教学特集

学生部部長講義のために 開目抄に学ぶ③

学生部部長講義のために開目抄に学ぶ③ テーマ「深きに就く生き方」「三類の強敵」
広宣流布の主体者と立て

 これまでの範囲で日蓮大聖人は、諸仏・菩薩が法華経によって成仏したことを述べられた。であるならば、成仏の法である法華経を弘める大聖人を、なぜ諸天善神は守護しないのか。疑いを強めていかれた大聖人は、御自身が法華経の行者であるかどうかを精緻に検証される。

御文

 一渧をなめて大海のしををしり一華を見て春を推せよ、万里をわたて宋に入らずとも三箇年を経て霊山にいたらずとも竜樹のごとく竜宮に入らずとも無著菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも二所三会に値わずとも一代の勝劣はこれをしれるなるべし(中略)日蓮は諸経の勝劣をしること華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の弘法にすぐれたり、天台・伝教の跡をしのぶゆへなり、彼の人人は天台・伝教に帰せさせ給はずば謗法の失脱れさせ給うべしや、当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし、大海の主となれば諸の河神・皆したがう須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし(御書222㌻14行目~223㌻4行目)

通解

 一滴の水をなめて大海の塩味を知り、一輪の花を見て春の訪れを察しなさい。万里を渡って宋の国に行かなくても、3年をかけて霊鷲山まで行き着かなくても、竜樹のように竜宮に行かなくても、無著菩薩のように弥勒菩薩に会わなくても、法華経の二処三会に連ならなくても、釈尊一代の経の勝劣を知ることはできるのである。
   (中略)
 日蓮は、諸経の勝劣を知ることにおいて、華厳宗の澄観、三論宗の嘉祥、法相宗の慈恩、真言宗の弘法よりすぐれている。天台、伝教の業績に思いをはせるからである。澄観らは、天台・伝教に帰伏しなかったならば、謗法の罪を免れ得たであろうか。今の世において、日本国で第一に富める者は日蓮である。命は法華経に奉り、名は後世に留めるのである。大海の主となれば、河の神たちは皆したがう。須弥山の王に山の神たちがしたがわないわけがあろうか。法華経の六難九易をきわめれば、一切経は読まなくとも日蓮にしたがってくるのである。

挿絵

日本国に第一に富める者

 日蓮大聖人は、法華経見宝塔品の「三箇の勅宣」、提婆達多品の「二箇の諫暁」、勧持品に説かれる「三類の強敵」を引用され、経文通りの実践で難を呼び起こした御自身こそが「末法の法華経の行者」であると明かされていく。
 今回学ぶ御文の前で、大聖人は「三箇の勅宣」について述べられている。「三箇の勅宣」とは、法華経の会座に集った菩薩たちに対して、釈尊が滅後の弘通を三度にわたって勧めたことをいう。
 大聖人は、三度目の勅宣で説かれている「六難九易」について最も詳しく言及されている。
 「六難九易」とは、乾いた草を背負って火の中に入っても焼けないなど、現実には不可能と思われる九つの事柄と、法華経を〝一人のために説くこと〟〝受持すること〟等の六つの実践を比べ、前者の方がまだ易しいと説き、仏滅後の妙法弘通の難しさを強調した上で、法華経弘通の誓願を立てるよう促したものだ。
 伝教大師は六難九易の意義について、「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり」と述べている。つまり六難九易は、浅い教えを弘めるのは易しく、深い教えを弘めるのは難しいということを教えているのだ。
 そこには、仏が随自意で説き、文底の一念三千という万人成仏の要法が秘沈された法華経こそが最も深い教えである、という教判(教相判釈)がある。
 「開目抄」では、法華経以外の諸経が「六難」に入る教えなのか、「九易」に入る低い教えなのかが論じられている。
 釈尊の意図が法華経にあることが明確であるにもかかわらず、華厳宗などの祖は、自宗の依経を「六難」に入る教えであると判断した。
 大聖人は諸宗の依経が、自経が最も勝れていると説いている箇所を引用しつつ、それはあくまでも対告衆や、時期が限定された範囲の中で最勝としているにすぎないと指摘されている。
 法師品に「已今当」と説かれる通り、過去・現在・未来にわたって説かれる一切の経典の中で、最も勝れた経典は法華経以外にない。
 仏自身の言葉である「六難九易」や「已今当」に惑う諸宗の僧らを大聖人は、「教の浅深をしらざれば理の浅深を弁うものなし」(御書222㌻)と鋭く破折されている。
 そして、御自身が諸経の浅深、法理の浅深を知ることは、澄観、嘉祥、慈恩、弘法よりもはるかに勝れていると仰せになっている。
 そして不惜の実践で法華経を流布するがゆえに、その名を後世に留めると断言され「日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」と大宣言されている。
 さらに、「大海の主」「須弥山の王」との譬えを用いて、六難九易を弁えて法華経の弘通に生きる者は、仏法の王者であることを示されている。
 伝教大師は「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」とも述べている。「丈夫」とは仏のことを指す。爾前諸経の浅い教えではなく、法華経という最深の教えを弘めることこそ、仏の心にかなった実践であるということだ。
 大聖人は、「命は法華経にたてまつり」と仰せの通り、その法華経を不惜身命で実践したがゆえに、「第一に富める」と言われた大境涯を開かれたのである。「富める」とは、社会的地位や財産などではない。〝仏意〟のままに生き抜く御本仏の大境涯を明かされたものと拝せよう。
 流罪地・佐渡の劣悪な環境も、大聖人の偉大な御精神を縛ることはできなかったのだ。
 全民衆を幸福へと導く大哲理を実践し抜く喜び――大聖人に連なり、新たな時代を開く私たち学生部も、いかなる苦難にも負けず、「深きに就く生き方」を貫き通したい。

