行者として立ち上がり、数々の大難を受けてこられたことを述べられている。
 後半では、なぜ諸天の加護がないのか、迫害者に現罰がないのか等、経文に照らして厳密に検証され、御自身が真の法華経の行者であることを明らかにされていく。
 その上で、諸天の加護があるかどうかは問題ではなく、いかなる大難があろうとも妙法流布に生き抜いていくとの大誓願を述べられ、末法にあっては大聖人が、主師親の三徳を具えた存在であることを宣言されて本抄を結ばれている。
 本抄は、大聖人こそが末法の御本仏、すなわち「人本尊」であることを明かされており、「人本尊開顕の書」と呼ばれる。これに対し、翌文永10年(1273年)に御執筆された「観心本尊抄」は「法本尊開顕の書」と呼ばれている。

解説

 日蓮大聖人は「開目抄」の冒頭、一切衆生が尊敬すべきものとして「主師親」の三徳を示され、続いて、儒教、外道、内道で三徳を具えた者として尊敬される人の教えを釈し、諸思想、一代聖教の高低浅深を判じられていく。そして、法華経本門寿量品の文底に、凡夫成仏の大法が秘沈されていることを洞察されている。
 研鑽御文では、まず法華経が説かれるまでの爾前・権教には「二つの失」(二つの欠点)があると指摘される。一つ目は二乗作仏が説かれていないことであり、もう一つは久遠実成が説かれていないことである。
 爾前・権教では、十界が別々の境涯として説かれ、なかでも、仏界と九界には超えがたい断絶があるとされていた。つまり、九界の生命を断じ尽くして初めて成仏できるとされていたのだ。
 法華経迹門に至って諸法実相が説かれたことで、十界のいずれの生命にも仏界が具わっていることが明かされ、理論上では万人の成仏が可能となった。しかし、法華経迹門においても、釈尊は長遠な期間にわたって修行し、今世で初めて成仏したという始成正覚を説いていた。つまり、成仏するためには、何度も生まれ変わって九界の生命を断じ尽くさなければならない「厭離断九」の立場である。
 これを打ち破ったのが法華経本門である。釈尊が五百塵点劫という久遠の昔に成仏し、衆生を救い続けてきたという久遠実成が明かされたのだ。始成正覚の仏という、それまでの仏道修行の「結果」が打ち破られたということは、そこに至るまでの修行、つまり「因」も打ち破られたということである。これまでの成仏の因果が否定され、新たに明かされた成仏の因果を、大聖人は「本因本果の法門」と呼ばれている。
 大聖人はこの法門について、「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて」と仰せである。
 「無始の仏界」と「無始の九界」とは、いずれも寿量品で説き明かされた本果と本因を指している。すなわち、釈尊が成就した本果である仏の生命が永遠であり、その成仏の本因となった菩薩道を行ずる生命も、また尽きることがないと示されているのだ。
 このように、久遠実成の釈尊の生命には、仏界と九界が共に具わっている。「仏」とは、現実世界において九界の生命をいきいきと働かせながら、民衆救済のために永遠に戦い続ける存在にほかならない。
 ところで、寿量品の文上では、釈尊が成就した本果を表に立てて本因本果を示している。そのため、本因である菩薩行については明確に示されていない。
 大聖人は、その本因を、寿量品の文底に秘沈されている南無妙法蓮華経にほかならないと洞察された。
 南無妙法蓮華経への信を立て、不惜身命で自行化他の実践を持続していけば、誰もが無明の生命を破り、仏界を涌現することができる。大聖人によって、法華経文上で釈尊一人のこととして説かれた本因本果の法門が、万人のために開かれたのだ。
 私たちにとって、仏界を涌現しゆく具体的な実践とは、日々の学会活動にほかならない。題目を唱え、友を励まし、折伏に挑戦する。師匠を求めて「行学の二道」に励む。私たちが広宣流布のために真剣に行動する生命に、実は仏界が脈動しているのだ。
 池田名誉会長はつづっている。
 「必死に、また一心不乱に仏を求め抜く。妙法流布のために、一生懸命に戦う。その不自惜身命の心こそ、実は仏なのである」
 世界広布の新たな時代を築く主役は私たち学生部である。自身の使命に大きく目を開き、大聖人に、創価の師弟に連なる不屈の実践で、新時代の2月闘争の先駆を切ろう!

挿絵

題号の「開目」の意義

 池田名誉会長は『開目抄講義』の中で、題号の「開目」の意義について「大聖人に目を開け」という観点から重層的に講義されている。
 日蓮大聖人は文永8年(1271年)9月12日、命に及ぶ竜の口の法難を勝ち越えられ、「発迹顕本」を遂げられた。苦悩を抱えた凡夫という迹(仮の姿)を開いて、内証に永遠の妙法と一体となった自在の御境地である久遠元初自受用報身如来の本地を顕されたのだ。そして、いかなる大難も恐れず、不惜身命の精神で、生涯にわたり民衆救済の大闘争を貫かれた。ここに私たちが大聖人を末法の御本仏と拝するゆえんがあるのだ。
 さらに名誉会長は講義の中で、「開目」の意義の根底には、「民衆への慈悲と信頼がある。それは『民衆に目を開け』と、表現できるものです」と述べている。
 大聖人は、「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(御書234㌻)と仰せの通り、御自身が確立した、この即身成仏の道を弟子にも勧められている。大聖人の闘争に連なっていくならば、いかなる人も成仏は間違いない。
 私たちの誰もが、御本尊への強き信を根本に、自行化他の実践を貫いていけば、いかなる状況にあろうと、自己の身の上に宇宙大の境涯を開いていける。
 私たちはこのことを深く銘記し、大聖人の広宣流布への大誓願を心肝に染めていきたい。

(創価新報2014年2月5日号)