教学特集

学生部部長講義のために 開目抄に学ぶ②

学生部部長講義のために開目抄に学ぶ② テーマ「誓願」「法華経の行者」
師弟の誓いに生き抜こう

 立正安国の大使命に生き抜かれた日蓮大聖人の御一生は、「難に難を加へ非に非をますべし」(御書202㌻)と仰せのごとく、命に及ぶ迫害の連続であられた。それでもなお、大聖人は、末法の「法華経の行者」としての御境地を示され、一切の大難を勝ち越えて、民衆救済の誓いを貫かれた。今回の範囲では「誓願」と「法華経の行者」の意義について学ぶ。

御文

 日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ(御書200㌻9行目~16行目)

通解

 日本国でこのこと(仏教の諸宗が謗法の教えを説いており、人々を悪道に堕とす悪縁となっていること)を知っている者は、ただ日蓮一人である。このことを一言でも言い出すならば、父母・兄弟・師匠からの難、さらには国主による難が必ず襲ってくるであろう。言わなければ、慈悲がないのに等しい。このように考えていたが、言うか言わないかの二つについて法華経・涅槃経等に照らして検討してみると、言わないならば、今世には何事もなくても、来世は必ず無間地獄に堕ちる、言うならば、三障四魔が必ず競い起こる、ということがわかった。
 この両者のなかでは、言うほうをとるべきである。それでも、国主による難などが起きた時に退転するぐらいなら、最初から思いとどまるべきだと少しの間、思いめぐらしていたところ、宝塔品の六難九易とはまさにこのことであった。「我々のような力のない者が須弥山を投げることができたとしても、我々のような通力のない者が枯れ草を背負って、劫火の中で焼けることはなかったとしても、また、我々のような無智の者がガンジス河の砂の数ほどもある諸経を読み覚えることができたとしても、たとえ一句一偈であっても末法において法華経を持つことは難しい」と説かれているのは、このことに違いない。私は、今度こそ、強い求道心をおこして、断じて退転するまい、と誓願したのである。

挿絵

必ず三障四魔が競い起こる

 「謗法」とは、万人成仏を説いた正法である法華経を誹謗することをいう。正法誹謗とは、すなわち、人々の仏性の否定である。
 末法では、人々の機根が劣悪なため、正しい法を見極めることができない。日蓮大聖人は、この法滅の時代においては、世間の法を犯すよりも、仏法に背いて悪道に堕ちる者が多く、しかも、在家よりも僧や尼のほうが悪道に堕ちる者が多いと述べられている。
 そして、一切衆生が悪道に堕ちる〝一凶〟として、浄土宗の道綽・善導・法然らが、法華経を誹謗する邪義を弘めてきたためであると強く非難される。
 鎌倉時代の当時、悪僧が説く邪義によって、謗法の悪縁が国中に充満していた。「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」と仰せの通り、そのことを見抜かれたのが大聖人だったのである。
 このような状況において、正法を弘通するのは至難である。
 事実、一切衆生の救済に生き抜かれた大聖人は、「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」(御書202㌻)とあるように、命に及ぶ数々の大難に遭われた。
 今回の研鑚範囲において、大聖人は立宗時の御心境を述べられている。
 「誤った教義を正し、悪侶を責めていけば、必ず三障四魔が競い起こる。しかし、真実を知りながら言い出さないのは無慈悲であり、今世で何事もなくても来世は必ず無間地獄に堕ちる」――。
 大聖人は、深い思索を重ねられた末に、法華経や涅槃経などの経文に照らして「二辺の中には・いうべし」、つまり、言うべきであると結論された。
 そして、さらに熟慮される中で、法華経に説かれる「六難九易」を思い起こされる。
 法華経宝塔品第11には、「六難九易」といって、現実には不可能と思われる九つの事柄と、法華経を〝一人のために説くこと〟〝受持すること〟等の六つの実践を比べ、前者の方がまだ易しいと説き、仏滅後の妙法弘通の難しさが述べられている。悪世に妙法を受持し、弘通することが難事中の難事であることを示された上で、釈尊は菩薩たちに対して、正法弘通の誓願を立てるよう勧めている。
 宝塔品では、この六難九易をはじめとして、滅後の弘通を勧めている。法華経は、悪世にあって苦しむ一切衆生の成仏を願っている経典である。
 仏の滅後において、これを実践することこそが、後継の菩薩の使命である。ゆえに釈尊は、いかなる困難があろうとも、妙法流布の戦いを貫くことを、弟子である菩薩に促しているのだ。すなわち、これは「師匠と同じ誓願に立て!」との呼びかけとも言えよう。
 そして大聖人は「強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」と、死身弘法の誓いを立てられたのである。
 『開目抄講義』の中で、池田名誉会長は、次のように語っている。
 「大聖人の生涯の壮絶な闘争を支えた原動力は、ひとえに誓願の力であったと拝することができる。誓願を貫くことによって仏の心と一体化し、生命の奥底から仏界の無限の力を涌現することができることを示し、教えてくださったのである」
 末法において正法を弘通するために必要なものこそ、〝誓願〟なのである。私たちもまた、大聖人と同じ誓願に立つからこそ、自身の仏界を開くことができるのである。