御文

 仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし・いかがせん・いかがせん、抑たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆへに公家・武家に奏する・誰の僧か数数見擯出と度度ながさるる、日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし、日蓮は法華経の行者にあらず天これを・すて給うゆへに、誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん、仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし(御書230㌻1行目~7行目)

通解

 仏の言葉に偽りはなく、三類の仏敵はすでに国中に満ちあふれている。しかし、仏の言葉が破られようとしているのか、法華経の行者はいない。いったい、どうすればよいのか。そもそも、いったい誰人が、仏教を知らない人々から中傷され、悪しざまにののしられているというのか。いったいどの僧が、刀や棒で打たれているというのか。どの僧が、法華経のために公家や武家に訴えられたというのか。どの僧が、「たびたび追放される」(勧持品)とあるように、何度も流されたというのか。日蓮のほかには、日本国で探し出そうとしても、誰もいない。
 ところが、日蓮は法華経の行者ではない。天が日蓮を捨てられているからである。それでは、いったい誰を今の世の法華経の行者であるとして、仏の言葉を真実としたらよいのか。仏と提婆は身と影のようである。三世永遠に離れない。聖徳太子の時には物部守屋がいた。蓮華が、花と実を同時にそなえるようなものである。法華経の行者がいれば必ず三類の仏敵が現れる。三類はすでに現れた。法華経の行者は誰なのか。求めて師とすべきである。それは、一眼の亀が浮き木に巡りあうようなことである。