御文

 但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし(御書203㌻11行目~14行目)

通解

 ただし、世間が疑っていることであり、自分も心に疑っていることだが、どうして諸天は日蓮を助けないのか。諸天らの守護神は、仏の前で法華経の行者を守護すると誓願している。
 法華経の行者に対しては、たとえ猿であっても、法華経の行者と讃えて、速やかに仏の前で行った誓願を遂げようと思うべきなのに、それが果たされないのは、この私が法華経の行者ではないのであろうか。
 この疑いは、この開目抄の肝心であり、日蓮一生涯の重大事であるので、随所にこれを書き、そして、疑いをますます強くして答えを示していきたい。

挿絵

忍難と慈悲に勝る大聖人

 立宗宣言以来、破邪顕正の使命に生き抜かれた日蓮大聖人。その御生涯は、経文に説かれる通り、迫害の連続であられた。
 大聖人は、これまでに遭われた数々の難を通して、迫害者の本質について浮き彫りにされる。それは法師品第10に「如来現在猶多怨嫉。況滅度後(仏の在世でさえ、なお怨嫉が多い。いわんや仏の滅後に、さらに怨嫉が多いのは当然である)」とあるように、迫害者の根底には、法華経の行者に対する「怨嫉」がある。
 大聖人は、〝小さな子どもに灸の治療をすると、必ず母を憎む。重病の者に良薬を与えると、口に苦いと嫌がる〟と、譬えを用いて述べられている。正法は、衆生の生命を癒す灸であり、良薬である。しかし、釈尊の在世でさえ、人々は法華経を拒んだ。まして仏の滅後、なかんずく末法においては、なおさら反発が強くなる。
 謗法が充満する末法においては、貪・瞋・癡の生命が強く働くため、正法を弘めようとすれば大難が次々と起こってくるのだ。しかし、大聖人は迫害に屈することなく、むしろそれらを法華経に説かれる「三障四魔」「三類の強敵」が競い起こった姿であるとして、法華経の行者であるとの確信を深められていく。
 大聖人は「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(御書202㌻)と述べられている。仮に、法華経に対する智解は天台・伝教が勝っていても、「忍難」と「慈悲」においては、はるかに大聖人が勝っていると仰せである。末法の法華経の行者としての御境地を示されているのだ。
 しかし、世間の人々には大いなる疑いがあった。
 「開目抄」御執筆当時、大聖人に竜の口の法難、佐渡流罪と、命に及ぶ大難が続いていた。そして、門下に対しても所領没収や追放等の迫害が起こっていたのである。
 法華経の安楽行品第14や陀羅尼品第26には、諸天が法華経の行者を守護することを誓ったと説かれている。〝だが諸天善神の加護がなく、迫害者にも現罰がない。大聖人は、法華経の行者ではないのではないか〟――これが、「世間の疑」であった。
 ここで大聖人は「自心の疑」とも仰せになっている。これは決して御自身が法華経の行者であることを疑われているわけではない。
 ここまでの範囲で、大聖人は既に法華経の行者としての御境涯を明かされている。
 その上で、本抄の御執筆当時、厳しい迫害に直面し、疑いを強めていたと考えられる門下に対して、さらに詳細に大聖人の御境涯を明かし、示されていく。
 すなわち、「自身の疑」としても立てられたこの疑難を打ち破ることで、法華経への不信を一掃し、末法の法華経の行者が誰であるのかを明確に示されていくのである。その意味で、この御文で、疑いこそ「開目抄」の肝心であり、大聖人の御生涯における闘争の最重要事であると仰せなのである。
 大聖人は、今回の範囲以降において、法華経について詳細な考察をされながら疑いを強めていかれる。そして、諸天の加護の有無は問題ではなく、大難が起きようとも謗法を責めていく人こそが、法華経の行者であるとの答えを明らかにされていくのである。
 本年1月に開催された世界広布新時代第3回本部幹部会に対して、名誉会長はメッセージを寄せた。
 「なぜ、我らの使命の人生には、試練が襲いかかってくるのか。それは、一つ一つ、我らが変毒為薬して、三世に崩れざる仏の大境涯を開いていくためです。とともに、どんな困難も、どんな迫害も、どんな宿命も、妙法を持って広宣流布の正義に生き抜く勇者は、必ず必ず勝ち越えていけるという勝利の物語を、現在だけではなく後世へ、示し切っていくためです。そして、はるかな未来の世界にまで、限りない勇気と希望を贈り続けていくためなのであります」
 師匠に連なる誓いを胸に前進すれば、破れない壁はない。新時代の先頭に立つ決意に燃えて、いかなる困難にも負けず、自他共の幸福への勇気の対話を繰り広げていこう!

(創価新報2014年4月5日号)
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