挿絵

法華経の行者に迫害は必然

 菩薩たちが釈尊滅後の正法弘通を誓う法華経勧持品。大聖人は続いて、勧持品の中の二十行の偈(詩の形の経文)を引用される。
 そこには、末法に法華経を弘める者に対して3種類の迫害者、すなわち「三類の強敵」が出現すると説かれている。
 第一の「俗衆増上慢」は仏法に無智な衆生。
 第二の「道門増上慢」とは、法華経の行者を迫害する邪智で心がねじ曲がっている僧侶のこと。真実の仏法を究めていないのに、自己の考えに執着し、自分が勝れていると慢心を起こして法華経の行者を迫害する。
 そして第三の「僭聖増上慢」は、表面的には人々から聖者のように仰がれている存在だが、内心は欲望にまみれ、法華経の行者を陥れようとする高僧である。国王や大臣等の権力者に、法華経の行者を邪見の者であるなどと讒言し、弾圧を加えるように仕向けるのである。
 「開目抄」では、法華経の行者の存在を鮮明にするために、具体的に、誰が三類の強敵にあたる存在かを述べていかれる。
 俗衆増上慢は、道門・僭聖増上慢の悪侶を支える大檀那。道門増上慢は、法然をはじめとする念仏宗の僧ら。そして第三の僭聖増上慢の最たる者として、極楽寺良観らを名指しで喝破されている。
 僭聖増上慢は、聖者を装い、人々の尊敬を集めているため、容易に見分けることができない。妙楽大師が「第三最も甚だし後後の者は転識り難きを以ての故に」と述べている通りである。実際に当時、良観は慈善事業や土木事業などを通して「極楽寺の生仏」などとあがめられていた。
 大聖人は「一分の仏眼を得るもの此れをしるべし」(御書229㌻)と仰せになっている。悪を悪と見破るためには、正しい信心を貫き、仏の智慧の眼を磨き抜くことが重要であると、強調されていると拝せよう。
 「当世をうつし給う明鏡なり」(同223㌻)と仰せの通り、経文の引用を通して、三類の強敵が当時の国中に充満していることが確認された。では、法華経の行者はいったい誰なのか。大聖人は研鑽御文の中で、勧持品の一節を一つ一つ引かれながら確認されていく。
 「衆俗に悪口罵詈せらるる」「刀杖を加へらるる」「法華経のゆへの公家・武家に奏する」「数数見擯出と度度ながさるる」――経文に説かれる通りの迫害を事実の上で受けてきたのは、大聖人しかいない。
 「日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし」との一節からは〝誰が、法華経の行者として、仏語を真実としてきたのか。私しかいないではないか!〟との法華経の行者としての烈々たる大確信が迫ってくる。
 続いて、諸天善神の加護がないという点からすれば、大聖人は法華経の行者といえないのではないか、との疑いに触れられる。
 三類の強敵があるのに法華経の行者がいないのでは、仏の言葉は偽りとなってしまう。
 大聖人はここで「身と影とのごとし」「蓮華の花菓・同時なるがごとし」と、法華経の行者がいれば必ず三類の強敵が現れることを強調される。
 そして、三類の強敵を呼び出す法華経の行者が、いかに会い難い存在かを〝一眼の亀〟の譬えを通して示され、悪と戦い抜く法華経の行者こそ、求めて師とすべき存在であることを教えられている。
 池田名誉会長は『開目抄講義』でつづっている。
 「本抄の『開目』とは、〝元品の無明・僭聖増上慢と戦う真の法華経の行者の姿に目覚めよ〟という意味であるとともに、『開目』の真意は、〝師を求め、師とともに魔性と戦い抜く自分自身に目覚めよ〟と、弟子の闘争を呼び掛けられていることにあると拝することができるのです」と。
 正義の大闘争を貫いてきた創価三代の会長。われわれ後継の学生部は、どこまでも偉大な師を求め抜き、妙法を語り抜く師弟不二の実践の中で、使命の人生を大きく開いていこうではないか!

挿絵

池田名誉会長の講義から

 池田名誉会長は『開目抄講義』の中で、「深きに就く生き方」について、次のように講義している。
 「『深きに就く』とは、何よりも自分自身が主体者として、勇敢に広宣流布に立ち上がる戦いです。現代において、この最も困難な戦いを貫いてきたのが、創価学会・SGI(創価学会インタナショナル)です。(中略)まさに『六難』にある『悪世に法華経を説く』『一人のために法華経を説く』『少しでも法華経の意義を問う』という勇気と信念と求道の尊い行動を、来る日も、来る日も、実践してこられたのです」
 「人間の生き方として拝すれば、『浅き』とは惰性であり、安逸であり、臆病です。この惰弱な心を勇敢に打ち破って、『深き信念』と『深き人間の偉大さ』につくのが『丈夫の心』です。(中略)『少しでも成長しよう!』『もう一歩、前進しよう!』『必ず勝利しよう!』と、勇敢に立ち上がっていく。この『深い生き方』を貫いてこそ、真の人生の勝利者になっていける。そのための私どもの日々の信心であり、学会活動なのです」

(創価新報2014年6月4日号)